28年ぶりに実の姉に再会した話。
5月に、28年ぶりに実の姉に会った。
その日のことを書こうとして、手が何度も止まり、忙しさもあってずっと先延ばしにしてきた。別に書かなくてもいいのだけれど、先日読んでいた愛着障害に関する本のこのフレーズで、言語化せずにいられない理由がわかった。
私たちは同じ両親から生まれ、姉が2歳、私が10カ月ごろに引き離された。
私に継母から語られ続けた実母のストーリーは、こうだ。
「若い男ができて、上の子だけ連れて出て行った。アンタのことは、妊娠中から中絶したがっていた。授乳もせず、寝ころんだアンタの口元にはタオルで高さを調整して哺乳瓶が差し込まれていた。ある日、父親が帰ったら家具も何もない部屋で、アンタが転がっていたって」
私に対する苛立ちをぶつけるついでに語られる物語を、いつも泣きじゃくりながら聞いた。そして、それを裏づけるには、48歳になっても一度も実母が私を探しに来ない事実だけで十分だった。
姉とは、ある映画の感想とSNSのお陰で最近、つながり直した。
20歳の時、父方の従妹と共に京都で会ったことがある。石野陽子に似ていて、きれいで、優しくて、指が私と違って長くて細かった。半日を京都観光をしながら過ごし、最後に「かわいい、連れて帰りたい」と泣かれた。
でも、私は「二度と会わない、連絡もしない」という条件で会うことを承諾したので、それきりになった。ついてきた父方の従妹が再会劇の観客として、そばで泣いていたのに「なに見に来てんだよ」と怒っていたのもある。
姉に会う、と伝えたら継母が動揺したのも理由の一つだった。何を今さら、と。そう、たまに会って優しくするのは簡単だ。継母は預かった私を愛してはくれなかったが、責任は放棄しなかった。衣食住と教育と躾を与え、大人にしてくれたのは継母なのだから。彼女が嫌がることは、したくない。
それから20年以上。
姉のことは心の隅にはあったが、連絡先も知らずそのまま途絶えていた。インスタのDMを通じてつながり直したのは、1年ちょっと前のこと。メッセージのやりとりで、大阪に姉の2番目の父がいたが亡くなったこと、その人と母の間に2人の妹がいることを知らされた。
ちょっと待って。
私は長女、3つ下の母親違いの妹。
姉も長女、その下に2人の妹。
合わせると、私、「5人姉妹の2番目」だったんだ。
ふと、お互いに血や縁がつながっている5人が全員そろったらどうなるんだろう、と思った。そして、純粋に同じ血を受け継いだたった一人の存在として、姉と会わずに終わっていいのだろうか、とも。
亡くなった2番目の父親の用事で大阪に来ると聞かされ、思い切って会う約束をした。継母は、すでに亡くなっていた。
どこで食事をしようか迷って、川に浮かぶ「TAGUBOAT TAISHO(タグボート大正)」のイタリアンにした。関東に住んでいる彼女にとって、単なるおしゃれなお店はありきたりだろうと思ったので。
仕事帰りに、JR大正駅の改札で待ち合わせる。
会うなり、泣き出した私の手を姉は取って、しばらく離さなかった。「会えて嬉しい」だけの涙ではない。会うのが、怖かった。もうこれ以上、自分のこども時代の傷に傷を重ねたくない。やっと克服したのに。
姉はとことん「姉」だった。
私をいたわり、励まし、優しい言葉を28年前と変わらずかけてくれた。
私は相変わらず人との距離がつかめず、うろたえていた。姉妹なんだからタメ口で当たり前なのに、なかなか敬語が取れない。
お互いに仕事や家庭の近況を語っている最中に、知り合いが私を見かけてテーブルまであいさつに来た。「今日は家族と来てて。あ、あそこにいるのが嫁さんです」と紹介した彼に、私は一緒にいるこの女性が誰かを言えずに別れてしまった。
彼の後ろ姿に、小さな声で「姉です……」と可愛くつぶやいた彼女に、ごめん、と胸が痛んだ。「姉とご飯を食べてるんです」だけでよかったのに、全部を説明しきれる自信がなくて言えなかった。姉の明るさに触れるほどに、自分がどれだけ「足りてない」かを思い知る。
