僕は、生まれて初めて"本”を読んだ。

僕は先週とても稀有な気持ちになった。その感動を書き留めておきたいと思う。いつものごとく最後には教育の話になるのであるが、お付き合いいただければ幸いである。
国語の教員でもなければ、文学部の学生でもないので、一学生の物語として受け取ってくださいませ。

渡辺健一郎『自由が上演される』

ひょんなことから友人に勧められ、上記の本を読むことになった。渡辺氏は早稲田演劇の出で、演劇教育や俳優として活躍している35前後の若手である。そんな方が書いた書籍である。内容は演劇教育の話と言いつつ、演劇の上演と教室の授業をうまく対比させながら、演者-観客、教師-生徒の「自由」とは何かを様々な哲学者の考えを引用しながら展開する、そんなところである。自由や主体性を日々考えている身としては、共感できるところも新しい考えを思いつくこともあり、とても楽しく拝読させていただいた。

さて、ここで書きたいのは本の内容の話ではない。メタ的な読者としての自分の心の話である。2行前に「楽しく」読んだと書いたが、まさにこの話をしたい。

"本"を読みなさい

よく昔から"本"を読めと言われていたような気がする。至極まっとうなことなのだろう。読まなかったが。
とはいえ、児童文学的なものは(推理小説っぽいやつだったが)読んでいたし、漫画も読んだし、中1の時には月1本よくわからない課題図書を読んで感想文を書くことになっていたし、文字自体は多少読んできたつもりである。ラノベもなろう小説も読むし、お勧めされた新書や、大学のレポート課題のために論説を読んだこともある。

しかし、昔から言われてきた”本"というものはそういうのじゃないんじゃね?とずっと思ってきた。

小学生の頃は、「文学作品」を読めということなのだと理解していた。なるほど確かに家には源氏物語っぽい背表紙のが本棚にあったし、幼児教室で明治文学の夏目漱石や芥川龍之介の冒頭部分を暗唱していたような気もする。そんなこんなで本=文学作品、本≠児童図書みたいなイメージがついていた。
中学生になってもそのイメージは基本変わらなかったが、現代文の授業で難しい教材を扱うにあたり、より高度で難解で理解できないもの=本というのが強まっていったように思う。「読書が好きです」という同級生には尊敬のまなざしを向け(ていたはず)、ラノベなんて低俗だしなぁ…でも面白いよねと思っていた。つまり本=難解なもの、本≠娯楽作品である。
高校生になると、総合学習や社会の授業で調べものをしてまとめるという作業が増える。そうすると必然的に書籍に頼らざるを得なくなる(Google検索でヒットするものは当然ダメだよね、なら書籍しかなくね?と思っていた)。まあもちろん自分から本を探すなんてことはできず、友人から読んでまとめろと言われた新書を読んでいた。そこで、「ほう、論説というジャンルがあるんだな」と(何を言っているのか矛盾だらけだと思うが)思った記憶がある。プレゼン関係の実用書も読んだし、自己啓発も読んだ気がする。が、まあそれは”本"じゃないよね、娯楽じゃね?みたいな気持ちだった。

高校生の頃にも倫理の授業で、「哲学者の言ってること分かる気がする!」と頓珍漢なことを思ったが、そんな海外の思想家の難しい本を読む気にはさらさらならなかった。「読むなら原著(もちろん外国語)で読まなきゃダメじゃね?」って某有名現代文予備校講師が言っていたのも働いて哲学書は本だが、読もうとは思わないという感じだった。

ついぞ大学生になっても本は読まなかったが、そんな高校生の経験を思い出し、「先人たちの知恵が詰まっている実用書こそ本なのでは…???」とパラダイムシフトをしたのを覚えている。遅い。この時初めて「高校生の頃に読んでおけばよかった…。」と思ったのである。
しかし、ふと我に返れば、親や教員が「本=実用書を読みなさい!」と言っているとは到底考えづらく、なんともわだかまりを残したまま今日まで生きてきた。

"本"との出会い

いや、ここまで仰々しく書いてきて何を言いたいかと言われると自分でもよくわからなくなってきたが、先週、僕は生まれて初めて"本”に出会ったのである。

冒頭でも述べた「自由が上演される」は僕がここ数年間抱えてきた問題意識にドストレートにアタックしてくる文章であった。いろんな哲学者を引用し抽象的な概念が多数出てくるが、著者の実体験を想定した分かりやすい例えと自分自身の経験も相まって、わかるのである。大学受験の現代文の対策って何だったの?って思うレベルである。わかるからこそ、どういう論を展開してどこに行きつくのかがとてもワクワクするし、自分だったらこういうアプローチができるかもしれないと思索が深まるのである。少し難解な部分もよく読めば著者が丁寧に書いてくれていることが分かり、するすると身になっていくのを感じた。

そうか、これが"本"を読むということなのか。

そう大真面目に思ったのである。

まあ、ちょっと興奮がさめてみれば、自分が理解していたと思っていたものの大半は誤読だった気がするし、ガチ哲学書ではなくそれを引用する若手演劇人(比較的歳が近いし、属性も近い)が書いているものなんだから、わかりやすいのはそうでしょうよという感じである。今まで難解な文学や哲学書が本だって主張していたのはどこ行っちゃったのよとは思うが、僕としては"本"を読むってこんなにも楽しいんだなと確かにその時思ったのである。noteを書こうと思っちゃうほどに。

"本"を読ませる

さて、では教員目線に立ち返って"本"の魅力を生徒に伝えるにはどうしたらいいのだろうか。というか、僕はどうしてその境地に至れたのだろうか。

一つには、自分自身が考え、実践し、反省し、考えるサイクルをしていたことがある。二つ目に、そうした経験を文字にして人に伝えたいとすら思っていたし、実際多少文字も書いてきた。自分自身のそのテーマに対する経験値と、文章を読む・書くという経験値の両方があって初めて読書の姿勢は養われるのだろうか。では、どうやって中高生にその姿勢をつけさせようか。

…いや、無理じゃね?

だからこそ、作文教育や図書館に慣れ親しむことが重要視されるのだろうか。それにしたって、国語の教科書に乗っているような作品でさえちゃんと生徒に理解させるのは大変に苦しいだろう。実際、全然分からんかったし。

でも、確かに記憶に残っているものはある。それはその当時の経験として持っていたものからなんとなく理解できたものかもしれない。丸山真男の「であることとすること」で触れられていた「権利の上に眠るものは保護に値しない」という話や、小林秀雄の「無常ということ」で触れられていたろうそくの話(違う教材だったかも)は今でもメッセージはちゃんと覚えているのである(ちゃんとと言っていいのか分からないが)。

しかして、経験も思想も浅い、自分で論理的な文章すら構築できない子供にちゃんと授業をする国語教員のプロフェッショナル性に回りまわって畏怖すら抱いた。どの教科でもそうかもしれないが、浅学な生徒に対してそれでも面白さを伝えようとする(そして伝わる)試みはまさしく"教科の専門性"に他ならないし、教員という専門職が何かに取って代わることができないことを示しているようにも思えた。

おわりに

まあいろいろ書いたが、最近は論文を読むのも楽しくなってきていたところだったのでしかるべきタイミングだったのかなとも思う。1万時間の法則とかもあるが、ある程度やらなきゃ見えない世界がやっぱりあるんだろうなぁ、とふと思う。
であればあるほど、現場の教員すげぇとなるのだけなのだが。教職取り終わったとして、そんなすごい人になれる…のか…?

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