バイデンは習近平の「老朋友」をさらに掘り下げる
バイデンは習近平の「老朋友」をさらに掘り下げる 2021年12月6日に掲載
表題にした「バイデンは習近平の老朋友」とは12月2日に書いた記事(無料)の題名である。そこではバイデンと習近平の(とくに習近平の)トップに上り詰めた過程と、古くからのお互いの特殊な接点などを解説している。
今週はそこで書ききれなかった重要なポイントを補足する。12月2日の記事との重複は出来るだけ避けるので、その記事も読み返して頂きたい。そこから最近の習近平の「異常な焦り」や、バイデンの「異常な指導力の欠如」や、何よりも「複雑怪奇」な米中関係の今後が分かってくるはずで、今後の世界の政治、経済、株式など金融市場を考える際にも参考になるはずである。
「老朋友」とは、11月15日の米中オンライン首脳会談で習近平が開口一番にバイデンに呼びかけた言葉で、そこから会談はすっかり習近平ペースになった。つまり「老朋友」には、本来の意味であるバイデンは習近平の「古くからの親しい(対等な)友人」というより、「パシリに近い」とのニュアンスが読み取れる。
その1 習近平が政治局常務委員入り出来た理由
バイデンと習近平の「特殊な接点」は、2012年2月6深夜に薄熙来の腹心とされていた王立軍が亡命を求めて四川(成都)の米国領事館に駆け込んだところから始まる。ちなみにこの成都の米国領事館は現在閉鎖されている。まずそこに至るまでの中国共産党上層部の暗闘から始める。あまり時代を遡っても長くなるだけなので、江沢民から始める。
1989年6月4日の天安門事件を主導した当時の最高指導者・鄧小平は、直後に4中全会(国会に相当)を招集して常務委員会トップの趙紫陽・総書記を解任して、その後任に江沢民・上海市党委員会書記兼市長を抜擢した。常務委員の1ランク下の中央中委員からの異例の抜擢であるが、江沢民は天安門事件前後に超保守派の鄧小平に阿る(おもねる)言動を繰り返す猟官運動を繰り返していたことは事実である。江沢民はその猟官運動を主導していた曽慶紅など少数の腹心だけを連れて北京に乗り込む。
1926年生まれの江沢民は95歳になるが、まだ健在である、江沢民の実父の江世俊は日本軍占領下の江蘇省で日本の特務機関に所属しており、日中戦争時代は日本の傀儡政権と言われた汪兆銘政権の官吏だった。「漢奸の息子」だった事実を隠すために、親戚の分家の養子となる。完全に消し去られているが江沢民自身も終戦直前には日本軍が管轄する南京中央大学に入学しており、日本語も少し話せる。戦後、南京中央大学と上海交通大学が合併しているため、江沢民は上海交通大学卒業となっている。そこから上海のいくつかの工場で行員として働き、1946年に中国共産党に入党しているが決してエリートではなかった。
後年共産党トップに躍り出た江沢民は、過去とくに父親の経歴を隠すために猛烈な反日運動を展開する。慰安婦問題も南京虐殺も靖国神社参拝の批判も、すべて江沢民時代に始まり現在に至っている。北朝鮮にも韓国にも日本にさえ、その協力者がいる。
そして江沢民は北京入りすると同時に、軍部に絶大な影響力を維持していた長老・楊尚昆(元国家主席)、北京市党委員会書記兼市長の陳奇同らを追放して勢力固めに取り掛かる。普通は抜擢されると業務に邁進するものであるが、まず政敵の追放から始めるところが中国共産党らしい。江沢民は1992年、1997年の党大会も総書記に再任され、2002年の党大会ではいよいよ院政を敷く体制の仕上げに掛かる。鄧小平は1997年の党大会直前に亡くなっていた。
ここでやや横道に逸れるが、中国のトップは共産党総書記(常務委員会序列トップ)、党中央軍事委員会主席、国家主席を兼ねる。その中で実質的に最重要の役職が党中央軍事委員会主席である。鄧小平もこのポストだけは1990年3月まで江沢民に譲らなかった。また通常はトップが軍事委員会主席に就いた時点で「本格政権」となり、その後継者は同副主席に指名された時点で「有力後継候補」となる。
