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三代目林家正楽一周忌追善興行

風邪だ高血圧だ薬の副作用だ……と今年の一月はほとんど落語に行けなかった。
無駄にしたチケットの数々に涙が滲む。

1/29(水)はようやく上野鈴本演芸場に行くことが出来た。
三代目林家正楽一周忌追善興行である。
これも前売チケットを買っていたのだ。
お陰様で無事それを利用することが出来た。

さて、三代目林家正楽一とは寄席の紙切り芸人である。
お客様のご注文に応じて紙をその場で切って見せる芸人である。
下の写真はその技術でもって時間をかけて切った切り絵である。入場時に客全員に配られた。
冒頭の写真はこれを額に入れたものである。

丁寧に切られた季節の切り絵

寄席の短い時間で高座で切る絵は、もっと簡略化されている。
けれどお題に応じて機知に富んだ絵が切られるのだ。

正楽師匠は昨年一月みまかった。享年76。
聞くところによれば、普段のように酒を吞んで眠り、翌朝家族が寝室に起こしに行ったら亡くなっていたという。
前日までふつうに働いていたのだ。
ある意味、理想の死に方だと思ったものである。
(もちろんご家族はもとより多くの方々は、理想も何も、ただ生きていて欲しかったでしょうが)

正直に言えば、私は林家正楽師匠が特別に大好きだった!
というわけじゃない。
でも嫌いだったわけでもない。
ただ落語の合間に出て来る色物さんという認識だった。

昨年一年間、正楽師匠の出ない寄席を見るにつけ「何か足りない?」と思ったものである。
ゆるみが足りないというか。
私にとってはそういう存在だった。
亡くして初めてわかるその偉大さ……。

そして今回いわゆる色物さんと呼ばれる紙切芸人の威力を改めて思い知った。
今回は一門の紙切り芸人が三人も出る珍しい興行だったのだ。
林家二楽、楽一、八楽の三人で鼎談などもあった。

そもそも客が落語を聞くには想像力が必要である。
寄席で次々に出て来る落語家の噺を聞いていると想像力でフル回転した頭は疲れて来るものなのだ。
当人は意識していないけれど。

そこに色物さんと呼ばれる芸人、紙切り芸だのマジックだの太神楽だのが入ると頭の緊張がほぐれるのだ。

私がそれに気づいたのは寄席に行き始めてから大分立った後である。
それこそ正楽師匠の揺れる紙切り芸に慣れた頃といってもいい。
色物さんが入ると頭がふわっと緩むのだ。

今回はその色物さんが三人も出演したのだから、寄席空間が何とも言えずゆるかった。
良い意味である。
まったりしたというか、のどかだったというか……。
ほめ言葉である。

落語家さんはそれぞれに正楽師匠との思い出を語ってから落語に入る。
けど合間に色物として、二楽さん、楽一さん、八楽さんといちいち紙切りが入るのだ。

しまいには三人並んで高座に上がって、それぞれがご注文に応じて紙を切るのだ。
ゆるいったらありゃしない(だから、ほめてます)。

けれどトリの二楽さんが紙切り劇は違っていた。
これは、あらかじめ切ってある紙をOHPで次々と投影して、ひとつのドラマにする芸である。
台詞のない漫画と言ったらいいかも知れない。
場面、場面が連続して投影されて行くのだ。
客はそれを見て、物語を想像する。

二作品あった。
一つは松山千春の歌にのせて、恋人同士が別れてやがて再会するまでの物語。
もう一つは小林幸子の歌にのせて、女の子が両親の思い出に感謝する話。

漫画のように切り絵が連続するのだ。
男女のすれ違う絵があったり、主人公の表情がアップになったり、北海道の雄大な大地の絵があったりする。
台詞がない分、感動する。

そして私ははっきり悟った。
これは落語と同じように頭を使っている。
客の注文に応じて芸人さんが紙を切っているのを、ただ漫然と見ているのとは違う。
脳がきゅっと働いているのがわかる。
言葉や絵だけで物語を想像するのは、実はけっこう脳が疲れるらしい。
もちろんその労力に見合う感動もあるのだが。

なるほどなあ。
と、妙に感心した一夜でもあった。

どっとはらい。


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