曇りの日、うどんのように伸びる親子
4月25日、ここのところにしては珍しく、薄寒い陽気。
引っ越しと転校が重なって、疲れが出たのかもしれない。軽い風邪をひいて数日学校を休んでいた息子と、昼前まで眠り続けた。
起きた瞬間、第一声で「お腹すいた」と呟く我が子の胃袋の強さにため息をつきながら、気晴らしも兼ねて、近所の讃岐うどん屋さんに歩いて向かう。
昼の3時には店を閉めてしまう、本当に絵を描いたような、地元経営のセルフうどん屋さんである。(わたしは四国に行ったことはないけど、旅行したことがある妹が、だいたいどの店もそんなもん、と話していた)。
こんなにいっぱい食べて、600円行かないのだから、ありがたいことだなあと思いながらあたたかいお出汁を啜る。生姜のすりおろしをこれでもか、とばかりドッサリ入れるのがいつもの食べ方。あまりにドバッと生姜を入れたので、隣で並んでいたおじさんに不審な顔をされた。どう食べようがこちらの勝手なので、放っておいてほしいものである。
地元のお豆腐屋さんから仕入れている冷奴が、疲れた口に優しい。京都の湯豆腐が恋しくなってしまった。
新居の浴槽にたっぷりとお湯をはって、夕飯のための「ブルグルサラダ」をこしらえる。カルディで発見して思わず買ってしまったのだが、要はクスクスのトルコ版のような食べもの。
地場野菜を売っている直売所で手に入れた、新鮮な茎ブロッコリーをたっぷり入れてみた。ツヤツヤした野菜や咲き盛りの花たちをじっと見ていると、自分自身の傷ついた細胞も増えていく気がする。気のせいだけれども、絶対。
キュウリとトマトのプリッとした瑞々しさに救われる。咀嚼できたことで、ああ、私はまだ生きているなと思う。
亡くなった恩師に花を送ったことが、一度だけある。その方は、赤や黄色のカラフルな花たちを見て「僕には眩しすぎるな」と、薄く苦笑していた。
口の中の野菜をグッと飲み込む。わたしは、まだ生きなくてはいけない。
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