波乱万丈の30年:予期せぬ退職、起業、そしてケ・セラ・セラ
こんにちは、広瀬です。都庁を少し見下ろす高層ビルのオフィスで、窓2つ分のスペース(窓際の約4畳くらいの広さ)を独占し、横浜ベイブリッジからレインボーブリッジまで見渡せる絶景を前に、私は安定したサラリーマン生活に別れを告げ、起業という茨の道へと飛び込みました。あれから約30年。今回は、私の波乱万丈な人生を、近年注目を集める「Effectuation理論」と照らし合わせながら振り返ってみたいと思います。今、独立・起業を考えている方や転職を考えている方々には、私の経験が何らかのヒントになるかもしれません。また、現状維持を考えている方々には、私の浅はかな行動がどのような顛末を迎えたのか、反面教師としてお読みいただければ幸いです。
実は、起業当初はEffectuation理論の存在すら知りませんでした。しかし、最近フリーランスとして活動する中でこの理論に出会い、自分の過去を振り返ると、驚くほどこの理論に沿って行動していたことに気づかされました。
私の経験から断言できるのは、一人での起業は孤独で決して楽な道ではないということです。しかし、これからお話する私の経験が、独立・起業を志すあなたの道標となることを願っています。
私のサラリーマン時代は、傍から見れば順風満帆だったかもしれません。しかし、起業を決意してから会社を軌道に乗せるまでの道のりは、決して平坦なものではありませんでした。睡眠時間は3時間、休日も返上で仕事に没頭する日々。それでも、私は諦めずに前に進み続けなければなりませんでした。
第一章:予期せぬ退職
冒頭に書いた、めちゃくちゃ環境が良さそうな会社は、アメリカのシリコンバレーに本社がある世界的に有名なアップルの日本法人です。私が在籍していた当時は、まだ社員数250名ほどでしたが、売上は2,000億円を超える活気あふれる企業でした。しかし、華やかな表舞台の裏では、超赤字経営という厳しい現実が常に付きまとっていました。
私は、カスタマーサービスの企画責任者(ビジネスマネージャー)として、日々奔走していました。サービスのデリバリー状況の確認・改善、保証期間中の無償修理費用の管理、修理パートナー企業との関係維持、新規サービス事業の企画・立ち上げ・実施など、業務は多岐にわたり、常に時間に追われていました。お客様からの直接のクレーム対応に追われることも時々ありました。朝は9時半に出社し、退社はいつも23時過ぎ。心身ともに疲弊する毎日でしたが、高待遇という蜜の味に、不満を抱くことはありませんでした。
そんな恵まれた環境で、なぜ私は会社を辞めることになったのでしょうか?
きっかけは、当時の上司からの突然の誘いでした。「俺は次の会社に行く。広瀬さんのポジションも用意してあるから一緒に来ないか?」と。当然、今以上の好待遇が約束されていると勝手に思い込み、私は二つ返事で退職を決意しました。外資企業では、引き抜かれた人が自分のチームメンバーを連れて行くケースは珍しくありません。ありがたいことに、私も上司にとって必要な人材だと認められていたようです。
しかし、退職を決意した理由はそれだけではありませんでした。当時の日本法人社長が交代し、新しい社長との面談で、私の担当していた「サービス企画」の業務が、社長直轄の経営企画室に移管されることになったのです。私は経営企画室へ異動することなく、結局、私の仕事は修理伝票の整理やパートナー企業への対応といった雑務ばかりになり、モチベーションはどん底まで落ちてしまいました。
追い打ちをかけるように、私より社歴が長い同い年の新しい上司から、「やる気なかったら辞めていいよ。この週末に考えて結論出して」と冷たく言い放たれたのです。この言葉は、私にとって最後のひと押しとなりました。私は、元上司の誘いを100%信じ正式な誘いの言葉を待つことなく、退職することになりました。しかし、一抹の不安は残っていました。
そして悪い予感が的中し、待てど暮らせど、元上司との話は一向に進みませんでした。退職から2ヶ月が経ったある日、元上司が転職した先の副社長を交えて食事をする機会を設けてくれましたが、デザートを食べ終わった頃に私の転職について尋ねたところ、「何の話?」と返され、愕然としました。この瞬間に私はハシゴを外されたことを悟り、元上司に詰め寄る気力も無く、絶望感と後悔が入り混じった複雑な気持ちを抱えながら家路についたのです。
第二章:起業前
会社を辞めたものの、起業なんて微塵も考えていませんでした。毎日、途方に暮れながら、「どうしようか」と頭を抱える日々。ヘッドハンターに連絡したり、転職サイトに登録することもなく、茫然自失の日々を送って3ヶ月経ちました。子供二人はまだ小学生で家内は専業主婦、住宅ローンもまだまだ残っています。正直言って、40歳を目前に人生終わったかなと思いました。
そんなある日、ソフトウェア会社に勤める知人から、DECのOS(VMS)に詳しい人を紹介してほしいという電話がありました。私はDEC出身だったので、自分の状況を説明し、とりあえず話を聞きに知人の会社へ足を運びました。
