やさしさは正義(主の洗礼の祝日)
「彼は傷ついた葦を折らず」というイザヤ書第42章の言葉は,主の洗礼の祝日(今日,日本時間ではもう昨日)に読まれる。今日最後のミサで,司式司祭はこの箇所にミサの最初でも最後でも説教でも聖体拝領前にも言及し,洗礼者ヨハネの厳しい姿とは対照的な心やさしいメシアの性格を強調した。読まれた福音書箇所では,人々が洗礼者ヨハネを見て,この人こそメシアではないかと思っていた,ということが語られるが,司祭はこれについて,「洗礼者ヨハネのような厳しい人物こそ,当時の人々が抱いていたメシア像に近かったからだ」というようなことを説教の中で言っていた。ところがヨハネは人々に,「私の後に,私より優れた者が来る」と言う。そして現れたのは,「傷ついた葦を折らない」者だった。
この日の入祭唱 "Dilexisti iustitiam" を訳してnoteに投稿したばかりなので,奏楽しながらもずっとそれが頭にあった。「あなたは正義を愛し,不正を憎んだ。それゆえ神は,あなたの神は,あなたの仲間たちの前であなたに喜びの油を注いだ」。そこに以上のような説教を聴いて,私にとってはこの入祭唱が新たな意味を獲得した。だいぶ前に,山上の垂訓(の冒頭,真福八端)の「義に飢え乾く者は幸いである」というところがケセン語訳聖書では「やさしさをください、やさしさをくださいと、飢えるがごとく、渇くがごとくに求めて得られずにいる人は幸せなのだ」と訳されている,ということ,また「義」を意味するヘブライ語「ツェダカー」は「施し・慈善」という意味でもあるらしいことから,「やさしさは正義」だとFacebookに書いたことがあるが,この入祭唱で言われている「正義」についても同じことが言えるのではないかと思うのである。
そもそもなんで主の洗礼の祝日に「あなたは正義を愛し……」なのか。神の子が罪ある者と同じように洗礼を受けるのが「正義」なのか。普通の意味ではそうではありえず,現にヨハネは「わたしこそ,あなたから洗礼を受けるべきなのに,あなたが,わたしのところへ来られたのですか」(マタイ3:14)と言っている。
それに対してイエスは「今は,止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは,我々にふさわしいことです」(マタイ3:15)と答える。ここでも「正しいこと」と言われている。私はこのイエスの言葉の意味がもう一つよく分からず,せいぜい,自分の使命として定められたことを果たすべきである,程度のことかと思ってきたが,今はこの言葉も新しい解釈で読める。「正義」「正しいこと」とはこの場合,普通に考えて当然あるべきようにすること,ではなく(もちろん,そういう場合のこともあるが),やはり「やさしさ」であり「施し」なのである。だから,神が人間となり,しかも罪ある者がするように洗礼を受け,つまり私たちの一人になってくれるというのは,「正義」なのである。
そのような「正義」を神の子は愛した。すると天から,「これはわたしの愛する子,わたしの心に適う者」という声があったと書かれている(マタイ3:17)。入祭唱の「それゆえ神は,あなたの仲間たちの前であなたに喜びの油を注いだ」という部分に対応するともいえる。「あなたの仲間たち」というのがまた心憎い。