久しぶりの劣等感
劣等感とは長いつきあいである。
基本に自己卑下があり、幼い頃より劣等感にまみれていた。
どーせ私なんか……どーせ、どーせ。
……というヤツである。
一人暮らしも長くなれば他人と接することも減る。
ましてBBAにもなれば、他人と競べて劣等感に浸ることも少なくなった。
けど、なくなったわけじゃない。
と、今日久々に思い知る。
とある昼間の落語会。
帰り道でファン仲間と一緒になった。
仲間というのも烏滸がましいが、同じ落語家のファンクラブに入っているのは事実である。
彼女は推しの落語会には必ず姿を見せる。
地方遠征もまめにする。
ひたすら推しだけを追っかけている。
あれも好き!
これも好き!
といろいろな落語家を追いかける私とは、ひたむきさが違う。
推しとも親しく言葉を交わすようになっている。
正にファンの鑑!!
今日はたまたま帰りが一緒になり一本道だから、結構長い時間話すことになった。
何かもう……溢れるような推し愛を拝聴するばかりである。
やはり同じファン仲間などと称するのは畏れ多い。
彼女は推しのみならず、その属する一門にも詳しい。
詳し過ぎる。
一門の亡き△△師匠の噺を、同じ形で□□師匠が習っていて、だから若手の◯◯さんや◇◇さんにも伝えていて……云々。
三遊亭圓朝の『怪談牡丹燈籠』も本人の速記から、他の作家のものも読んでいると。
どの噺家が誰の本を元に語っているかわかるとか。
いやいやいや!
私は圓朝本しか読んでないぞ!!
何だよ!?
その学究っぷりは!
それに競べて私と来たら……
ただ、げはげは笑って、
「は〜、やっぱり◯◯さんの落語は面白いわ〜!」
とか、ほざいてるだけ。
レベル低過ぎだろうがよ。
これから彼女はやはり一門の小さな落語会に行くのだそう。
駅前で別れる頃にはすっかりうなだれている私であった。
わかっちゃいるよ。
楽しみ方は人それぞれ。
深掘りする人はどんどん掘る。
同じ落語ファンでも違いはあるのだ。
私はただ単に笑いたいだけ。
いろいろな人の落語を楽しんでいる。
比べることはない。
推しに関しても、はっきり言えば落語が好きなのであって、プライベートはあまり知らなくてもいい。
(他の落語家に関しても同様である)
ま、知ったら知ったで嬉しいんだけどさ……。
ついでに、大喜利も好きではない。
その場の閃きで笑わせる大喜利は、落語とは全く違うものである。
まして推しが大喜利に出る場合、たいがいボケ役に徹する。
他の落語家を輝かせる役に回るのだ。
だから推しが出るからというだけで、わざわざ大喜利を見に行く気もない。
何だかいろいろうるさいけれど。
それが私のスタンスなのだ!!
そう自認しているのに、彼女のような博識なファンに面と向かうと落ち込んでしまうのだ。
「おまえは浅くて駄目だ」
と誰かに叱責されたような感覚に陥るのだ。
誰も何も言っていないのに。
ああ、本当に久しぶりの感覚だったよ。
劣等感の自己卑下地獄。
ところで今夜は中秋の名月だった。
夜半ベランダから撮った名月が冒頭の写真である。
月まで劣等感を恥じて雲に隠れているではないか。
ホントにもう!!
どっとはらい。