知人の会社での仕事内容は、私にとっては非常に基本的なものでした。2人のVMSを知らない若手プログラマーに対して、プログラミングに関する質疑応答や効率的なプログラミング技法の指導を行うというものでした。
とりあえず日銭を稼ぎたいという思いもあり、DEC時代のレートで見積もりを作成し、毎日1ヶ月ほどソフトウェア会社に通うことになりました。技術畑から離れて4~5年経っていたので、現役プログラマーの支援ができるか不安でしたが、彼らのコーディングやロジックを見た瞬間に、見慣れたシステムコールやライブラリルーチンが蘇り、不安は一気に解消されました。
「昔取った杵柄」は健在でした。
今思えば「昔取った杵柄」は、私の「Bird-in-Hand(手持ちの鳥)」の一つだったのでしょう。また、若い二人との会話は、「Crazy Quilt(クレイジーキルト)」の会話だったのかもしれません。さらに、彼らの開発期間が限られていることを考慮し、私がやりたいことを聞き出し、それに対応するシステムコールやプログラミングロジックを提示するなど、プログラミング期間を短縮する工夫(自分たちでコントロールできる範囲でなんとかする)もしましたが、これはまさに「Pilot-in-the-Plane(飛行機の操縦士)」の行動だったと思います。
しばらく彼らと仕事をする中で、ソフトウェア会社からフリーランスとして独立してくれないかという申し出を受けました。次のプロジェクトでプロジェクトマネージャーの仕事をお願いしたいとのことでした。この時から、漠然と「独立」を意識し始めます。
しかし、当時の私は、新規サービス事業の企画・立ち上げ、既存サービス事業の見直しと改善(サービスのBPR)、新規事業立ち上げのプロジェクトマネージャーといった仕事に興味がありました。そのため、ソフトウェア会社からの開発プロジェクトマネージャーの仕事ができるかどうか不安でした。
その後、ソフトウェア会社の他の人たちとも「Crazy Quilt」の会話を重ね、「開発経験があれば、しばらくやってみたら勘を取り戻す」と言われ、とりあえずフリーランスとして独立することを宣言しました。そして、次のプロジェクトにプロジェクトマネージャーとして参加することになりました。
「案ずるより産むが易し」という言葉通り、プロジェクトに参加してみると、DEC時代のみんなでワイワイ言いながらやった開発を思い出し、あっという間に頭は「開発のPM脳」に切り替わって行きました。
プロジェクトが終盤に差し掛かった頃、このまま開発方面も視野に入れて正式にフリーランスとして独立することを決意しました。同時に、DECに残っている元同僚やその他の知人に独立の挨拶メールを送ったところ、すぐに反応があり、数人と情報交換を行いました。今思えば、この情報交換も事業立ち上げ前の「Crazy Quilt」に相当すると思います。先輩、元同僚、後輩社員から様々なアドバイスをもらい、これらは「Lemonade(レモネード)」の原則として、その後の私の舵取りに良い影響を与えてくれたと思います。
第三章:有限会社起業
フリーランスとして細々と活動していたある日、転機が訪れました。古巣であるDECの元同僚から「◯月◯日◯時に会えないか?」というメールが届いたのです。私は即座にOKの返事を送り、期待に胸を膨らませながら再会の日を待ちました。
約束の日、元同僚から、まもなく始まるプロジェクトにPMO(プロジェクトマネジメントオフィス)として参加できないかという打診がありました。PMは、これまた元同僚のAさんということで、私は二つ返事で快諾しました。しかし、DECは個人とは契約できないため、プロジェクトの開発パートナーからの派遣という形で話がまとまりました。契約期間は少なくとも1年、月単価も十分で、まさに棚からボタ餅でした。当時は、PMOという言葉は知っていても具体的に何をするのかは知りませんでしたが、「なんとかなるだろう」という楽観的な気持ちで引き受けました。
さらに、驚くべきオファーがありました。「DECは個人とは契約できないけど、株式会社じゃなくても有限会社だったらOKだよ。だから、契約期間中に有限会社を作ったら直契約に切り替えるよ。そうすれば月単価もパートナーに手数料として払う数万円が広瀬さんの月単価にプラスされるから悪い話じゃないと思うよ」と。
私はフリーランスとしてIT業界で仕事を続けていくために、信用を得るためにも、将来的には有限会社を設立したいと考えていました。しかし、今から30年前の当時は、現在のように「資本金1円」で株式会社を設立することはできず、株式会社は最低でも資本金1,000万円、有限会社は300万円が必要でした。
今思えば、細々と活動しているフリーランスにとって、有限会社設立のために300万円の資本金を用意するのは、大きなリスクです。また、Affordable Lossの範囲を超えているようにも思えます。しかし、少なくとも1年続くプロジェクトの受注があれば、この300万円は回収できる可能性が見えてきます。当時の私の財政状況から考えて、私はこの300万円をAffordable Lossだと判断したのでしょう。そして、2ヶ月後くらいに有限会社の登記を行い、DECとの直契約のために取引口座まで開設しました。通常、私一人の資本金300万円の有限会社が、1,000億円以上の売上がある会社と取引口座を開設するなんて不可能な話です。