実は共産党総書記の権限はそれほど大きくなく、趙紫陽ら任期途中で解任された例もある。ここでも習近平は毛沢東に並ぶ権限を持つ共産党主席を復活させようとしており、2022年秋の党大会がポイントとなる。また国家主席は象徴的な意味しかない。
話を戻すが、2002年秋の党大会では共青団出身の胡錦涛がトップの総書記に指名される。これは鄧小平が指名していたもので、さすがに江沢民も反故にできなかった。その代わりに常務委員会の定員を9名に増員し、曽慶紅ら腹心を常務委員会に多数送り込んでコントロールし、さらに最重要の中央軍事委員会主席を2004年9月まで譲らなかった。また胡錦涛はその時点で自身の後任となる同副主席に、人民解放軍でも最強の瀋陽軍区トップだった軍人の徐才厚を指名する。この徐の命運については後述する。
その2 習近平がトップの総書記になれた理由と、オバマ政権のアシスト
そしていよいよ習近平、李克強が常務委員会入りした2007年秋の党大会である。トップの胡錦涛は続投であるが、そこでなぜ習近平が次回(2012年秋)党大会で序列が上の常務委員がすべて定年(68歳)で退任するため、胡錦涛の後継者レースの先頭にいる(ように見える)序列6位の常務委員に選ばれたのか? ここは重要なところなので「じっくり」考えたい。
ここで2002年秋に発足した胡錦涛1期目の常務委員会メンバーのうち、最も江沢民に近い実力者は曽慶紅(国家副主席)で、胡錦涛の後継指名にも大きな影響力を保持していた。曽慶紅は胡錦涛より年長であるため自身は後継者にはなれない。ところが胡錦涛体制1期目の終わりころには江沢民と曽慶紅との間に「隙間風」が吹きはじめ、そこを狙って習近平が曽慶紅に猛列な猟官運動を働きかける。習近平は江沢民派ではなく(ただ南部の勤務が長かったため江沢民とは全く面識がなかったということもなく、習近平も一時期江沢民の「上海閥」を自認していたことまである)、共青団メンバーでもない。習近平は太子党に分類されるが、太子党とは共産党幹部の二世、三世の相称で政治的な団結は薄い。
そんな習近平は江沢民の最側近でありながら胡錦涛にも接近していた曽慶紅に取り入って気に入られ、最終的に曽慶紅の国家副主席の役職を譲られて常務委員会入りを確定する。当時の習近平は常務委員会入りを目指して「相当節操のない猟官運動」を繰り返していたことになる。
ただ実質的に権限のない国家副主席の役職だけでは、常務委員会の多数派を占め、上海工業閥や石油閥を含む数多くの経済利権や中国東北部と朝鮮半島さらには情報・公安部門まで押さえるほど強大化した江沢民派に対抗できない。そこで習近平は江沢民にも胡錦涛にもすり寄っていたことになる。
曽慶紅は2007年秋の党大会時にはまだ68歳の定年前で常務委員に再任されると思われたが退任し、そのまま習近平がその空いた枠に滑りこんだ。序列は6位であるが常務委員会メンバーには後ろ盾が全くいない。習近平は2010年10月に「やっと」軍事委員会副主席の座を徐才厚から奪い取る。ここで習近平は胡錦涛の後継にかなり近づいたが、まだ「確定」ではない。
常務委員会の過半数は依然として江沢民派が握り、胡錦涛支配下の李克強もいる。何よりも江沢民は、常務委員の1ランク下の中央委員から重慶市党委員会書記兼市長の薄熙来をトップに抜擢しようと画策していた。この二段飛びの抜擢は、江沢民自身が経験している。
そんな中の2012年2月6日深夜、薄熙来の腹心とされていた王立軍が亡命を求めて四川の米国領事館に駆け込む。江沢民や薄熙来の「悪事」や「薄熙来をトップに据える計画」の証拠を「山ほど」抱えていた。
この辺は12月2日の記事に書いてあるので、詳しくは繰り返さないが、当時のオバマ政権は「山ほど」ある証拠だけを取り上げて王立軍を中国当局に引き渡した。これで薄熙来は失脚し、江沢民の薄熙来をトップに据える計画も立ち消えたが、数多くの経済利権はまだ江沢民派が維持したままだった。この時点で習近平が胡錦涛の後継となることが「やっと」確定したものの2012年秋に発足した習近平1期目の常務委員会は相変わらず江沢民派に過半数を押さえられていた。
