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カモッラ初の女ボス

アッスンタ・"プペッタ"・マレスカの犯罪人生

『ゴッドファーザー』から『ゴモッラ』まで、マフィア映画の大半はマッチョな男たちが主役で、女たちはいつも脇役である。

しかし現実の犯罪組織には、マイケル・コルレオーネに匹敵するような女ボスがいた。みんなからは「プペッタ(小さなお人形さん)」とあだ名されていた。

1955年、イタリアのナポリ。
妊娠6ヶ月の身重のプペッタが、夫を暗殺した男を殺害し、ナポリの犯罪組織カモッラの初の女ボスとしての名声を勝ち取ったのである。

※マフィア(シチリア)、カモッラ(ナポリ)、ンドランゲタ(カラブリア)、サクラ・コローナ・ウニータ(プーリア)が、イタリアの4大犯罪組織。

刑務所に収監されている間に、プペッタは子供を産み、ゴッドマザーのような存在に変貌した。釈放される頃には、彼女はまるでカモッラの女王のようになっていたのだ。
では、プペッタとは一体、誰だったのか?

1935年1月19日、ナポリ湾に面したカステッランマーレ・ディ・スタービアで──この地は長い間、カモッラの犯罪の温床だった──産声をあげたプペッタは、アッスンタと名付けられた。 
彼女の父親は、地元でも有名な密輸・密航業者アルベルト・マレスカであり、彼女の親戚には兄弟を殺害して懲役7年の刑を宣告されたヴィンチェンツォ・マレスカなどがいた。

アッスンタは、定期的に罪を犯して刑務所とシャバを行き来する家族・親族の中で育った。
家族のうちの誰かが脱獄に成功した日を「ファミリーの記念日」と決めて、毎年盛大に町をあげて祝ったりしていた。

彼女の父も兄弟も伯父たちも、ナイフ技を得意としていたので「電光石火のマレスカ家」と呼ばれていたが、アッスンタも例外ではなかった。
彼女は学校に通うようになると、嫌いなクラスメイトにナイフを突きつけたり、時には重傷を負わせたりした。しかし、彼女を起訴することは(復讐が怖くて)誰も出来なかった。

アッスンタは気性が激しいが、美しい少女になった。

アッスンタ・マレスカ

19歳のとき、彼女は地元の美人コンテストで優勝した。その頃からみんな「プペッタ」と彼女を呼ぶようになった。
そして彼女の運命を決定づける男、バスクアーレ・シモネッティの目に留まり、彼はすぐに結婚を申し込んだ。

パスクアーレもまたカモッラのメンバーで、まずはタバコの密輸に手を染め、次に仲間のアントニオ・エスポージトとともにナポリ中の青果市場の収穫から価格操作、選別までの生産サイクルを管理し、市場を完全に支配した。
パスクアーレは次第に権力を持ち、同胞たちは──女たちも含めて──彼をボスとして頼りにした。
彼について、こんなエピソードがある。

──ある男が恋人を妊娠させ、無責任にも逃亡し、彼女はパスクアーレに泣きついて助けを求めた。すぐに逃亡した男を探し出し、パスクアーレはジッと男の目を見ながらこう言った。
「ここに1万リラある。この金で、お前の結婚式を祝う花を買うべきなのか、それともお前の葬式代にすべきなのか、どちらがいいか選べ」──

プペッタとパスクアーレは1955年4月27日に結婚した。結婚の証人にはパスクワーレの一番の仲間アントニオ・エスポージトが選ばれた。
20歳になったばかりの新婦プペッタはすでに妊娠中だった。

プペッタとパスクアーレの結婚式

500人もの招待客がいる盛大で華やかな披露宴だったが、二人の幸せは長くは続かなかった。

パスクワーレの手中にあった青果市場での抗争事件など色々なトラブルがあり、仲間であったアントニオ・エスポージトを含む地元の連中を怒らせてしまったのだ。
結婚式から3ヶ月も経たない1955年7月15日、アントニオは殺し屋を雇い、もはやライバルとなったパスクワーレを殺害した。
こうして妊娠中の若いプペッタは未亡人となってしまった。

もし、カモッラの家族に、女として生まれてしまったら、周囲から威圧されたまま虐げられ、父親や伯父や兄弟たちに捧げる人生を送るしか方法はなかった。

しかし、プペッタはそのカモッラの「法律」に屈せず、悲しみを自ら解決しようとした。もちろん暴力で。目には目を歯には歯を、である。
なぜなら、それしか方法を知らなかった。
その上、アントニオは彼女にも脅しをかけ始めたからである。プペッタは自らの手で夫の復讐を果たすために、少しずつアントニオを追い詰めていった。