この経緯は、まさにBird-in-HandのWhom I know(誰を知っているか)の原則を体現したものだったと思います。つまり、今ある資源(DECの元同僚との繋がりや、DEC購買部の担当者も知り合いだった)と、Crazy Quiltの会話を通して、DEC時代の私の人となりや能力が信頼となり、新たな可能性(有限会社設立)へと繋げることができたのです。これも、ご縁のおかげです。
有限会社設立後も受注は順調に継続され、プロジェクトは2年近く続きました。プロジェクト期間中も、他の同僚や知人から、帰宅後の夜や土日に自宅でできる調査や企画書作成の仕事を依頼され、睡眠時間が毎日3時間くらいの期間が半年くらいという過酷な時期が続いたこともありました。
しかし、その時に苦労した経験や学んだことは、すべてLemonade(ピンチをチャンスに変える)の糧となりました。
そして、時代はインターネット・バブルの絶頂期を迎え、私の人生は更なる転機を迎えることになります。
第四章:渋谷のネット・ベンチャー
あなたは、今から25年前の1999年3月に発表された「ビットバレー構想」をご存知でしょうか? 渋谷をアメリカのシリコンバレーのように、ITのベンチャー企業集積地域にしようという構想です。「渋」はbitter、「谷」はvalley、bitはIT用語のビット、ビットには小粒なベンチャー企業という意味も込められ、「ビットバレー」という造語が生まれました。
DECのプロジェクトに携わりながら、インターネットの興隆を横目に、私は情報収集を怠りませんでした。ある日、メーリングリストか掲示板で、「渋谷にITベンチャー企業が集まるコミュニティを作ろう」というタイトルの投稿を見つけました。これは、ビットバレー構想が立ち上がる前の、賛同者を集めるためのテストマーケティング的な飲み会のお知らせでした。「◯月◯日◯時に◯◯で会いましょう。会費:◯◯円」といった内容でした。私はビジネスチャンスの到来を感じ、迷わず参加しました。
当初の参加者は、インターネット・ベンチャー企業の20代の若き社長たち、ベンチャーに興味を持つ20代の若者たち、そして数年前に起業し、インターネット・ベンチャーにシフトした私と同世代の社長たちなど、30~40人ほどだったと思います。この飲み会で「ビットバレー」という名称が正式に決まり、月一回の情報交換会を開催することになりました。メーリングリストも作成され、日々夢を語り合うような情報交換が続きました。この時出会った人々の中には、現在では立派なインターネット企業の社長になっている人も多くいます。
私も、いつかは彼らと組んでベンチャー企業を立ち上げられたら面白いと考えていました。しかし、月一回の集まりを繰り返しても、なかなかベクトルが合う人が見つかりませんでした。当時私は40歳、話し相手はほとんど20代で、中に大学生もいました。私は、この様な集まりの中でベンチャーとしてやっていくには歳をとりすぎていたのかもしれません。
この時期、DECはすでにCompaqに買収されており、私はCompaqからの仕事で、一人企業としては比較的安定した生活を送っていました。しかし、今のプロジェクトが終了すれば、次はどうなるか分かりません。先手を打って次の手を考えなければならないのが、一人企業の辛いところです。私は毎月ビットバレーの集まりには必ず参加し、毎回新しい人と名刺交換を繰り返し意見交換を繰り返しましたが、やはりパートナになってくれる人は中々現れない状態が続きます。そして、ビットバレーの会合に集まる人の数が、日を追うごとに100名、200名、300名と、投資家や国内の在住外国人もたくさん来るようになり、とんでもなく巨大化していきました。
ビットバレー構想から約半年後、比較的安定した時期が続いていた私に、突然転機が訪れます。携帯電話に、DEC時代の知人から着信があり、「香港にあるインターネット・ベンチャーが日本でも支社を立ち上げたがっている。協力してくれないか!」と早口で告げられたのです。私は状況が把握できず、「え?何言ってんの?香港?ベンチャー?何の話?」と聞き返しました。
落ち着いて話を聞くと、日本でインターネット・ベンチャーを立ち上げる誘いであることが分かりました。その晩、私はその知人と飲みに行き、詳しい話を聞くことになります。
これが、「俺も億万長者になれる!!!」と言う夢の始まりです。
第五章:ネット・ベンチャー起業
数日後、知人の紹介で日本の代表になる方と面談しました。1時間ほどの面談で、香港での実績や創業メンバーの説明を受け、「医療情報に特化したサイト運営」という事業内容を知りました。ターゲットは一般消費者と医療従事者で、一般消費者には無料で「医療相談」や「薬品情報」を提供し、医療従事者には有料のメンバー登録制で「ほぼ全医療科目の専門情報」を提供するとのことでした。