人を信じるのが怖い。この人は、という人に出会っても雑に扱われた瞬間に全力で逃げたくなる。まだ積み上げていないのに、距離を詰めてくる人が苦手。私に期待しないで、いい人と思いこまないで、私のこと、知りもしないで評価しないで。笑顔の裏で、ずっと毛を逆立てている。
愛着障害のテストをしてみたら「恐れ・回避型」という結果が出た。
実母の方について行っていたら、生活には苦労しても「本当の親子」として愛着を築けただろうか?人間関係に苦しむ度に、自問自答する。いや、そもそも、捨てられるレベルの愛情だったわけだから、ついて行っても一緒だったかもしれない。
ただ、姉から語られるストーリーは、継母から聞いたものとは真逆だった。
急に2人のこどもを奪われそうになり、近くにいた姉を連れて逃げたこと。後日、私を預けられている叔母(父の姉)の家に引き取りに行ったが、会わせてももらえなかったこと。ずっと消息を追い、私の書いたものや新聞の記事を読み、気にかけていること……。
信じたい気持ちが半分ぐらい、ある。しかし、今さら「あなたはちゃんと愛されてましたよ」なんて言われても、一番必要な時に与えられなかった穴は埋まらない。
たまに会う爺ちゃんをのぞくと、信頼できる大人からの愛情を日常的にもらえず、捨てられないために必死で顔色を伺うか本の世界に乖離して生きてきた。甘える妹を横目に、全てを諦めていた。それが、私にとっての紛れもない事実だ。
姉は、どうしてこんなに優しく、人を信じる素直さを持っているのだろう。それも、わからない。この笑顔の下にもとんでもない闇を抱えて「姉」を演じているのかもしれない。
スナックで働く母の代わりに、下の妹たちの面倒を見ていたヤングケアラーだった姉と。
専業主婦の継母の下で、精神的、時に肉体的な虐待と姉妹差別を受けてきた私と。
どっちがカワイソウ、なんて比べることはできない。どちらも傷を負いながら大人になり、家庭を持ち、その経験を活かして子育て支援や教育を仕事にしている。
お互い、ちゃんと大人になれてよかったね。
……それだけを確かめて、別れてもいい夜だった。
イタリアンのお店を出て、タグボート大正のオープンスペースを姉に案内していた時。
姉のスマホが鳴った。
「……え、めったにかかって来ないんだけど、お母さんから」
音楽がうるさい場所だったので「かけ直す!」と言って、川べりの静かな席に移った。向かい合わせに座った私に、姉は言った。
「私が大阪にいるのも知らないはずなんだけど、急にかかってきたの。……話す?」
即答する。
「絶対に無理です、今は」
48年をいきなり飛び越えるには、準備が足りない。そもそも、母がどんな生活をしてきたかも、私を手放した経緯もさっき知ったところだ。
「わかった。じゃあ、一緒にいるのは言ってもいい?」
「……うん」
姉はテーブルの上の私の左手を握り、母に電話をかけた。
ふわっと泥臭い川のにおいが漂ってくる。暑い時期の大阪の川はこれだからイヤだ、と、わざと聴覚以外に意識を集中させる。
「大阪にいるの。そうそう、○○(下の妹)のところに泊まってて。今、誰といると思う?」
握る手に力をこめて、姉が伝えた。
「照美ちゃんといるのよ。今、目の前にいる。私、手を握ってる」
手の力に、ぐっと意識が引き戻される。母親がどんな反応をしたのか、聞きたくないのに、聞かされる。
「『抱っこしたい』って、泣いてる」
……実母の中で、私は10ヶ月の赤ん坊のままだった。
その言葉を聴くまでは、自分を産んだ人と一生会わない人生もある、と思っていた。むしろ、会いたくなかった。今さら。
そう思っていたはずが、想定外の言葉と泣き声に一瞬乱れた。乱れた後、ひどく冷静になった。物心ついてから他人の気持ちを読んで読んで裏まで読んで、合わせて生きてきた自分がぬっと現れた。
姉の電話の先の人を喜ばせたくて。
「1年以内に会いにいく」と言ってしまった。
……それから、半年が過ぎている。
姉からはときどきLINEが来る。私を心配する言葉や、近況を届けてくれる。その頻度と長さの3分の1しか返せなくて、自己嫌悪に陥る。ごめん、まだ全然、準備ができてない。
でもこれだけは、今でもちゃんと言えるから。
時間はかかるかもしれないけれど、待っててほしい。
「この素敵な人が、私の姉です。」