ここで当時の米国政権についても見ておかなければならない。王立軍が逃げ込んだ2012年2月時点は、2009年1月にスタートした民主党のオバマ政権1期目であり、副大統領がバイデン、国務長官がヒラリー・クリントン、政権内ではないが上院外交委員長(2期目の国務長官)がジョン・ケリーと見事に親中政権である。オバマ政権の前が共和党のブッシュ(息子)政権であるが、その前のクリントン政権も夫婦そろって親中政権だった。
だいたい貧乏学生だったビル・クリントンやオバマが、カネが大量に必要は知事選(クリントン)や上院議員選(オバマ)、それに大統領選を戦えたはずがない。当時はネットを通じた献金などなかった。中国は相当昔から世界中で(もちろん日本でも)親中となりそうな候補に密かに資金支援や経済メリットの提供を続けている。クリントンもオバマも「そうではなかった」と考える方が不自然である。
王立軍が逃げ込んできた時点で、オバマ政権には「王立軍の亡命を受け入れ証拠を握りつぶして薄熙来政権を誕生させる」と「亡命を拒否して押収した証拠を習近平に渡して貸しを作る」の2つの選択肢があったが、後者を選んだため習近平政権の誕生が確定した。習近平・副主席(当時)は大慌てで直後の2012年2月13~17日に訪米している。その時のホスト役はバイデン副大統領(当時)であるが、これは序列を合わせる外交の基本ルールである。ただバイデンはその半年前にも訪中して習近平と会っており、そのころから習近平の「老朋友」となっていたはずである。
一方ヒラリーと中国の関係は、夫のビル・クリントンがアーカンソー知事だった1979~1993年頃からで、はるかに「年季」が入っている。鄧小平、江沢民の時代で習近平との関係は希薄だった。だから同じ習近平時代に行われた2016年の大統領選ではトランプに敗れている。ヒラリーは習近平の「老朋友」ではなかったことになる。
その3 江沢民の影響を排除したい習近平が打ち出した政策と、その効果
2012年秋に習近平政権1期目がスタートすると同時に、綱紀粛正を理由に江沢民幹部を中心に猛烈な粛清と、その隠し財産や利権の洗い出しに取りかかる。これも中国共産党らしい。ただ胡錦涛は退任時に党中央軍事委員会主席を含む全役職を習近平に移譲していたため、習近平は胡錦涛に遠慮する理由は何もなくなっていた。
習近平の粛清は多岐にわたるが、その最大ターゲットは江沢民派の経済利権、人民解放軍、公安・諜報関係で、現在まで続いている。経済利権関連の最大の大物は、常務委員だった周永康で2015年に無期懲役に追い込んでいる。押収した周一族の隠し財産は145億ドル(1.6兆円)と言われるが、肝心の経済利権は習近平1期目の常務委員会メンバーに分散して継承されており、習近平は現在に至るまでそれら経済利権をほとんど切り崩せていない。
つまり習近平による習近平の経済利権への切り崩しは成功しているとは言えない。その習近平の「焦り」がアリババや滴滴出行や恒大集団集団など江沢民派に近いとされる巨大企業に対する圧力となり、その理由として「共同富裕」や「毛沢東時代への回帰」などを打ち出している。目的と手段が逆転しており、自国の経済成長よりも習近平自身のメンツを優先する経済政策である。
また習近平は実父・習仲勲を鄧小平が陰謀で追放したと信じており(史実は毛沢東が保身のために追放した)、余計に鄧小平の開放政策を批判している。本来の経済政策はNo2である李克強・国務院総理(首相)の管轄であるが、習近平は李克強を全く信用しておらず、また補佐する経済担当副首相も置かず、比較的まともな劉鶴・副首相も通商担当である。この理由は、2022年秋の党大会においても李克強はまだ定年前であり、再任の可能性があるため退任させるため徹底的に干している。もっとも既に定年の68歳となっている習近平は、自らその定年を無視するわけである。
いずれにしても習近平の経済政策は、ますます自分中心に動くため、中国経済が高成長を取り戻すことは難しい。もともと不動産の値上がり益に依存して成長してきた中国経済は、真っ先に不良資産に押し潰される。中国の低格付け社債の価格は、既に不気味に値下がりしている。
それでは人民解放軍に対する粛清はどうか?