代表になる方は「世界一の医療情報のYahoo」のようなサイトを目指しており、その高い志に驚きを隠せませんでした。また、香港側には既に投資家がおり、さらなる投資を投資銀行から集める動きがあること、スタッフには香港在住の英国オックスフォード大学医学部出身のイギリス人医師が数人いること、香港で著名な漢方薬の権威がいることなど、驚くべき事実が次々と明らかになりました。
この頃の私の頭は、Compaqの開発プロジェクトを通して「開発プロジェクト脳」になっており、昔取ったもう一つの杵柄である「サーバーインフラとネットワークインフラ」の知識に加え、Webサイト構築の知識も習得していましたので、全体像を把握した私は、サイトのサーバー構成、コンテンツ構成、必要な日本側のリソースなどを説明し、その場でアップルの時よりも高額の年収のオファーを受け、技術担当として立ち上げメンバーに加わることになります。
後日、NASDAQ市場への上場計画が記載されたオファーレターを受け取り、ストックオプションとして10,000株の権利をいただきました。当時の私は、このベンチャー企業がNASDAQ市場に上場すれば、株価は少なくとも100ドル以上になり、私の含み資産はこの株だけで1億円以上になると有頂天になっていました。
幸運なことに、Compaqのプロジェクトも最終テストフェーズに入っていたため、事情を説明して週3日はプロジェクト、週2日はベンチャーという形で1~2ヶ月間働き、最終的にCompaqの若手社員2人に後を引き継ぎ、円満にプロジェクトから離れます。
ベンチャーに専念できるようになり、表参道駅から直通の、青山パラシオタワー11階のサーブコープのフロアにある、6畳ほどの部屋に通うようになります。面談してくれた方が日本側のCEO、私の知人がCOO、私がCIO/CTOという役割で、全員執行役員としてスタートしました。
このビルの上層階にYahooが入居しており、また1階か隣のビルにGucciが入居しており、とても華やかなところでした。
この時点で、私の頭はDECやアップル時代の「企画脳」に切り替わり、競合分析、競争優位性のあるコンテンツの模索、既存の「医療相談」サイトの質問内容分析、コンテンツ提供のサービスプラン、コンテンツビジネスの収益化プランなどの作成に没頭しました。1億円の含み資産を考えると、どんな苦労も乗り越え、夢を掴み取ろうという強いモチベーションが湧いてきます。COOは会社全体の組織構成、オペレーションプラン、経費・予算策定、必要なマンパワー予測などを事業計画書にまとめ、CEOは会社登記と医療関係者との顧問契約の締結に奔走していました。
顧問とは、旧帝国大学の医学部を卒業した大病院の副院長先生、関西方面で大学教授も兼任している大学病院の先生、九州方面で公開手術も手掛ける業界では有名な先生、テレビ出演もしている医療評論家の先生、と言う錚々たる顔ぶれです。
ここで3人のBird-in-Hand(手持ちの駒)を振り返ってみましょう。
CEO
元医療機器商社の営業
香港側のCEOと商社時代からの古い付き合い
医療業界の知識と豊富な経験
IT知識はほとんどなし
医療関係者(大病院医師・理事長、医科大学教授、医療評論家、医学系雑誌社等)に人脈多数
COO
元DECマーケティング部門責任者
医療業界の知識なし
IT知識は広く浅く多岐にわたる
人脈は不明
CIO/CTO(私)
元DEC/アップル サービスビジネス責任者
医療業界の知識なし
IT知識はインフラ系とWeb系の知識と経験豊富
今回のビジネスに協力してくれそうな人脈多数
3人それぞれの強みを合わせれば、今回のビジネスに必要なBird-in-Hand(手持ちの駒)が揃っているように思えました。
その後、香港からスタッフが来日したり、COOと私が香港に行ったりと、準備は着々と進み、プランもまとまり始めました。CEOからは会社登記の準備が進み、近いうちに登記ができるという説明を受けました。しかし、3人だけでは目的とするベンチャービジネスはできません。そこで、COOが考えた組織構成に従い、経理・総務担当者、コンテンツ作成担当者、コンテンツ営業担当者、マーケティング担当者、カスタマーサービス担当者の採用を開始しました。システム担当は当面私が兼務します。
採用方法はCOOの発案で、Japan Timesに英語で募集をかけました。これから立ち上げるベンチャー企業は香港とのやり取りが必須になるため、社員全員に英語の読み書きとスピーキング能力を求めました。Japan Timesの求人を見て応募してきた人は、この条件をクリアできているであろうと判断したからです。
採用が決まると、6畳ほどの部屋では全員が入らないため、オフィスの引っ越しを検討しました。CEOは九段下に物件を見つけ、採用面接終了後に九段下オフィスに引っ越すことになりました。引っ越しから数日後には会社登記も正式に完了し、「世界一の医療情報のYahoo」を目指す株式会社が九段下に誕生しました。
第六章:砂上の楼閣
私がこのインターネット・ベンチャーに参加し、九段下にオフィスを構え、あっという間に3ヶ月が経ちました。目の前の仕事に追われ、周囲が見えていない状況でしたが、気がつけば新たに採用した17名もの社員がオフィスにいました。
