2020年1月に受講したグレゴリオ聖歌セミオロジーの講習で聞いた話から
2020年1月2日から5日まで,Essen (エッセン) にて,Stefan Klöckner,Franco Ackermansの両講師のもと行われたグレゴリオ聖歌セミオロジーの講習を受講しました。その最中と直後に行なった連続ツイートを読み返しまして,改めて面白いと思ったり,忘れていたけれどもう忘れないようにしたいと思ったりしたものがありましたので,ここにまとめることにしました。
[ ] 内は今加えた補足です。用語の修正も少ししていますが,それは特に示していません。
グレゴリオ聖歌セミオロジーの講習に来ています。私自身にとって興味深かった話だけ雑然と書き並べてゆきます。
グレゴリオ聖歌成立期の3つの詩篇書:Mondsee,Utrecht,Stuttgart。図像などにグレゴリオ聖歌のそれと同じ詩篇解釈がみられるのでたいへん参考になる。
クリスマスと受難とを関連づけて捉えるのは古く (少なくとも教父) からのこと (個人的に,こういう考え方にはバッハなどルター派の文化でなじんでいたので,もっと古くからだというのが新鮮だった)。
同じ「民」でも,populusは神の民・信仰者,gentesは異邦人・不信仰者に用いられている。[←私がこれまで見てきたところでは,少なくとも前者については必ずではないように思います。]
Communioはその日の福音書をただ繰り返すのではない。重要なところに焦点を当てて繰り返す。つまりそれ以外の要素はなるべく削ぎ落としている。
Guido [d'Arezzo] のおかげで旋律は暗記に頼らなくてよくなったが,まさにそれによってグレゴリオ聖歌本来の「言葉 (聖書) を肉とする」霊性は失われた (Joppich)。
Laonでclivis,St. Gallen系でtorculusとなっていることがよくあるが,前者のほうが古い聖歌書である以上,もともとtorculusだったのが1音脱落したとみるのは苦しい。むしろ美学の違いとみるべきではないか。
音節の変わり目のclimacusをLaonがいろいろに書き分けていることにはどうやら意味がある。
「こういうネウマがついていたらこういう機能」という理論が考えられてきたけれども,それによって機械的に判断するのではなく,結局はテキストを読んで「なぜこうなっているのか」を考えることである。そうすることでこそ見えてくるものもある。
グレゴリオ聖歌ではしばしば聖書テキストが多かれ少なかれ変えられているが,それが重大事なのは昔の人においても同じこと。変更されるには必ず重要な理由がある。それゆえ,まさにその変更箇所 (付加要素など) に注意を向けるような旋律がつけられたことがネウマから読み取れる例が多々ある。
諸写本の伝える旋律が驚くほど一致しているのはミサ用聖歌の話であり,聖務日課用聖歌ではそうでもないこともよくある。
もともと複数の語だったのが一語になっている語 (composita) では,中世ラテン語ではアクセントの位置が異なることがある。"propterea", "circumdabit" など。
Codex Hartkerは4人の手で書かれている。
「天におられる私の父の御心を行う人は誰でも,私の兄弟,姉妹,また母なのだ」(マタイ12:50):兄弟・姉妹はともかく「母」ともなるというのはどういうことかというと,宣教することによってほかの人の心にキリストを生む,ということ (グレゴリウス [1世])。
St. Gallen系ネウマでは,自明な要素がいちいち記されていないことが時々ある。例えばQuillisma直前のclivisのepisema (入祭唱 "Rorate" GT 34の "desuper" など)。Laonと比較すると分かる。
時代が下ると人々はtristrophaなどの同音連打に戸惑ったらしく,音が変えられていることがある。
GT 19の5行目,"super":Laonで単音に "a" がついている珍しい例。augeteであれば複数の音に対してつくはず。これは本当にaugeteか? しかしそうでないとしたら,なぜ同じアルファベットを用いるという紛らわしいことをした?
四旬節の木曜にはもとはミサがなかった。この日の聖歌は後で加えられた。
講座内容ではありませんが,休憩中にギリシャ人の受講生から聞いた話
ギリシャの典礼では今でも99.9%単旋律聖歌。
この単旋律聖歌は,少なくとも,3種の半音と2種の全音を持つ。音楽的文脈によって使い分ける。
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