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知らぬ間のダメージ

ごく最近気づいたのですが、
実は人って気付かぬうちに、
自分で自分にダメージを与えているものかもしれません。

例えば、化粧をしている時、お風呂に入っている時、何気ない日常の一コマで、フッと、昔の嫌なことを思い出してしまう。
その時感じた怒りや悲しみをまざまざと思い出す時は、まだいいかもしれません。
「その出来事」と向き合いましょう、という分かりやすい合図ですから。なぜあんなに悔しかったのか、悲しかったのか、じっくり考えて、ダメージをステップに変えていけばいいのだと思います。

でも、
何かあの時、自分が滑稽だったな、とか、
何かあの時、恥ずかしいことしたな、とか、
時々そんなことを思い出すことってありませんか?そういったスルーしてしまいがちな些細な思い出も、ボディーブローのようにじわじわと自分にダメージを与えているのかもしれません。

私は時々、
​「私あの時知ったかぶりして、あんなことを言ったけど、
一緒にいた人ひいたんじゃないかな」、
などと考えて、わーっと叫びたいほど恥ずかしくなることがあります。
そのあと我に返って、そんなつまんないことどうでもいいじゃない、
と自分に言い聞かせて、落ち着きを取り戻していました。

でも、最近はそういう小さなことも、
自分否定に繋がるのじゃないかと思い始めました。
そういう観点で考えると、そもそも「恥ずかしい」って、
他人目線を軸にして考えるから、湧いてくる感情なんですよね。
そこに気づくと、
例の「他人がどう思おうと、どうでもいいのである。」
という警句を思い出し、過去のことなど本当に気にならなくなります。
(実際ほとんどの他人様は私が過去にやらかしたことを、いちいち覚えているほど暇でもない。)

こんなふうに考えられるようになれば、
他人様に「すごい」と思ってもらう必要も無くなるので、
知ったかぶりなんかも、かえって無くなるかもしれません。

あと、もう一つ知らないうちに自分に及ぼすダメージの一つに、
心配や恐怖感があることに気づきました。
私は世界の紛争や虐殺のニュースを見たり、かつての戦争中の本を読むと、
悲惨な出来事が頭から離れなくなる傾向があります。
そんなことが我が身に降りかかったら…と思うと、小さい頃は心配で寝られなくなるほどでした。
今も大してその頃と変わっていません。

でも、悲惨な歴史を忘れず、悲劇を繰り返さないよう願うことと、
悲惨な出来事に怯えることは、似て非なるものだと最近は強く思うようになりました。
グズグズと悲劇の被害者のことを考えて恐怖を感じることは、
自分にダメージを与えます。
それならば、
例えば、
ミャンマーのクーデターに抗議するために署名したほうがいい、
例えば、
コンゴのレアメタルを使った携帯電話を買わないようにすれば、
コンゴの虐殺やレイプの連鎖が終わるかもしれない。
​(ムクウェゲ医師のスピーチなど参照してください)
とにかく自分ができることを誠実にやっていくほうがなんぼかいい、
と考えるようになりました。

こんなふうに自分で自分の足を引っ張っていることに、
少しずつ気づき、少しずつ本来の自分らしさを取り戻すようにする日々です。
毎日1cmずつ楽しいが増えているような気分ですよ。

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