Japan Timesの求人広告を見て応募してきた彼らは、全員驚くほどの高学歴とバイリンガル能力を備えていました。しかし、全員が転職経験が3~4回あり、採用時は失業中だったのです。採用時には気にも留めませんでしたが、後にその理由が明らかになっていきます。(採用のプロが見ればその理由は見抜けていたかもしれません。)
さらに困ったことがありました。九段下に引っ越す頃には香港側とコンテンツ作成の調整も終わり、日本側も翻訳作業などのコンテンツ立ち上げ準備に入れると思っていましたが、それが遅れていたために17名にはお願いすべき仕事がなかったのです。
17名の出社当日は、私がCOOと一緒に作成した数十ページに及ぶ役割分担や今後の方針をまとめた英文資料を配布し、オリエンテーションを行いました。また、香港側とコンテンツの調整が遅れていることも説明しています。役割とその他詳細は資料を読んでもらうことにし、オリエンテーションを終わりましたが、これは数日間の時間稼ぎです。
採用面接では、全員に自発的に仕事を進められるか(Self-Starter)、PC操作やオフィスソフトの使用経験を確認し、問題ないと回答を得ていましたので、配布した資料の不明点や不足点は各自に用意したPCを使って調べ、何か有益なフィードバックをくれるだろうと期待していました。
数日後、全員に質問がないか確認すると、全員が「分かりました」と答えるだけで、質問が来ないことに不安を感じました。しかし、米国の大学院でMBAを取得した男性は「MBAの授業ではこう習いました。広瀬さんのプランはここが足りないから、私がお教えしましょうか? もっと良いプランになりますよ」と上から目線で発言したり、都内の国立大学卒の女性社員は「広瀬さんの英文には元気がある。COOの英文は淡々としていてビジネス文書らしい」と皮肉を言ったりと、採用した社員全員が「超意識高い系のめんどくさい人」であることが判明しました。
ある日、ビットバレーの集まりで知り合ったアメリカ人投資家と六本木の日航ホテルのラウンジで会いました。ビジネスモデル、ターゲット市場、収益見込み、香港スタッフの話などをしていると、聞き耳を立てていたと思われる知らない欧米人やアジア系の人たちが集まってきて、質問攻めに遭いました。後で知ったことですが、このラウンジは日本のインターネット市場を狙う海外投資家の溜まり場だったのです。その際、ゴールドマン・サックスの担当者から衝撃的な言葉を聞かされました。「香港は立ち上がって半年、東京は3ヶ月ですか。香港サイトのURL教えて」と言われ、まだできていないと答えると、「ベンチャー企業が半年も経ってサイトを持っていないなんてありえないぞ! そんな会社には誰も投資しないよ!」と。
この時、COOと私は3回ほど香港に行っていましたが、コンテンツの大枠の話はしたものの、細かい話は進んでいませんでした。当面、コンテンツ構成は香港側に任せ、日本側はそれを翻訳して公開する予定でした。香港スタッフとはメールでコンテンツ関連の話は進んでいたようですが、私はDEC時代の同僚の紹介で知り合った人とWebサイトのインフラ構築に没頭しており、コンテンツはCEOとCOOに任せきりでした。人が増えた後も、彼らがCOOに話を聞いたり、香港側に確認したりして、コンテンツ内容を充実してくれると思っていたのが間違いでした。
海外の投資銀行からの話が本格化し、投資銀行から委託された米国の有名コンサルティング会社から3名のコンサルタントが、デューデリジェンスのために来日しました。2日間、CEO、COO、私の3人で対応しましたが、何を聞かれ、何を答えたのかは覚えていません。この投資案件は香港側の案件で、香港オフィスに20億円を投資するというものでした。その資金を元に、日本オフィスは香港から資金提供を受けるという構図でした。
デューデリジェンスも無事に終わり、20億円という金額に夢が膨らみました。ビジネスが軌道に乗れば、様々な派生ビジネスも展開でき、Yahooや楽天を超えるかもしれません。英語を必須としているので、CEOが当初言っていた「世界一のグローバル医療情報サイト」も夢ではないと思っていました。
しかし、Webサイトのコンテンツ作りは一向に進みません。CIOとして、香港に電話で状況確認をしたり、できている部分だけでもアクセスさせてもらおうと頼んでも、意味不明な言い訳で拒否される日々が続きました。香港スタッフへの不信感が募りましたが、しばらく静観することにしました。
日本オフィスも立ち上がって5ヶ月が経ち、Webサイトのインフラは完成し、ドメインも取得していますが、社内からはインターネットへのアクセスとメールのやり取りしかできません。
この頃、CEOとCOOが奇妙な行動を始めます。COOは、1年足らずで社員が倍になるという目論見で、当初からオフィスビルの2フロアを契約していましたが、物置状態のもう一方のフロアを、何も相談なく自分のオフィスにしてしまいました。そして、社員を避けるような素振りを見せ始めました。後で分かったことですが、この時点でベンチャーの挫折を感じていたようです。
CEOも、何も相談なく自分の机をフロアの隅に移動し、天井まで届くパーティションで個室(社長室)を作ってしまいました。以前は全員オープンだったため、CEOが電話で英語を話している内容がなんとなく分かりましたが、個室を作ってからは一切聞こえなくなりました。
