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マリー・ダグー伯爵夫人 3/4

理想と情熱を生きるためにあらゆる犠牲をはらった女の物語

2-ロマンティックな人生

マリー・ソフィー・ド・フラヴィニーは、1805年12月31日フランクフルトで生まれました。
彼女の父であるフラヴィニー子爵は、恐怖政治の間にフランスから逃れた貴族の一人でした。一方、母親は市民階級の女性でしたが、フランクフルトのベートマン銀行家一族の莫大な財産を相続していました。
マリーがわずか4歳のとき、ナポレオンの勅令によって家族は祖国フランスに戻ります。

冬はパリの宮殿、夏はトゥーレーヌ地方のモルティエ城で暮らしながら、マリーは高名な家庭教師たちから、その時代の上流階級の少女として必要とされる教育、すなわち礼儀作法、舞踊、音楽、語学などを学びました。
彼女の人生は、このまま最も輝かしい未来が約束されているように思われましたが、フランス帰国から10年も経たないうちに父親が亡くなり、母親は彼女をイエズス聖心修道院に入学させます。
1824年の夏、修道院を出たときには、彼女はすでに一人前の女性になっていました。

生まれたときから甘やかされ、特権階級と呼ばれる環境で育ったマリーは、非常に誇り高く、少し支配的で気まぐれで、また自己中心的な性格へと成長していました。
しかし、彼女は情熱的で寛大な行動を取ることができる一方で、あらゆる感情を飽くことなく求めてメランコリックな気質もありました。厳格でありながら繊細な美しさを持つ彼女は、やがてパリの一流サロンの中心で多くの人々を魅了するようになります。

マリー・ダグー伯爵夫人

1827年、22歳になったマリーは、自分より15歳年上の古い貴族の家系に属する騎兵隊大佐、シャルル・ダグー伯爵と結婚します。
パリでダグー伯爵夫妻は、当時の高貴な貴族の夫婦が送る典型的な生活を送りました。壮麗な邸宅、多くの召使い、立派な馬車と馬、華やかな舞踏会や夜会、オペラ座の専用ボックス席・・・

時は『若きウェルテルの悩み』の時代であり、燃えるような情熱の時代でもありました。
また、ジョルジュ・サンドのスキャンダラスな男装や、ベルリオーズの音楽革命、バルザックの小説、ラマルティーヌの詩、さらにはヴィクトル・ユーゴーの普遍的な名声が花開いた時代でもありました。
マリーのきらびやかな世界では、思想的・文学的な集まりが盛んに行われていました。そこで議論されていたのは「人類の運命」でした。
愛や理想や死についての情熱的な詩が朗読され、音楽が奏でられました。

ピアノを弾くフランツ・リスト

しかし、この気まぐれで享楽的な世界は、パリ郊外の工業地帯で起こり始めていた社会的動揺をほとんど感じ取ることはありませんでした。14時間労働に苛立つ労働者たちが血を流しながら街頭で叫んでいる、この「不愉快な事件」は、祝福されたパリの上流社会の人々にとっては、常に興味の外の出来事でした。彼らは、ロマン主義的な陶酔と切ない雰囲気に夢中になっていたのです。

このような雰囲気の中、マリーは平凡な結婚生活の退屈さに反発し、情熱と理想に満ちあふれる新しい刺激に完全に虜になっていました。
1833年の冬の夜、音楽の夕べで偉大なリストと出会ったとき、彼女のリストへの熱狂は即座に、そして抑えきれないほどのものになっていました。
音楽、天才、並外れた魅力、少し謎めいた雰囲気・・・ロマン主義的な要素はすべて揃っていたのです。
それはマリーにとって、偉大な愛でした。

フランツ・リスト

出会ってから約1年後、リストとマリーは一緒にフランスを離れます。彼らはスイスやイタリアを訪れながら、5年間も旅を続けました。
最初はジュネーヴに滞在し、アパルトマンを借りて隠遁生活を送りました。マリーは「誰も近づけない、到達できない山頂」に住むというロマンティックな夢と理想に完全に到達したいと思っていました。リストもまた、彼女と同じくらいにロマンティックな夢を愛しており、その計画に熱心に賛同しました。

しかし、リストはずっと部屋に閉じこもり、ピアノの前に座り続けるような男ではありませんでした。
友人からの招待で、再び聴衆の前に立つよう求められると、喜んでそれを受け入れてしまうのです。一度引き受ければ、コンサートは次々と続いていきました。マリーの夢の山頂までの旅はますます長く、遠く、困難になりました。これが彼女の苦悩の原因となります。

1839年10月、予感されていた別れが現実のものとなってしまいました。
永遠の愛と二人きりの情熱的生活という幻想を抱いてフランスを出たマリーは、困難な状況と野心に囚われた男の影となってひっそりと生きることを受け入れることはできなかったのです。

マリーの本質はここにあります。
家族を捨て、さらに愛する人を捨ててでも、自分の夢だけは裏切らないほど勇敢でありながら、本当の意味で他者を愛することができないほど自己中心的なのです。
他者の理由を受け入れること──それこそが、彼女の欲しかった愛の第一歩であるというのに──を拒み続けたのです。

