供述によると編集者は……死にかけの自我を救いたい
Lilyの供述によると、ある番組の収録が終わったあと、バカリャウのコロッケをつまみに冷えた白ワインで乾杯した私たちはご機嫌だった、という。外はしつこく雨が降っていて、東京の夏特有のアスファルトから立ちのぼる湿気が邪魔をし、とてもポルトガルの様というわけにはいかなかった。
『供述によるとペレイラは……』(アントニオ・タブッキ著/須賀敦子訳)のポルトガルらしい陽光降り注ぐ暑い広場で、ペレイラが食事を取るあまたの場面の微細な描写が好きな私たちは、少し残念に感じてはいたが、それよりも高揚感が勝った、と振り返る。
天草の蛸、パプリカ、玉ねぎ、じゃがいもから成るタルタルと炭火焼きの鰯を混ぜたもの、サラダ、リゾットを注文し、近況を報告し合っているうちに店は混雑した。時刻はまだ六時にもなっていなかった、という。
ところで、訊きたいことがあるんやけど、いつも、死ぬその日の朝までも書いていたい、とあなたは言う。〈仕事〉が嫌になったことはないわけ? とLilyは切り出した。数十年の間、好んで続けてきたはずの自分の〈仕事〉が、それは本をつくる仕事だが、最近どうにもおもしろくなかったからだ。いや、正確には目の前の本に取り組む喜びは変わらない。だが、何かもっと大きな概念、いわば実存の意味において、本をつくり世に残し、だから? それがいったい何だというのか? とどうしようもない虚無に取り込まれるのだ、と供述している。
〈仕事〉ねえ、おれは書くことが嫌になったことはいちどもないね、会社が嫌になったことは、いまもそうだけどいくらでもあるけどね、と作家は言った。Lilyも同じだろ? 少なくともおれには、そう映る。
本をつくることが虚無の原因なのか、会社に辟易しているだけなのか、二つは混同されがちな概念ではあるに違いない、とLilyは考えた。それから、二つを切り離し、己の問題の本質がどちらにあるのかを突き止めてからでなければ、光明が見えようもないことを理解した。
そんなわけで、静養することにしたのだ、とLilyは供述している。物理的な静養ではなく、心の静養だ、という。長く〈仕事〉と休暇の境界が曖昧な生活を続けてきた。本を読むことは最大の喜びであったし、考えることは趣味を超えた生きる営み、すべてだった。見るもの、聞くもの、すべてが〈仕事〉に結びつく、あるいは〈仕事〉に結びつける。それが本をつくるという〈仕事〉そのものだった。しかし、そうした日常から意図して〈仕事〉だけを切り分けることにしたのである、と供述している。
〈仕事〉と〈遊び〉は、遠いところにあるものでなければ、だめなんです、と目の前にいる作家は書いた、とLilyは述懐している。本は自分が担当したので間違いない、その一文が楔のように何か己の核心をえぐり、そのまま放置してみたが、まるで治らないのだ、という。本をつくることが虚無の原因なのか、会社に辟易しているだけなのか、静養しながら判断がついたときには、何か大きな決断をすることになるだろう、とLilyは供述している。
〈仕事〉が楽しくても〈仕事〉ばかりしていては枯れるというのは、よく言われることである。しかし、本当か? そんなことが、四十を過ぎるまで実感としては理解できなかった。
最近担当した『ワーク・イズ・ライフ 宇宙一チャラい仕事論』が、じわじわと自分自身に効いている。というよりむしろ、この世に生まれてきた己の有り様についていまいちどよく考え直したくて、この本をつくったのかもしれない、といまになっては思うのである。つくっているときに意識していたわけではないけれども。
〈仕事〉するモチベーションが上がらないときほど、そのことばかり考えてしまうが、別のファクターを充実させることによって、〈仕事〉の見え方が変わってくるということはあるだろう。一人でも多くの方が、本書を読むことで少しだけ立ち止まって、人生を見直すきっかけになれば嬉しい。ご機嫌に、生きよう。
※『供述によるとペレイラは……』は掛け値なしの大傑作だ。文体は調書のスタイルを取るので、一貫して「供述によるとペレイラは……」「……と供述している」「……という」と第三者がペレイラの言葉を書き留めるスタイルで進む。この本については、またどこかに書きたい、とLilyはいう。
文・写真:編集Lily