執行役員3人のコミュニケーションは希薄になり、そして、何の連絡もなく突然香港のCEOが来日し「広瀬はコンテンツに口出しするな。コンテンツは香港側が主導権を持つ」と、宣告されます。日本のCEOも、私が口を出すと顧問の先生方や医療評論家の先生方の機嫌が悪くなる、と言います。しかし、CIOの肩書を持っている以上、情報戦略を考える上で我々が提供するコンテンツには、私が関わらないのはおかしいと反論しても、決まったことだから、と話が進すみません。さらに香港のCEOからCTOとしてITに専念しろとも言われ、モチベーションを下げられます。CIOの剥奪です。
これで、両CEOと私の間の信頼関係は完全に崩壊しました。1億円の夢も、音を立てて崩れ去っていくようでした。
実は、日本のCEOと私との関係が悪化し始めたのは、ITインフラの設計が始まった頃でした。
きっかけは、顧問契約をしている九州の帝国大学医学部卒の心臓外科医の先生からの提案でした。先生が九段下オフィスに来社した際、「ITインフラとコンテンツ関連は、私が公開手術を中継する際に使っている◯◯という会社が良い」と提案されました。CEOはすぐに了承し、先方とアポイントを取り(先生から事前に根回しがあったようでした)、数日後、CEOと私は九州に飛ぶことになりました。しかし、その会社は主に撮影を行う会社で、Webサイト制作は近所の会社のホームページを作る程度の実績しかありませんでした。私は帰京後、CEOに「世界一の医療情報のYahoo」と言うサイト構築には分不相応である旨伝え、その会社との契約を断るよう進言しました。
もう一つのきっかけは、他の顧問の先生方3名と、テレビ出演もしている医療評論家の先生とのミーティングでの出来事です。CEOが全員の顔色を伺いながら話がまとまらない状況にしびれを切らした私は、評論家の先生の発言を遮って結論を提案してしまいました。後日、CEOから「評論家の先生は侮辱されたと大変お怒りだ」と伝えられました。
このような私の言動が、CEOの気に障っていたのかもしれません。この時点で、社内は既に統制が取れない状態になっていました。CEOは顧問の先生方に言われたままのことを社員に通達し、社員は勝手に解釈し、COOは他人事のように傍観し、バラバラな社内を評論家先生がCEOの代わりに叱ってくださったりと、まさに社内はカオスでこれから世界一を狙うサイトは砂上の楼閣です。
3人の執行役員は相変わらず意思疎通ができておらず、意識の高い社員たちはスケジュールを無視してマイペースに仕事を進め、WordもExcelもほとんど使えない実態が見てきます。仕事が遅れていても、皆定時になると帰っていきます。私の目からは、のらりくらりとその日その日の時間を潰しているようにしか見えませんでした。きっと、以前の会社でもこの様に自分の無責任を棚に上げた勤務態度だったのでしょう。
香港側もスタッフが入れ替わり立ち替わりで、落ち着かない状況でした。顧問の先生方は、夕方になるとオフィスに来てCEOとの外出が増えました。
このような状況でも、投資のデューデリジェンスは順調に進んでいると思い込んでいるため、20億円の投資は確実だと誰もが思っていました。そのため、緊張感がなくなり、全員がバラバラな方向に向かって進んでいく状態になってしまったのかもしれません。そもそも、コンテンツ内容が決まらない事が根本原因ですが、日本ではどうしようもありません。
私はCOOとは時々社内で話したり、夜に飲みに行ったりして情報交換していましたが、投資の話はうまくいかないのではないか、このままではサイトが完成しても質の低いものになり、NASDAQ上場など夢のまた夢ではないか、という負のスパイラルに陥っていました。
第七章:夢の終焉
投資銀行から回答が来ました。
追い打ちをかけるように、香港オフィスからもメールが飛び込んできます。
日本オフィスを立ち上げてから約6ヶ月、夢の終焉を迎えました。
実は、香港と日本は、当初から別会社だったのです。投資が成功した場合に初めて、共同で事業を進めるという条件付きの契約だったのでしょう。私は親会社と子会社のような関係だと思っていましたが、香港側は最初から日本を別会社と認識していたのでしょう。そう考えると、コンテンツ内容がなかなか開示されなかった理由も理解できます。本文中で「日本のCEO」「香港のCEO」と表記していたのは、このためです。
これまで、日本オフィスにはビットバレーで知り合った日本の投資銀行から多くの訪問を受けていましたが、海外の投資銀行との話が進んでいたため、全て断っていました。日本側も、独自に投資案件を進めていれば、このような結末にはならなかったかもしれません。これは、CEOの判断ミスと言わざるを得ません。
インターネット・ベンチャーは倒産となり、全社員は月末付けで解雇となりました。しかし、その月の給与が支払われたのは数ヶ月後のことでした。CEOは多額の負債を抱えたと聞いていますが、具体的な金額は分かりません。
