見出し画像

幻の繁華街「中洲新地」のこと

 江戸で一番の盛り場といえば、両国広小路であろう。しかし、来年の大河(2025年放送予定の『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』)の時代、両国をも凌ぐ幻の繁華街が二十年にも満たない短いあいだではあったが、江戸に存在していた。それが「中洲なかず新地」である。
 それではまず、江戸切絵図で中洲新地があった場所を確認しておきたい。図1の右上に見える新大橋の下流で、浜町はまちょうに隣接する三俣みつまたと呼ばれるあたりだ。とはいっても、嘉永三年(1850)の切絵図だから、中洲新地はすでにない。

図1)江戸切絵図の三股周辺

 それでは、徳川幕府が編纂した『沿革図書えんかくずしょ』(図2)で、三俣周辺の変遷を見てみよう。左から、延享年間、明和年間、文化五年の様子である。各図の中で上に見える橋が新大橋である。真ん中、明和年間の図を見ると、新大橋の下流域に、浜町と地続きになった埋立地が見える。図には「三俣出洲でず築地つきじ」の文字がある。

図2)沿革図書に見る三俣周辺の変遷

 埋立地は下図(図3)のとおりだ。新大橋の下流、浜町に隣接するおよそ九千坪だ。

図3)築立図

 では、埋め立てが始まる前、三俣周辺の様子を宝暦十三年(1763)の分間江戸大絵図ぶんけんえどおおえず(図4)で見ておこう。新大橋の下流、三俣のあたりにはそれらしい場所はない。

図4)宝暦13年の三股周辺

 その頃、一人の男が老中の末席に連なった。田沼主殿頭とのものかみ意次おきつぐ)である。

図5)安永2年の武鑑

 明和八年(1771)、大伝馬おおでんま町の草創名主くさわけなぬし馬込勘解由まごめかげゆの願いにより、埋め立ては始められた。安永四年(1775)には三俣富永町が起立した。ここに、江戸随一の歓楽街「中洲新地」が誕生したのである。新たなウォーターフロントは空前の賑わいを呈した。川べりには茶屋が立ち並び、夏には花火や月を楽しむ人びとで賑わい、昼夜を問わず、弦歌が聞こえてきた。両国が寂れるほどの繁栄ぶりであったという。
 明和九年(1772)の分間江戸大江図(図5)で見てみよう。図はまだ町屋ができる前だが、新大橋の下流に浜町と地続きの新地がはっきりと描かれている。

図6)明和9年の三股周辺

 しかし、どんな繁栄にもやがて終わりはやってくる。
 天明六年(1786)、田沼主殿頭は老中を追われ、代わって松平越中守えっちゅうのかみ(定信)が老中となる(図7)。田沼が失脚し、寛政の改革が始まると、東京ドームにもおさまるほどの、この小さな歓楽街は寛政元年(1789)には取り壊され、翌二年には大川の水底に没した。

図7)天明8年の武鑑

 寛政四年(1792)の分間江戸大絵図(図8)にはもう「中洲新地」の姿はない。まさに時代の徒花あだばな、田沼バブルの産物であったといえるかもしれない。

図8)寛政4年の三股周辺

 それから、およそ百年の後、明治十九年(1886)、この地は再び埋め立てられ、中洲町となった。国土地理院の地図で昭和十年代(1936-42)の航空写真(図9)を見ると、隅田川(大川)の対岸とは清洲橋で、浜町や箱崎とも橋で繋がっており、人工島のような姿だったことがわかる。
 明治に蘇った新生「中洲」は芝居の真砂座ができるなどして、いっときは賑わったようだが、大正期にはその賑わいも失われてしまっていたらしい。

図9)昭和10年代の中洲

 しかし、「日本橋中洲」として令和のいまも残っている(図10。Googleマップより)

図10)令和6年の日本橋中洲

#江戸時代 #江戸幕府 #徳川幕府 #御府内沿革図書 #沿革図書
#江戸切絵図 #江戸名所図会 #江戸下町 #古地図 #中洲新地
#地図で楽しむ #地図で妄想する #地図で遊ぶ
#時代劇 #時代小説 #歴史小説 #大河ドラマ #べらぼう


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?