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"文章力"という雑な言葉の正体

これほど曖昧な言葉はない

作家になるには文章力が必要です。

って五万人くらいの人が言ってますけど、

「文章力」って何ですか?

と聞かれてスパッと答えられるのは一握りじゃないでしょうか?

僕は創作大賞のために8年ぶりに小説書いて、正体が掴めてきました。

まあ、一冊きりの受賞出版経験のある作家の端くれの私見として気に留めてもらえればと思います。

比喩やレトリックなんてオマケ

気の利いた比喩、風景・人物の巧みな描写、その辺が上手い人って結構います。

僕はどっちかというとヘタクソです。
そのために特に時間を割いたことがないからです。

村上春樹とか太宰治とかはとても巧妙な人らだと思います。
「春の熊のみたいに健康だ」みたいな、突飛だけど何となく分かる比喩。
夢からだんだん目覚める感覚を、箱の中に箱があってその中にまた箱があって開け続けてると最後は空っぽでした、みたいに表現すること。

確かに読者に面白味を感じさせ、ハッとさせるものですが、それ自体エモいとは思いません。

何故か?

結局、散りばめられた「面白味」を通してじわじわ伝わるのは世界観です。

つまり、"こんな感覚をこんなふうに表現しちゃう作品なんです"ていうメッセージが伝わるわけですね。春樹も太宰もひねくれ系ウィットの世界です。

僕は鑑賞者として作者のテクニック自慢にとんと興味がありません。
技術は目的じゃなくて、自分の書きたいものが書ければそれ以上いらないです。

...好みの問題はさておき、
比喩やレトリック(文章の飾りつけ)の真の役割とは、作品全体の"世界観"を色づけることです。

が、文章力(読者を惹きつける力)の中の数ある一要素に過ぎない、と僕は思います。

いいんですよ、そんな上手いこと言わなくて。

村上春樹や太宰はそういう書き方にこだわるのが好なだけで、本質はそこじゃないです。

何を書いて何をぼかすか

文章力の構成部分として8割を占めるのが、コレだと思ってます。

何を書いて、何をぼかすか。

シーンごとの伝えたい雰囲気・感情、そしてその積み重ねである"世界観"を魅力的にするのは、"書くべきもの"と"書かないもの"(読者に想像させるもの)の取捨選択です。

夏目漱石が"I love you."を「月が綺麗ですね」と翻訳した有名な話があります。

これが"ぼかし"の極端な例です。
その場の状況、"I"と"you"の関係性が分かっていないと意味不明になります。

ところが「愛しています」と書いちゃうと、ただの説明になります。状況や二人の関係性がよほど凝ったものじゃないと世界観もへったくれもないですね。
(ただしこれは日本人的な感覚です。あちらさんは直球が好みだから"I love you."と書きます。)

たとえば、ホワイトなはずの職場にはびこる陰湿なイジメに苦しむ主人公を書きたかったらどうしますか?

上司が「いつまで学生気分でいないでください。親の顔が見てみたい」
と慇懃無礼に言って、
主人公が「その言葉が胸に突き刺さり夜も眠れなかった」と述懐したら、想像の余地ゼロですよね?

でも「腹が痛くなくても、僕は休憩時間ずっとトイレにこもってた」
と書けば主人公の気持ちが生々しく伝わってきます。
作品の世界観の一端である、逆らえない強者に対する絶望感を表現できます。

すぐに思いつくシンプルな例ですが、こういうモノの積み重ねが"文章力"というものなのでしょうか?

推敲、すっごい大事ですね。
月が綺麗なのか、あなたを愛してるのか、その狭間で行ったり来たりするのが推敲だと思ってます。

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