こうして、あっけなく幕を閉じたインターネット・ベンチャーでしたが、サラリーマン人生では決して味わえない刺激的な経験となりました。その後、社員たちはそれぞれの道を歩み、消息は分かりません。CEOとCOOとも連絡が取れなくなってしまいました。
今振り返ると、CEOとCOOがなぜ知り合いだったのか、最後まで分かりませんでした。ベンチャー立ち上げ当初から疑問に思っていましたが、そのうち分かるだろうと楽観視していたことが間違いだったかもしれません。結局、このベンチャーは当初から小さな疑問の連続で、その一つ一つが放置され、最後に大きな亀裂となって会社を崩壊させてしまったのでしょう。
もう一つは、Effectuation理論提唱者のサラス・サラスヴァシー教授がベンチャー企業失敗の一番の理由と指摘する、「初期メンバーの不仲」です。
会社には、お互いを信頼し合う雰囲気がありませんでした。意識の高い社員たちは頭が良い反面、指示が曖昧だと、その意図を汲み取ろうとせず、言われたことだけをこなす傾向がありました。余計な質問をすると面倒なことになるのを分かっていたのでしょう、彼らは何も質問してきませんでした。たとえ投資案件が成功していたとしても、20人足らずの社員全員が「大企業病」のような状態では、このインターネット・ベンチャーは生き残れなかったでしょう。
最終章:そしてケ・セラ・セラ
その後、私は自ら立ち上げた有限会社に戻り、これまでの経験を活かしてITコンサルタントとして再出発しようと考えていました。しかし、様々なご縁があり、2つの会社を経験することになります。その後は、フリーランスのITコンサルタント、そして経営コンサルタントとして、引退までの約20年間を経済的な不安もなく過ごすことができました。今振り返ると、私の人生はDEC時代の人脈に支えられていたと言っても過言ではありません。
最終章では、この最後の20年間を振り返ります。これまでの私は、自己実現のために自らチャンスを見つけ、道を切り開いてきました。しかし、ベンチャー企業の倒産を経験してからは、その姿勢を改め、「来るものは拒まず、去るものは追わず」というケ・セラ・セラの精神で、流れに身を任せて生きてみようと決意したのです。
イスラエルのIT企業
私は、イスラエルのIT企業の研究開発部門(R&D)にプロジェクト・マネージャーとして迎え入れられました。入社早々、イスラエル、フランス、シンガポールなどへの海外出張が繰り返され、年に7回ほど、1~2週間海外で過ごす日々が始まりました。新製品の技術トレーニング、新規プロジェクトの打ち合わせ、海外シンポジウムへの参加など、多岐にわたる業務をこなし、帰国後は連日の深夜残業も珍しくありませんでした。
しかし、入社から1年半が経った頃、転機が訪れます。イスラエル本社のCEOが交代し、ITバブル崩壊後の業績不振を受け、新CEOによる厳しい査察が全世界のオフィスに及んだのです。その結果、人員の割に売上が低迷していた日本のR&D部門は、あっという間に閉鎖。JOB型雇用だった私は、またしても突然の解雇という現実に直面することになりました。
国内ネットワーク・インテグレータ
次に、私は国内のネットワーク・インテグレータ企業にゼネラル・マネージャとして採用されました。ここでも、アメリカ、シンガポール、オーストラリア、フランスなどへの海外出張の機会に恵まれ、20名ほどの部下を率いる立場となりました。マザーズ市場へのIPO準備、組織改革、人材育成など、様々な業務に携わり4年ほど勤めましたが、日本企業の体質に馴染めず、退職を決意しました。企業のIPOを間近で経験できたことは、貴重な財産となりました。
ITコンサルタント
この時点ではまだEffectuation理論を知りませんでしたが、当時の私のBird-in-Hand(手持ちの駒)を振り返ってみましょう。
IT系(What I know)
上流工程の要求分析、要件定義、RFP作成
サーバー設計、ネットワーク設計、運用設計
インフラ監視、インフラ構築プロジェクト・マネジメント
ソフトウェア・パッケージ導入時のインテグレーション
経営系(What I know)
新規事業立ち上げ、新組織立ち上げ
業務プロセス改善、市場分析、競合分析
SWOT分析、クロスSWOT分析、Five Force分析、3C分析
プロダクト・マーケティング、サービス・マーケティング、プロダクト・マネジメント
アカデミック系(What I learned)
経営理論、企業戦略論、マーケティング理論
リーダーシップ論、組織論、起業理論
プロダクト・マネジメント、英語力
その他(Whom I know)
これまで培ってきた多くの人脈
ITコンサルタントとしてスタートした当初は、IT系のスキルを活用した案件が中心でしたが、徐々に経営系のスキルも求められる案件が増えていきました。
この経験を通して、2つのことに気づきました。
私の全てのスキルを組み合わせれば、経営コンサルタントとして十分にやっていけるのではないか。ベンチャー企業時代にはCIOとして、IT視点での事業戦略や製品戦略の立案を行ってきました。また、上流工程のコンサルティングでは、経営層の方々と接する機会も多く、ITの知識だけでなく、長期的な視点に立った組織改革や業務改善の知識が役立つ場面もありました。
