見せたい自分があるらしい
私の中に「こうありたい」という崇高なものですらない、
「こう見せたい」という何かが、まだ巣食っているようです。
それに気づいたのは、つい最近。
その日は冬の終わりの日で、知り合いがタイヤ交換に来てくれる予定でした。(ここは北海道。夏タイヤと冬タイヤの交換が季節の変わり目には必要なのです。)
午前中の9時から11時の間に伺いますとのことでした。
時間に幅があったので、とりあえず家事を始めました。
茶碗を洗う、洗濯機を回す、掃除機をかける…、
いつもと同じルーティン。
でも私の心の中はいつもと違う…そう、焦っているのです。
人が来るなら、このヨレヨレの服を着替えた方がいいかな、
少しぐらいお化粧した方がいいかな、タイヤ交換の間外で見ていた方がいいかな、などなど考えて、のんびり家事ができないのです。
焦っていることに気づいて、自分の気持ちを少し見つめてみました。
そして、私には漠然とした「見せたい自分」があるのではないかと気付きました。
例えば、私は客人が来る時、前の日から家を掃除して、花を飾ったり、お茶の用意やお酒の用意を整えたりして、万全の態勢で臨みます。
親が来る時ですら、念入りに掃除します。
普段はズボラで棚にほこりがかぶってていたり、その辺に雑誌が置かれていたりするのですが、誰にもそんな姿は見せません。
見せたい自分は限りなくパーフェクトに近い自分なのです。
だから気軽に客人を家に迎え入れることができません。
不完全な自分は見せたくないのです。
人を家に招き入れるのが一大イベントなので、結構疲れます。
結果、お茶に人を呼ぶこともあまりなくなってしまいました。
ましてやタイヤ交換に来る人は家に入るわけでもないのに、
何を焦っているのでしょうか?
こういう時は、魔法の言葉を自分にかけるようにします。
「リラックス、リラックス」
私の本心を探ってみると、うちに来る人を、もっとフランクに飾らずお迎えしたいと思っていました。
そして、今までタイヤ交換の間手持ち無沙汰に外で見ていて、
無理やり話題を作って話しかけたりていたのですが、
ああ、タイヤ交換の間ちょっとうち入っていますね、って言えばいいんだ、と気付きました。
10時頃、私は普段着のまま髪だけ整えて、タイヤ交換に来た知り合いをお迎えしました。
「交換している間、家に入っていますね。」と言うと、
「終わったら声かけますね!」と元気に答えてくれました。
終わった後、しばらく楽しく立ち話をして笑って別れました。
これでいいんだなーとつくづく思いました。
「自分がこう見られたい」という思いは、ありのままの自分を許さず、
「相手にこう思われたい」と思うあまり、他人にトンチンカンな気遣いをするようになっていました。
へんてこな世界を自分で作り出して、
生きづらい、疲れた、と勝手に思っていたのです。
自分のままでいることを自分に許すこと。
思っていたより、根が深い自分不信をちょっとずつちょっとずつ解いていっています。
楽しい作業でもあります。