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「個人の自由」と「集団の規律」
はじめに
皆さんは、
生徒の「個人の自由」を尊重する一方で、
クラスや学校全体の「集団の規律」も守られないといけない、
そんな、一見すると対立的にも見える二つの指導原理の間で、戸惑いを感じたり、迷ったりしたことはありませんか?
今回は、実はこの二つは相互排他的に対立する原理ではない、という考え方をお示ししたいと思います。
「個人の自由」の広まり
1990年代以降、日本でも西洋に倣った自由主義思想が一気に広まり、「個人の自由」を最大化することこそが、先進的で洗練された社会の在り方だとみなされるようになりました。
学校教育においても、「子ども本人がやりたいと思ったことをやるべきだ」「子どもの自由な意見を尊重すべきだ」という考え方が常識となっていきました。
では、「個人の自由」を際限なく追求していくと、どうなるでしょうか。
自由主義の極致
個人の完全な自由とは、いかなる規律や規制にも縛られない状態です。
ルールのない世界。それが自由主義の極致なのです。
例えばそこでは、「商取引」は成立しません。
お金や物品について「所有」を認める規律がありませんから、奪えば良いのです。もちろんその際、暴力を振るうことにも規制はありません。
「商取引」一つとっても、様々な規律(ルール)によってそれが成り立っていることは明白です。
そこは紛れもなく「個人の自由」を追求したはずの世界ですが、「商取引の自由」すら守られないのです。
「個人の自由」のための「集団の規律」
ここで、「集団の規律」の大きな意義が見えてきました。
「集団の規律」は「個人の自由」のために必要不可欠なのです。※
私たちは、「所有」が集団の規律によって認められているから自由に買い物ができるという事実や、
「暴力」が集団の規律によって禁じられているから自由に外を出歩けるという事実を忘れ、
何となく、自力で自由を謳歌している気分になりがちです。
そして、むやみに規制を緩和したり、ルールをなくして、自由を追求しているつもりになってしまうことさえあるのです。
私たちは「完全な自由」のようなものを追求する必要はないのです。
「共同体」という意識
「権利は生まれながら当然にある」、
「お金さえあれば、生産物は当然いくらでも買える」
こうした誤解は、その自分の存在や行為が、他者に支えられている、という前提を忘れたところから生まれます。(過去の記事でも取り扱ってきました)
権利、FIRE、個人の自由…この辺りの認識の歪みには、私たちの「共同体という社会集団のなかに生きている」という認識が希薄化してしまったことが通底しているように思えてなりません。
子どもたちが大人になったときには、「皆で支え合ってるんだから、お互い様だよね」という、本当の意味で自由な共同体社会を目指してもらいたいところです。
本日もお読みいただきありがとうございました。
(※逆に、「個人の自由」が「集団の規律」のために必要不可欠ということはありませんから、順序としてはまず「集団の規律」を築くことが先決です。
また、「自由」に寄与しない「集団の規律」には、見直す余地があるのかもしれません。)