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マリー・ダグー伯爵夫人 4/4
理想と情熱を生きるためにあらゆる犠牲をはらった女の物語
4- 確固たる意志
リストとの関係の初期、マリー・ダグー伯爵夫人は自分自身の確固たる意志があり、必要があればリストの意志や意向に抵抗できると信じていました。
二人はパリから逃れてジュネーヴで隠遁生活を送っていましたが、リストの友人がマリーに、ジュネーヴで社交界との関係を回復することが有益ではないかと示唆した出来事がありました。
マリーは驚きました。スキャンダルと困惑の中で、マリーとリストがパリを離れて孤独に暮らし、完全に世界から離れている間に、「世界」が彼らのことを気にかけていたことを知ったからです。
あるロシアの貴婦人がマエストロからのピアノ・レッスンを懇願しており、素晴らしい音楽を愛するジュネーヴの人々が、彼の名誉のために宴を企画しようとしていました。さらには、市の有力者たちによって設立された音楽院の指導をリストにお願いしたいという噂さえ流れていました。
結局は、みんながリストのコンサート演奏を期待していたのです。
マリーは、そのようにして自分たちの「孤独と親密さ」が少しずつ壊れてしまうのを感じました。さらに、彼女はあらゆる種類の非難に受けることを想像していました。
彼女は長い時間をかけて色々と考え、リストに決定を任せるべきだという結論に達しました。彼が公の場に再び出ること、それに対応するのは彼の責任でした。
「でも・・・私にまで、社会の中に戻るように求めないでほしい」と彼女は伝えました。「もし、彼がコンサートを行うのなら、私は劇場には足を踏み入れないでしょう」
リストは再びコンサート演奏を受け入れることに大いに興奮しました。
「しかし、条件がある」と彼は付け加えました。「マリー、貴女が私の演奏のために劇場にいてくれること」
マリーは、彼のこの言葉に苛立ちました。
数日後、彼女はボックス席に座りながら、劇場の客席を見下ろしていました。
5-冒険の友情
マリーはデュドヴァン男爵夫人、つまりオーロール・デュパン(ジョルジュ・サンド)と非常に親しい友人でした。ほかにもアルフレッド・ド・ミュッセ、フリードリヒ・ショパンとも親しくしていました。
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マリーの1837年の日記には、ジョルジュ・サンドのノアンの別荘の様子を描写しています。
──私たちは会話を交わし、休息を取り、乗馬を長い時間楽しみました──
その光景は牧歌的に見えます。
その数年後、ジョルジュ・サンドは小説『オラース』の中で、かつての友人マリーをシャイリー子爵夫人というキャラクターに設定して、かなり厳しい肖像を描いています。
──彼女は驚くほど痩せていましたが、その素晴らしい髪はいつも丁寧に整えられていました。彼女には多くの人々に印象を与える優雅さ、いわゆる人工的な美しさがありました。
彼女は知識や教養があり、かつ、その風変わりさを誇っていました。彼女はあらゆることを少しずつ読み、朝に本で学んだことや、前日に重要人物から聞いたことを、まるで自分の話のようにして無知な人々に繰り返していました。彼女は若い文学者や芸術家に対しては、かなり優しく接していました。彼女には、すべてが人工的な高貴さに包まれていました。彼女の歯、胸、心のように──
この二人の女たちの絡み合った友情が、当時の最も著名な男たちとの関係を悪化させました。
まずは、リスト。彼はジョルジュ・サンドの魅力に無関心ではないという噂が立っていました。リストはマリーと一緒にパリからの「ロマンティックな逃避行」をしていたのにもかかわらず、です。
この噂は、アルフレッド・ド・ミュッセがジョルジュ・サンドとリストの友情に嫉妬していたことからも支持されました。
一方マリーは、リストが最も美しいロンドを「ジョルジュ・サンド氏」に捧げたことを許せませんでした。
そこで、ジョルジュ・サンドとショパンの関係を知るやいなや、マリーはサンドに対して「Enchopinée(ショパンに影響を受けた女)」という意味の造語を悪意を込めて作り出しました。
マリーとサンドは、この後、パリで再会した際に一時的に和解したように見えましたが、1841年から1876年の35年間、二人はパリの文学界と社交界で共に過ごしながら、二度と会うことはありませんでした。
8-マリー・ダグーとイタリア
リストとの巡礼の旅の間、マリーはしばしばイタリアを訪れました。この著名な恋人たちは、イタリア半島の華やかな社交界に足を運び、イタリアの名所を訪れました。
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マリーは、ヴェネツィアから湖水地方、ミラノからフィレンツェのジョットの鐘楼に至るまで、自分の好みや意見を率直に表明するのに全くためらいませんでした。イタリア滞在全体としては、彼女にとって満足のいくものだったものの、失望するところも少なくなかったようです。
最初の失望は、ミラノでのスカラ座でした。「大きな船みたいで、装飾も照明も粗末だ」と彼女は思ったようです。そして、ドニゼッティのオペラを鑑賞した際には、彼女はそれを「ロッシーニの劣悪な模倣」と酷評し、その後すぐに「イタリアにおける音楽の衰退は凄まじい」と結論付けました。
また、ミラノのリコルディ家に招待された際には、その寛大で洗練された振る舞いに感謝しつつも、彼らがリストを「ピアノのパガニーニ」と呼んだことに苛立ちを覚えました。
ミラノでの滞在は、彼女にとって「他の場所と同じ空虚さと愚かさを見出した」ようでした。ヴェネツィアでは、書店のカタログは「使用人向けのものに過ぎず」、店には「パリの残り物しか置いていない」と記しました。
ジェノヴァも彼女の好みに合いませんでした。理由は「空間がなく、庭園は貧相で趣味が悪い」からです。また、「馬がいないし、書物もほとんどない。修道士と物乞いだらけだ」と嘆いています。さらにボローニャについては、「構造が悪く、舗装も粗末」と酷評しました。
それにもかかわらず、彼女はイタリアを良い思い出として残しました。晩年には、イタリアこそが彼女が「何よりも充実し、とても幸福な時間を過ごした場所」であったと懐かしんだのです。
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9-愛の終焉
リスト自身の手による何気ないメモが残されています。
──1839年2月。ボローニャ、フィレンツェ、ピサ、ローマへの旅。
ロッシーニとアングル。
もし、まだ力と生命があるなら、ダンテに触発された交響曲を試みる。
それからファウストをテーマにしたもう一つの交響曲を・・・3年以内に・・・そこから3つのスケッチを描くつもりだ。
『死の勝利』(ホルバイン)とダンテの一片、そして『思想』にも心惹かれている──
このメモの傍らに、マリーの手による言葉も残されていました。
──1866年10月15日、サン=リュピサンで再読。
28年、28年後に!
彼は、この28年を一体どう過ごしたのだろう?
そして私は、どうだったのか?
彼は僧籍に入ってAbbé Liszt になり、私はダニエル・ステルン(マリーの筆名)になった。
その間にどれだけの絶望と死、涙、喪失が私たちの間にあったのだろう──
(終)