「哲が句」を語る 「はじまり」について② はじまりの誕生
前回の記事は、世界には始まって終わるものがないということを述べるのに手間取りすぎました。それは私の言いたいポイントではありませんでした。
なぜ人間世界にははじまりやおわりがあるのか、その正体は何なのか、それがこの記事のテーマです。
ところで、前回の記事をお読みいただいた方の中には、「始まって終わるもの、その一番大事なものを忘れてるぞ」とお感じの方もいらっしゃることでしょう。
そうです、人生です、人の一生です、人間の寿命です、生まれて死ぬ人間という存在です。
それがこの記事のテーマです。
同時に「セックス革命」の記事で先送りしていた問題にも触れたいと考えています。まずはその話から。
あなたも私も40億歳。
「セックス革命」の記事でそう述べた。本来、生物は死ぬことはないから、40億年前から「同じ」生物がずっと生きている。だからその意味では40億歳だ。
だがあなたも私ももちろん死ぬ。それは生物がある段階で死ぬという能力を獲得したからだ。
あなたも私も死ぬ。だがその死とは、何が死ぬのか。
あなたも私も、「あなたや私の全部の部分」が死ぬわけではない。死ぬのは「体細胞」だ。「生殖細胞」は死なない。子孫を残さなければ生殖細胞も果ててしまうわけだが、少なくとも生殖細胞は「死ぬ」という能力を持っていない。
いま上で、「果てる」とか「死ぬ」とか、適当な言い回しで述べたが、ここで少し交通整理をしよう。これらの語が意味するのは、大くくりでは「ある秩序が維持されていたものが、その秩序を維持できなくなること」というつもりで述べている。それを「死ぬ」という言葉で表現するならば、単細胞生物も「死ぬ」ことはある。だがそれは私たちが死ぬのとはだいぶ次元の違うことなのではないか。例えば、素粒子が崩壊したり、水分子が電気分解することを「死ぬ」とは言わない。それと同じように、単細胞生物に「死ぬ」という言葉を使うのは、ほぼ比喩表現に近い。
「死ぬ」とは、多細胞で構成された「生命」という秩序が維持できなくなり、秩序を失うことである。ここでポイントとなるのは、多細胞生物はその「死」を「生まれた時からあらかじめ用意」しているという点である。死は必ずしも用意された通りに訪れるわけではない。むしろ、成長の途中で食われるものが大半を占めており、事故や病気で死ぬものも多い。これらの死は、生命以外の存在が秩序を失う場合に近い。だがそのようなアクシデントに遭わなかったとしても、生命は、いずれ必ず死ぬように用意されている。それが生命の持つ最大の特徴だ。
上で、死ぬのは体細胞で、生殖細胞は死なないと書いた。だがそれは正確ではない。死ぬのは体細胞で構成された「多細胞生物という秩序」だ。その秩序、すなわち「生命」が死ぬことで、体細胞は「細胞という秩序」を維持する仕組みを失い、結果として秩序を失う。それは単細胞生物が生存困難な条件下で生き続けられないのと大差ない。それは「死」ではない。
一方、生殖細胞の方は、子孫を残す限り、40億年前に生まれた生物の一部が、今後も死ぬことなく続いていくことになる。
さて、ここに注目していただきたい。
重大な事が起こるのは、生殖細胞と体細胞の分岐の場面だ。
受精卵は卵割を始め、細胞分裂によって次第に多数の細胞でできた塊となっていく。発生という過程が進行していく。その過程のかなり初期の段階で将来の体細胞と生殖細胞は分岐され、生殖細胞はプールされ、体細胞は様々な器官組織へと分化していく。体細胞に分岐した一群の細胞で構成される秩序は、その時点から死へ向かって進んでいくことになる。
生殖細胞、あるいは40億年前から続く生物の側からみれば、体細胞で組織された個体は、生殖細胞を保護・熟成・運搬・交換などを担わせる用務装置に過ぎない。一通りの必要な用務を果たしたのちは、その装置は用済みで廃棄すればよい。一定の使用ののちに廃棄して装置をリニューアルした方が、生物にとって便利、ないしは有利だったのかもしれない。
比ゆ的に言えば、こんな景色が見える。
生物という太い幹が40億年にわたって脈々と伸びている。そこにおできのようなものができて、それが幹にとって必要な機能をしばらく果たす。だが、用済みとなるとおできは幹からぽろっと落ちて消滅していく。体細胞はそのおできだ。
生物がそのおできの仕組みを作ってから10億年単位の時間が過ぎた。生物はそのおできのおかげで首尾よく生物という秩序を維持し続けてきた。
一方、その間に、おできの方もずいぶん様変わりした。我々が普通に「生物の進化」というときに目を向ける大部分は、おできの様変わりの方だ。おできはおできで脈々と独自の流れを続けてきた。それはもはや「生物」とは別系統の流れではないか。
つまり、「生物」の系列と「生命」の系列は別個のものとして考えた方がよいのではないかと思っている。そして、多細胞生物が生まれて死ぬというあり方を作った時点が本当の意味での「生命の誕生」ではないか。死なない生物ではなく、死ぬものとしての生命の誕生である。
(おできができた初期のころは、おできが廃棄される仕組みはなかったかもしれない。長く使っているうちに支障が生じたり、環境の変化で維持できなくなったりして、崩壊したり消滅したりしていたものと思われる。だが、何かの加減で一部のおできが自壊する仕組みを持つようになると、そちらの方が生物の幹にとって必要な機能をよりよく果たすことになり、やがてそれが主流となり、自壊する仕組みを持たないおできが淘汰された。死の誕生はそのような流れで起こったものではないだろうか。何か神秘的な出来事という訳ではなかったと私は想像する。)
さて、最近少々、発生生物学の勉強をした影響で、生物に関する話が長くなってしまった。
本題に戻そう。
死、すなわち生命という秩序の「おわり」を、多細胞生物が生み出した。
死が生み出される前にも、おできができるということは「起こって」いた。しかしそれは「おわり」を伴っていなかった。おわりを伴わずに生まれることは「はじまり」ではない。死というおわりの仕組みを伴って生まれることで初めてはじまりが生じた。
はじまりの誕生である。
始まって終わるという形式はこの時に生まれた。
このようにして我々人間自身が始まって終わるという形式を持った。
我々が世界を把握しようとするとき、始まって終わるという区切りをもって理解しようとする淵源はここにある。
2点、補足します。
人間の意識や精神は、始まって終わるという形式が生まれたことでできた「生命」という秩序の上に生まれました。そのことが、人間が世界を始まって終わるという形式で把握しようとすることの根底にあると考えました。しかし、我々自身が始まって終わるという形式をもったものであることと、我々の意識や思考が世界にはじまりやおわりを区切ることとのつながりは説明できていません。おそらく、意識とか精神とか思考とかいったものは、始まって終わるという形式がないと成立しないということを、何らかの論理的根拠をもって説明できるのではないだろうか、と期待しています。どなたか頭の良い方に説明していただけたら幸いです。
もう1点。今回の記事の中で、この「革命」のネーミングについて触れませんでした。実は私の中でしっくりくる名称が固まっていません。一応「自分革命」と呼んでいます。自分というものがどこから生まれてくるのかということは私にとって大きなテーマであり、その答えが上で述べたはじまりの誕生にあると考えたからです。この場合、「はじまり革命」としてもよいのですが、「はじまりの誕生」というフレーズが気に入っているので、ここは「自分革命 はじまりの誕生」という言い方をすることにしておきます。
自分革命 はじまりの誕生
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