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大河ドラマとムダ知識

2025年の大河ドラマはこれである。
「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」


昨年までは平安時代だったのが嘘のような江戸時代。


と並べると、いかにも私は大河ドラマのマニアみたいである。
いや、とんでもない。
大河ドラマなんてほとんど見て来なかった。

これまで意識的に年間通して見た大河ドラマは「いだてん」「おんな城主直虎」ぐらいである。

幼少時に遡れば、親が見ていたので何となく眺めていた記憶はある。
緒形拳が武蔵坊弁慶を演じた「源義経」とか、緒形拳が大石内蔵助を演じた「峠の群像」とか……。
どちらかといえば大河ドラマではなく、緒形拳を見ていたような気もするが。

ちなみに緒形拳氏のご自宅は横浜市鶴見区で(今はどうだかわからない)、大学時代に学生寮から大学に通う道筋にあった。
車庫に入っているモスグリーンのベンツを見ながら「拳さんち」「拳さんの車」と言い合っていたものである。

……って、まったくどうでもいい情報である。

私の場合、たいがいの大河ドラマは一回目だけ見て脱落する。
がんばっても二回、三回ぐらいである。
「鎌倉殿の13人」とか「どうする家康」も何となく面白そうだと見始めたものの、途中で脱落した。

2024年の「光る君へ」を見てはっきりわかった。

どうも私は武士、合戦、下克上の城炎上して切腹、無念……といった話にまるで興味がないらしい。
何が「鹿は四つ足、馬も四つ足」だ。
何が「敵は本能寺にあり!」だ。
何が「三本の矢」だ「六文銭」だ。
何が「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」だ。
おまえが勝手に鳴いていろ!!

いや、違う。

武張った話にはうんざりなんだよ。
殺し合いはノーセンキュー。
と、ようやく自己認識したのである。

男が好むアクションものが大好きだという自己認識は何だったのか?
女子高生になるなり望月三起也『ワイルド7』にハマって全巻揃えた私は何だったのか?
深掘りすればセクシャリティの自己否認だの何だのが発見できるのかも知れないけれど、今更そんなのどうでもいい。

いや、望月三起也は面白いですよ。本当に。

話は脱線する一方である。
さてさて。

昨年夢中になった「光る君へ」は、山岸涼子の漫画『日出処の天子』を思い起こさせる場面が多々あった。
と書いても多分、代々の大河ドラマファンにはまるでピンと来ないであろう。

山岸涼子の『日出処の天子』とは、少女漫画の金字塔的名作である。
聖徳太子と蘇我毛人の恋物語……と書いてしまうとボーイズラブ!?
と敬遠されそうだが、そこに宮廷の権力争いを絡めた歴史物語でもある。

……と説明してみると「光る君へ」に実によく似た設定である。

『ワイルド7』を読んだなら、続いて『日出処の天子』も読んでみてください。
ちょっとした暮らしの彩りにぜひどうぞ。


いや、大河ドラマの話である。

2024年の大河ドラマは視聴率最低だった!
面白くも何ともなかった!!
という意見が散見されたけれど、それはこれまでの武張った戦国ドラマこそが大河ドラマと思っている人々の意見であろう。

女どもは色めきたったよ。
毎日曜日「光る君へ」が終わった直後のツイッター(X)など、まるで『日出処の天子』祭だったよ。

脚本家の大石静氏は意図的にあの漫画のトリビュート場面を挿入したのではないか? とさえ思われる。

五節の舞の場面とか、弓競の義とか……。
今や思い出せないのも悔しいけれど見た途端に、これはあの場面!!と閃いたものだよ。

そこまで過去の漫画を記憶している女も恐ろしい?

でも、それって男が三顧の礼だの、敵に塩を贈るだの戦国ドラマの名場面を記憶しているのと同じことだと思う。
いや、三顧の礼は日本じゃないか。

そうしてツイッター(X)では『源氏物語』や歴史に詳しい方々が、その回のドラマについてあれこれ解説してくださって。
ドラマを見て、ツイッター(X)で同じ意見に頷き、深い知識に感服し、一回で二度も三度も美味しいドラマだったのだ。

大河ドラマには、こういう楽しみ方もあったのかと初めて知った。

そして今年は江戸時代のドラマである。
今回も脚本家は女性、森下佳子である。
武張っていない!!
ああ、楽しい。

まあ、舞台が遊郭吉原ってところが女である私には微妙だが。
そこはそれ、女性脚本家である。
男性脚本家なら無邪気に吉原は嬉し楽しい夢の国、と描くのだろうが。
付け足しみたいに可哀想な花魁なんか描くのかも知れないけれど。

実は女にとっては花魁ならずとも、すべからく吉原は地獄なのである。
吉原外に住む長屋の女将さんにとっても、お屋敷に住む武家の奥方にとっても、本当に全女性にとって地獄なのである。
いつ自分がその地獄に堕ちるかわからないのだから。
女性脚本家はその事実を忘れて描くわけにはいかないだろう。
そこをどううまく描くかが腕の見せ所なのだろうが。

と、偉そうに語ってしまったが、実は私にとっての問題は、そこではない。

江戸時代といえば、落語の舞台である。
第一回の「べらぼう」から私はもう落語トリビュートしっばなしだよ。

吉原の大門から入って引き付け茶屋で一杯やってそれから店に出かけるって、落語「明烏」の世界がそのまま描かれている!
吉原道中の花魁と目が合ってキュンとするのは「紺屋高尾」「幾代餅」の世界だな。
そんな格式とは無縁のけころもあるのは「お直し」の世界。

第二回は二階屋から向かいの店の馴染みの女郎にやーいやーいと声をかける「首ったけ」を思わせるし。
大店のあの階段は立ち止まらずに一気に上がるのがしきたりと与太郎さんがご隠居から聞いたのは「磯の鮑」
店先にはもちろん若い衆さん、牛太郎がいるわけで。

江戸の町や長屋風景だって、まんま落語の世界である。
あそこに熊さん八っつあんが住んでいるのだ。
ドラマでは、平賀源内まで住んでいる。

そうして毎回、あの落語、この落語と思いつく私である。

とはいえ。
果たしてそれは良いことなのか?
いらん知識で水増しして見なくとも……。
まっさらな目でドラマを見た方が良いのではないか?

少なくとも今の私が無知な小学生だったなら、ごく素直にドラマを楽しんだことだろう。
成長して知識を蓄える過程で「ああ、これは大河ドラマで見たあれだ」とか思いつくのだろう。
それはとてもわくわくすることだろうなあ。
今となってはそう懐かしむばかりである。

ムダ知識ばかりを蓄えたBBAとしては……。
いや、言い方を変えよう。
知識と教養に溢れるBBAとしては残念な限りである。


どっとはらい。







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