価値観の再構築

今自分の中で行きつ戻りつしながら、自分なりの価値基準を再構築している最中です。

例えば、

先日2年ぶりぐらいに昔の同僚に会いました。
彼女は12月に、婦人科の癌の手術をしたばかりです。
幸い初期だったので、経過観察をしつつ職場復帰しました。
でも、手術痕の痛みがあり締め付けのあるボトムやタイツが履けず、
だぶだぶのパンツで出社しているそうです。
年度末から年初にかけての3、4月は忙しく、
痛みを堪えつつ、土日も含めて連日9時過ぎまで仕事をしているとか。
なんだか、自由な時間を謳歌している自分が申し訳ないような気になりました。

そして数日後、若い頃からの持病と言ってもいい頭痛に見舞われました。
予定もなかったので、一日ゆっくり休んでいました。

こんな時、家事もせず寝たり起きたりしていると、昔の思考がムクムクと頭をもたげます。
私より年上の同僚は病み上がりなのに、あんなに大変な仕事をしている。
えらいなあ。それに比べて私は忙しくもないのに、頭痛で寝込んでいる、とか。

睡眠不足や暴飲暴食が続いたせいで頭痛に見舞われたのだ、
ちょっと控えればよかった、いつも自分がコントロールできなくて、
こういう結果になってしまうのだ、とか。

そしてはたと気づくのです。
私は「死ぬほど仕事をする人は立派な人だ」とか「頑張らない人はダメ人間だ」とか、
「健康で元気であらねばならない」とか、
そういう価値観にがんじがらめになっているんだ、と。
確かに「健康で仕事に邁進する」という状態は、非の打ち所がありません。
でもこれって、不健康な人が蔑まれ、国防のためがむしゃらに頑張ることを奨励された、戦時中の価値観とあまり変わっていないような。
もうそろそろ、この基準変わってきてもいいんじゃないかなあ。

少なくとも私の価値観は変えていこうと思います。
負け犬と言われようとも、仕事が必ずしもできる必要はない。
怠け者と言われようとも、むやみに頑張らなくていい。
そして、いっつもいっつも健康じゃなくていい。
不健康であっても、それは仕方のないことであって、悪いことじゃない。

障害のある人や仕事がない人が生活保護を受けることや、
不登校や引きこもりの人が許せない人って、
自分にも頑張ることを強いている人なんじゃないかな。

そんな縛りを外せば、気づくような気がする。
世の中はもっと生きやすくて楽しいものだと。
そして、自分がうっかり病気になってお金を稼げなくなった時も、
安心して補助を受けられます。
あなたが、もっと頑張れるだろうと批判していた人は自分であり、
そんな人たちも自分も、かけがえのない人生を懸命に生きているのだと思えたら、本当に素敵なことではないでしょうか。
頭の中がお花畑と言われようとも、私はこの価値観を大事にしていくことにします。

これが私の価値観の再構築。
知らないうちに身にしみている、どこかの誰かの価値観を一つ一つ見直している最中なのです。

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