ITの知識を持つ私が経営コンサルタントに転身することで、経営層の方々の相談相手となり、経営改善や業務改善を加速させることができるのではないか。
これらの気づきから、私は約8年間のフリーランスITコンサルタントとしての活動を経て、フリーランスの経営コンサルタントとして新たなスタートを切ることを決意しました。
経営コンサルタント
実は、ITコンサルタントとして活動していた期間中、情報系学科の3~4年生に経営情報システムやマーケティングを教えていた時期が5年ほどありました。また、大学教授に転身していたDEC時代の上司に誘われ、経営情報学会の研究部会に参加し、そこで多くの大学院教授、大学教授、企業の役職者、フリーの経営コンサルタントと出会いました。これらの出会いが、私を経営コンサルタントへと導いたのかもしれません。DEC時代の上司がいなければ、今の私はなかったでしょう。心から感謝しています。
経営コンサルタントに転身すると、クライアント層が大きく変わりました。それまでIT経験豊富な役職者や現役のSE、コンサルタントが中心でしたが、ITに不慣れな中小企業の経営層が主な対象となりました。中にはIT部門を持たず、街の電気屋さんがネットワークを構築したような脆弱な環境の企業や、全社員が共通のメールアドレス(info@xxx.co.jp)を使っている企業もあり、驚くような経験も数多くしました。経営コンサルティングの前に、IT環境のコンサルティングが必要だと感じることもありました。
クライアントからの相談内容は、「経営改善」「売上改善」といった漠然としたものが多く、想定通りでした。しかし、社長や会長という肩書を持つ経営者の方々の中には、経営理論に基づいた話を嫌う方も多く、これも想定内でした。そこで私は、彼らの漠然とした経営課題に対して、いつ頃からその課題に気づいたのか、その時どう対処したのか、その時の苦労をねぎらい、今後どうしたいのかを尋ねるようにしました。まるで飲み会で友人の悩みを聞くように、親身になって話を聞くと、社内では相談できないようなことも話してくれるようになりました。
ここまでくれば、あとは私のペースで話を進めることができます。しばらく話を聞いた後、内容を整理し、後日、漠然とした課題の背景にある真の問題、なぜその問題が発生したのかという「想定される原因」、そして具体的なアクションプランをPPT1ページにまとめ、スケジュールをもう1枚のPPTにまとめて説明しました。
私が担当した企業は、このような提案で、まずは1ヶ月、うまくいけばさらに1ヶ月継続という形で、半年から1年ほどコンサルティングが続くことが一般的でした。中には、顧問契約として最初から年間契約で数年も継続してくれるクライアントもいました。
この経営コンサルティングでは、今思うと全て私のBird-in-Hand(手持ちの駒)の知識を活用していました。難しい相談を受けることもありましたが、ネットで検索したり、経営理論やマーケティングの本を読み直したりすることで、クライアントに分かりやすく説明し、提案することができました。まさに、「Pilot-in-the-Plane」のように、自分の力でコントロールしながら仕事を進めていたのです。
経営コンサルタントとしての仕事も軌道に乗り、4年ほど経った頃、新型コロナウイルスのパンデミックという転機が訪れました。営業活動もままならなくなり、コロナ禍が収束し始めた頃には、私も「高齢者」と呼ばれる年齢になっていました。ゼロから顧客を探すのも大変だと感じ、潮時と考え、2024年2月29日(木)に6年間の経営コンサルタントとしての活動を引退することを決意しました。
今思うと、予期せぬ退職から始まった私の「波乱万丈の30年」は、苦労も多かったですが、全て自分で決断し、歩んできた道です。誰にも文句はありません。多くのものを得ると同時に、失ったものも沢山ありました。それもまた、私の人生です。
今は、陰ながら私を支え続けてくれた妻と2人の息子に、感謝の気持ちでいっぱいです。妻は、身勝手な私を辛抱強く支えてくれました。長男は、私のIT企業時代の背中を見て育ったのか、私と同じように外資IT企業で働いています。次男は、ベンチャー企業の立ち上げやフリーランスとしての活動を見て育ったのか、若くして自分のお店をオープンし、立派な経営者として活躍しています。
これからは、妻のこれまでの苦労をねぎらい、2人の息子の背中を温かく見守っていきたいと思っています。
今、私は何の不安もありません。残された人生も、ケ・セラ・セラ。流れに身を任せ、穏やかに過ごしていきたいと思っています。
終わり
P.S.
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。もし、あなたが起業理論であるEffectuation理論にご興味をお持ちいただけたなら、ぜひ以下の私のNoteから順番に(10本くらいあります)ご覧ください。私は理論提唱者であるサラス・サラスヴァシー教授のオンライン授業でEffectuation理論を学んだ経験から、市販の書籍には載っていない情報も盛り込んでいます。
私の経験が、皆様の起業の一助となれば幸いです。