人民解放軍とは中国共産党が指揮する中華人民共和国の軍隊で、陸、海、空、ロケット、戦略支援の5軍があり、全兵力は200万と言われるが予備役もいるはずで全体像は公表されていない。もともと戦前の軍閥の流れを引いており、全体としての結束力は弱い。従って2016年までは北京、瀋陽、済南、南京、広州、蘭州、成都の7軍区に分かれていた。
もともと各軍区は武器や食料や資金まで自前で調達する「米国でいう軍隊と軍産複合体を併せたような存在」であり、各軍区には利権が集中する「独立国」のような存在でもあった。その中でも前述の胡錦涛が軍事委員会副主席に指名した徐才厚が率いる瀋陽戦区は、もともと馬賊・匪賊の集団であり中国最強で、利権が集中して資金が豊富で、以前から共産党の指令に全く従わなかった。
習近平は2014年6月に徐才厚を収賄等で逮捕する。その時点の徐は末期の膀胱癌で入院していたが、それでも家族とともに連行した。徐は2013年に香港で100億香港ドル(1450億円)のマネーロンダリングにも関わっていたが、この資金は「消えて」しまっている。
徐は2015年3月に死亡するが、結局のところ習近平は瀋陽軍区の利権にはほとんど切り込めなかった。それは中国東北部そのものが江沢民派の利権に含まれていたからである。
習近平は人民解放軍に対する指導力を強化するため2016年2月に7軍区を、北部、中部、東部、南部、西部の5戦区に再編成するが、肝心の北部戦区となった瀋陽軍区は内モンゴルや済南地方を加えて「もっと強大化」してしまった。唯一習近平の意のままに動く北京を中心とする中部戦区は逆に縮小してしまった。
現在でも台湾や尖閣諸島を管轄する東部戦区、核兵器を保管する西部戦区、もともと異民族が多く北京に従わない南部戦区など、習近平の指導力が及んでいない戦区の方が多い。現時点で緊張が増す台湾海峡を管轄する東部戦区の海、空軍は、必ずしも習近平の意向だけで動いているとは考えないほうが良い。つまり軍(東部戦区)が暴走する。リスクは想定されているよりはるかに高い。
つまり習近平は人民解放軍の粛清にも指導力強化にも、ほとんど成功していない。
それでは最後の公安・諜報関係の粛清はどうなっている?
前述の周永康は公安・諜報関係も管轄していたため余計に狙われたことになる。王立軍が逃げ込んできた2012年2月6日の少し前である2011年11月27日に北朝鮮の金正日が死亡する。金正日は2008年8月に脳卒中で倒れているため、張成沢はその頃から中国と「後継は金正男」と相談していたが、それを周永康は「そっくり」盗聴していた。そして金正恩政権になると周はこれを金正恩に教える。朝鮮半島も江沢民派の利権であるため、金正恩も抱き込んでおくためである。
その結果は、2013年12月に張成沢は残忍な方法で処刑され、金正男は2017年2月にマレーシアで毒殺された。また金正恩は2018年まで訪中せず、独自のミサイル開発を進めることになる。
そして習近平は次回の党大会が近いからか、今も公安・諜報関係の粛清を続けている。しかし習近平は政権を握っているため、以前からの公安・諜報部門も「身内」に抱えていることになる。ところがその部門の中枢には江沢民派だったメンバーが多い。つまり習近平は今も身内の公安・諜報部隊を「疑心暗鬼」のまま起用していることになり、ちょっとでも不審なところがあるとすぐに粛清している。
最近も傳(ふ)政華、劉杭国という江沢民派だった幹部を追放している。これでは重要な情報が習近平に上がってくるはずがない。
つまり毛沢東に近づき終身の党主席になろうとする習近平の野望は明らかにアナログであり、まだその立場は盤石であるようには見えない。いずれにしても中国経済が先に崩壊すれば、その野望も消滅する。問題は世界経済にも影響が甚大となることである。
今でも2022年秋の党大会までにクーデターか何らかの理由で、習近平が失脚する可能性も10%くらいあると考える。
最後にその習近平に「老朋友」(つまりパシリ)と考えられているバイデンの今後はどうなのか? 中国の人権問題や台湾有事や北京オリンピックの政治ボイコットなど、結構「パシリとしては強気の発言」が続くが、本気度は不明で現場がどこまで従うかも不明である。それだけバイデンの指導力、存在感は落ちている。
とくに米軍は当面は中国の台湾進攻は2024年の台湾総統選までないと考えている。戦闘より総統選に介入して(不正投票で)親中の総統を誕生させる方が「はるかに」安上がりだからである。ただ米軍も人民解放軍の東部戦区が、必ずしも習近平の意向に従わず暴走するリスクがあることは理解している。
肝心の米中通商問題についてはまだテーブルにもついていない。その前にバイデン自身が中間選挙まで「耐えられるか?」が心配であるが、この辺はまた改めて解説したい。
中国共産党の「奥の院」の暗闘をやや詳しく解説することにより、今後の「中国リスク」を考えてみた。それが今後の世界の政治、経済、株式など金融相場を考えるにあたり、参考になると信じているからである。
2021年12月6日に掲載