独自ロザリオ (「イエス,復活する」を12場面に分けて黙想するなど)
ロザリオの祈りとは
ロザリオの祈りというのは,簡単にいうと「主の祈りを1回,アヴェ・マリアを10回,栄唱を1回」を1セットとするカトリックの伝統的な祈りの形式の一つです。この1セットを「1連」と呼び,5セット一組で行うことが多くこれを「1環」と呼びます。
このとき,イエス・キリストと聖母マリアの生涯の諸場面を黙想しながら祈るというのが一般的です。黙想することになっている場面は20 (後述のように少し前までは15でしたが) あり,次の通りです (各場面を表す言葉は祈祷書により異なりますが,場面自体は共通です)。
聖母,大天使聖ガブリエルより御告げを受けたもう
聖母,聖エリサベトを訪れたもう
主イエス・キリスト,降誕したもう
主,聖殿に献げられたもう
聖母,主を聖殿にて再び見出したもう
主,洗礼者聖ヨハネより洗礼を受けたもう
主,聖母の御取次ぎに応えたまいカナにて最初のしるしを行いたもう
主,神の国の福音を告げ知らせたまい人々を回心へと招きたもう
主,高き山にて変容したもう
主,御聖体の秘跡を制定したもう
主,ゲツセマネの園にて激しき試みを受けたまい,血の汗を流したまい,独り祈りたまい,ついに御父の御意志を受け入れたもう
主,鞭打たれたもう
主,茨の冠を被らせられたもう
主,十字架を担いたまいて歩みたもう
主,十字架につけられたまい,十字架の上にて長く苦しみたまい,十字架の上にて息を引き取りたもう
主,死者らのうちより復活したもう
主,天に上げられたもう
聖霊,降臨したもう
聖母,天に上げられたもう
聖母,天の元后の冠を授かりたもう
これらのうち1~5を「喜びの玄義」,6~10を「光の玄義」,11~15を「苦しみの玄義」,16~20を「栄えの玄義」と呼びます (「玄義」は「神秘」ともいいます)。これらのうち「光の玄義」ができたのはかなり最近で,教皇ヨハネ・パウロ2世によって導入されました。
これらを各曜日に割り振って,今は月・土曜に喜びの玄義,木曜に光の玄義,火・金曜に苦しみの玄義,日・水曜に栄えの玄義を黙想するというのが一応標準になっているようです。光の玄義が導入される前は,木曜には喜びの玄義,土曜には栄えの玄義でした。
なお,第20場面 (栄えの玄義の第5玄義) を「主の再臨」としていた時代もあったそうです (来住英俊『目からウロコ ロザリオの祈り・再入門』pp. 39–42参照。この本は,いや来住神父のこの「目からウロコ」シリーズは全部,お薦めします)。
御復活特化型ロザリオ
しかし,こういうのは教会暦上の季節に沿って行うようにして,季節の味わいを深めたいと私は思い,特に復活節にそう感じます。
そういうわけで,昨年か一昨年くらいに,イエス・キリストの御復活の諸場面を細かく黙想してゆく独自ロザリオを始めました。内容は次の通りです (初めは10場面くらいでしたが,今年ここまで整いました)。
主イエス・キリスト,死者らのうちより復活したもう (あくまで復活そのものを黙想する)
主,聖母に現れたもう (福音書にはありませんが,福者アンナ・カタリナ・エンメリックの幻視 [邦訳『キリストのご受難を幻に見て』] などに出てきます)
聖婦人ら,朝早く主の御墓に行き天使たちより御復活の知らせを受く
使徒聖ペトロおよび使徒聖ヨハネ,御墓へ走る
主,マグダラの聖マリアに現れたもう
主,エマオに向かう2人の弟子らに現れたもう
主,10人の使徒らに現れたもう
主,使徒聖トマスに現れたもう
主,ガリラヤ湖 (ティベリアス湖,ゲネサレト湖) 畔で弟子らに現れたもう
主と使徒聖ペトロとの問答
主,500人の弟子らに現れたもう
大宣教命令
主,天に上げられたもう
弟子ら,聖母とともに高間 (「上の部屋」) にて一心に祈る
聖霊,降臨したもう
実際に祈るときには,昇天祭を迎えるまでは私は第12場面で止めます。その後第13場面以降を「解禁」して全14場面 (聖霊降臨祭を迎えたら15場面) にしてもよいのですが,昇天祭後は昇天祭後で独自の味わいがある時期ですので,結局その時期はそこに集中するような形にしてしまいました。すなわち
主イエス・キリスト,天に上げられたもう
天使より「ガリラヤの人たち」への言葉 (使徒行伝1:11)
弟子ら,聖母とともに高間にて一心に祈る (×3)
という調子です。
ごらんのように「使える」場面があまりないので,代わりにその日その日のミサの福音書を黙想材料にすることもありました。
歌を用いる
御昇天から聖霊降臨までで「使える」場面が少ない問題のもう一つの解決法として,場面を選ぶ代わりに歌を用いるというのも考えました。
特に,聖務日課で用いられる歌 (詩篇唱につけるアンティフォナなど) というのはその日その日のメッセージを細かい要素ごとに黙想してゆくようなものになっていますので,この目的にはぴったりです。実際,主の昇天の祭日の聖務日課からアンティフォナをいくつか選んで1連の前後に歌うこともありました。
主の昇天の祭日後聖霊降臨祭までは讃歌 "Veni, Creator Spiritus" を (晩課で) 歌う時期ですので,これを1節歌う→ロザリオ1連→次の1節を歌う,という方法も考えられます。
時間はかかりますが,歌を導入したら祈りの時間がけっこう楽しみになるくらいには気に入りました (といってもやはり時間がかかるので,聖霊降臨祭の後今までやめてしまっていますが)。おすすめします。
なお,これでさらに主の祈りとアヴェ・マリアと栄唱を詩篇唱定式で歌えば,いよいよ聖務日課ふうになります。ただ,実際やってみたところ,喉にだいぶ負担がかかってしまいました。これをするときは2人以上で交替で行うのがよさそうです。あるいはちょっと歌ったらしばらくは唱えるようにするのがよいのでしょう。
またもちろん, 「使える」場面が十分あって困らないときにも歌は黙想の助けになります。
これが特にいえるのは主の御復活 (それ自体) を思うときだと思います。福音書にはその場面を記した箇所はありません (誤解を生むといけないので念のため書いておくと,復活後のイエスがいろいろな人に出会うのは描かれているが復活の瞬間やその直後は描かれていない,という意味です) が,この黙想にうってつけのグレゴリオ聖歌があるのです。復活の主日・日中のミサの入祭唱 "Resurrexi" です (リンク先の記事に音源もあります)。
あとは上記「天使より『ガリラヤの人たち』への言葉」を思うときには,それがそのまま歌になっている美しい入祭唱 "Viri Galilaei" を用いると最高です。
「聖土曜日的な諸場面」に特化したロザリオ
金曜日に苦しみの玄義,日曜日に栄えの玄義ときたら,土曜日にはその間にくるものを黙想したくなってきます。というわけで,次のようなものを考えました。少なくともはじめの2場面は土曜日ではなく金曜日に起こったことでしょうが, 「大安息日」の性格に合ってはいると思うのでここに入れました。
ピエタ
主イエス・キリスト,墓に葬られたもう
主,古聖所に降りたもう
主,地獄に降りたもう (地獄を制圧したもう)
聖母,主の御復活を待ち望みたもう
また何かよさそうなものを思いついたら書き加えたいと思います。