パリに戻ったマリーは「リストの恋人」という肩書きによって、また元の世界の一員となるのに時間はかかりませんでした。彼女は再び多くの人をサロンに迎え入れ、サント=ブーヴ、イタリア人文学者のデ・グベルナティス、ラメネ司祭、詩人のハイネ、さらにはロシアの革命家バクーニンといった人物たちから称賛されました。
また、ジョルジュ・サンドとは論争を繰り広げることもありました。
マリーはパリで執筆活動を始め、ほどなくして「ダニエル・ステルン」という筆名で本を出版し始めます。

まだ、リストとの関係は完全に断ち切られたわけではなく、頻繁な手紙のやり取りや時々は再会したりという状態が続いていました。
この頃の二人は、別離というよりも一時的な関係の中断に過ぎないと信じる時もありましたが、最終的に1844年には手紙も途絶えてしまいました。

その後、マリーの人生は二つの軸を中心に進んでいきました。作家としての仕事と、知的な社交生活です。
彼女の書いたものの中で特に有名なのが、リストとの恋愛を描いた自伝的小説『ネリダ』、ほかには美術と政治を論じたエッセイ『フィレンツェとトリノ』、ダンテとゲーテに関する論文や『1848年革命史』などがあります。また『日記』や『思い出と回想』のために筆を取ることもありました。

1851年、彼女はシャンゼリゼ通りに「メゾン・ローズ」という美しい邸宅を購入し、リストとの間に生まれた3人の子ども、ブランディーヌ、コジマ、ダニエルとともにそこに移り住みました。
1838年、コモ湖畔ベッラージョで生まれたコジマは、後に作曲家ワーグナーの妻となる人物です。
一方、ダグー伯爵との間に生まれた二人の娘のうち生き残った娘クレールは、シャルナセ侯爵と結婚しました。

「メゾン・ローズ」で過ごした時間は穏やかで幸せなものでしたが、幸せな時間は短いものでした。ダニエルは幼くして亡くなりました。
また、1861年には公共の利益という曖昧な理由で、メゾン・ローズは取り壊されてしまいました。この家について語られたマリーの回想録の中には、子供たちの声が響いていたこの家への惜別の思いが記されています。

1876年3月5日、マリーはこの世を去ります。
『イラストラシオン』誌面に追悼記事が掲載され、その記事には、彼女自身が『1848年革命史』の中で書いた言葉がエピグラフとして引用されています。

──たとえすべての危険が自由の中にあり、すべての安寧が隷属の中にあるとしても、私は自由を選び続けます。
なぜなら、自由は生命であり、隷属は死だからです──

彼女は確かに、常に自由を選んできました。その代償を自ら負うことを拒まずに。

──人生を愛しなさい、人生はあなたを愛してくれるでしょう──
(マリー・ダグー『Esquisses morales(1849)』)

3-階級の違い

マリーがL.V.侯爵夫人の館でリストと出会った夜、彼女は非常に興奮して帰宅しました。彼女は『回想録』に「遅く帰宅した。なかなか眠れず、奇妙な夢を見た」と書いています。

翌日、L.V.侯爵夫人が彼女を訪ね、彼女の体調を気遣いました。
「昨日の夜、あまりにも顔色が悪かったものだから、心配しました」
そして、マエストロの態度に関する意味深な観察を加えます。
「そういえば・・・貴女が拍手をしたとき、彼の顔が輝いているのをご覧にならなかった? 貴女にしか目が行っていなかったようでした! 貴女が彼を鼓舞していたと思うのよ!」
マリーは何も答えませんでした。話はそこで終わったかに見えましたが、侯爵夫人は咎めるような様子で再び口を開きました。
「彼に訪問を許可しなかったのは間違いですよ。マエストロを誇らしく、そして幸せにしてあげられるのは貴女だったのに」

『回想録』には書かれていませんが、マリーはこの時点でもまだ沈黙を守っていたかもしれません。
パリの人々から崇拝されるヴィルトゥオーゾと関係を結ぶことに、重大な危険を感じていました。そして、話は意外な方向へ進んでいきます。侯爵夫人の親戚である堅物な紳士がこの話に口を挟み、自分の意見を述べたのです。
「いや、むしろダグー伯爵夫人が、あの音楽家を自宅に招き入れなかったのは正解だと私は思うんだが」
彼はさらに続けて「侯爵夫人に申し上げますが、貴女や他の多くの方々が、このような’’芸術家たち’’を私たちと対等に扱うことに熱心すぎるというのは、いかがなものかと・・・」
これらの言葉は、まるでマリーの夫の口から何度も聞かされた言葉をそのまま反復しているかのようでした。その声には辛辣で、軽蔑の調子が含まれていました。

その瞬間、マリーは決断します。
「侯爵夫人の親戚の不寛容な態度とその言葉が私の答えを決定づけた」と日記に書きました。
すぐに彼女は侯爵夫人からリストの住所を聞き出し、数時間後には家の使用人がリストへ招待状を届けに行き、彼にダグー伯爵家の扉を開かせたのです。

※補足:マリーが「L.V侯爵夫人」として記している人物は、アデル・ラプルマレード伯爵夫人であったことが分かっている。

(続)


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