チャンスが訪れたのは、夫パスクアーレが殺害されてから約2ヶ月半後の10月4日、アントニオが夫の墓に現れたときだった。
両手に銃を持ったプペッタは、白昼堂々とアントニオ・エスポージトの体に29発の銃弾を撃ち込んだ。

こうしてアッスンタ・”プペッタ”・マレスカは、10月14日に逮捕され、拘束中に息子パスクアリーノを出産した。そして懲役13年4ヶ月の判決を受けた。

1959年の裁判中、プペッタは常に「妊娠中であり、亡き夫のために正義を求めただけだ」と宣言した。さらに「後悔はしていない」と公言した後「愛のために人を殺したが、彼のほうが私を殺そうとしていた。そして、もし、夫が生き返り、敵が再び夫を殺したとしたら、私はまた同じことをするつもりである」と法廷で語った。
このプペッタの言葉は、当時センセーションを起こし脚光を浴びて、刑務所内でも一躍有名人となった。

プペッタ

しかし、プペッタが服役したのは10年ほどだった。刑務所にいる間、彼女は「名誉ある女性」として優遇を受け、自分のベッドには最高級のシーツが使われ、独房でパーティーを開いたりした。まるでゴッドファーザーとその依頼人のように、他の囚人のために弁護することさえ出来た。
「プペッタはとてもカリスマ性のある女だった」と、ある囚人は彼女について語った。マスコミは彼女を「マダム・カモッラ」や「カモッラの貴婦人」などと呼んで世間を沸かせるような報道を続けた。
刑務所から出所してまもなくの1967年、美しく有名なプペッタに映画の話が持ち上がり、なんと彼女の人生を曖昧に模した映画『ポジリポの犯罪』で自分の役(主演)を演じて再び脚光を浴びた。

自由になったプペッタは、ウンベルト・アンマトゥーロという男と手を組んだ。彼は銃と麻薬の密売人でもあり、当時のカモッラの最も強力で凶悪なボスとして有名だった。

ウンベルト・アンマトゥーロ

ウンベルトは、初めのうちはプペッタを「名誉ある女性」として丁寧に扱い、二人は文字通り犯罪と実生活上のパートナーとなった。そして双子をもうけた。
しかし、ウンベルトは初めの夫以上に悪質だった。
プペッタの幸福は、やはり長くは続かなかった。

1974年、プペッタの18歳になった息子パスクアリーノが誰かに待ち伏せされて殺害された。遺体はとうとう発見されなかった。誘拐されて、石に縛り付けられたまま海に投げ込まれたという話も流れた。
パスクアリーノは母親とウンベルトの関係を憎み、そのことで何度も母親を脅迫していたのだ。
すぐにウンベルト・アンマトゥーロに殺人の容疑をかけられた。
プペッタはこの仮説を受け入れたくはなかったが、証人台に立ったとき「もしアンマトゥーロが殺人を告白していたら、私はためらうことなく、今度は息子のために彼を殺しただろう」と話した。
翌年、ウンベルトは証拠が不十分だったために無罪となったが、プペッタとの関係は破綻した。
プペッタは晩年こう話している。
「私にとってウンベルトはもう存在しない。ただ、彼は私の双子たちの父親であり、子供たちは彼を愛している。私も義務として彼を尊敬する」

1981年、プペッタは、チーロ・ガッリ殺害の扇動者として告発された。検察は終身刑を求刑したが、1985年に証拠不十分で無罪となった。
また、1982年2月13日、カモッラ間の激しい抗争中にプペッタは記者会見を開き、その中でラファエレ・クートロが組織した新カモッラを公然と脅迫した。

ラファエレ・クートロ

※ラファエレ・クートロは1970〜80年代カモッラ間の抗争を引き起こし、数え切れないほどの犯罪を犯して合計50年以上を刑務所で過ごしたボスの一人。

プペッタはまた、クートロを「狂気」と診断して、彼を精神病院へ送り、罪を免れようと計画した医師の殺害を命令したとして逮捕された。この医師は謎の失踪後、ローマの自宅で遺体となって発見されていた。しかし、彼女はまた無罪となった。彼女はその後も銀行恐喝未遂や麻薬密売の罪で逮捕されたが、いずれも無罪だった。

連行されるプペッタ

1986年、プペッタは否定を続けといたが、クートロに対抗するためのカモッラ組織ヌオーヴァ・ファミリアに属しているとナポリ裁判所から認定されたため、彼女の資産没収が命じられた。

2004年、プペッタが所有して住んでいたナポリのアパートは、社会福祉を目的としたナポリ市の事務所となった。住む場所をなくしたプペッタは、生まれ故郷のカステッランマーレ・ディ・スタービアに戻って隠居生活を始め、2021年12月29日に86年間の長い犯罪人生を閉じた。

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