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拙筆📖10:『正直者』

 すべての人間とは仲良くできない。自分自身を軸にして物事を考えれば、合う人、合わない人は必ず存在する。正直者は馬鹿を見るのかもしれないけれど、正直にならなければ自分自身を見失うことになる。正直な自分自身を自覚する事でしか、この現代社会の中で生きる道筋を見つける事はできない。世の中の正解が、自分にとっての不正解で、世の中の不正解が自分にとっての正解である可能性もある。それは誰にもわからない。

 学校で習う事は、一般的には正しい。けれど、自分自身にとって、その正しさが当てはまるかどうかはわからない。学校で習うことが間違ってると思うのであれば、自分自身で生き方を模索し、社会の中で自分なりの正しさを見つけていくしかない。論理的ではなく、経験的にしかわからないこともある。経験せずにわかる事は論理的な知識である。学校で習う事は経験に基づかないので、論理的な知識が多いだろう。実社会に出ればいろいろな経験をすることになる。その経験に照らして、自分にとっての要不要を見極めれば良いのである。自分自身が経験した体験から自分にとって必要な知識を取捨選択していけばいいだけの話である。万民に共通する必要な知識などないのだ。個人個人で必要になる知識は異なる。

 必要は発明の母と言うが、自分自身が何を必要としているのかをよく見極める必要がある。他人が必要としているものが自分にとって必要であるとは限らないからだ。商売する上では、他人が必要としているものを理解する必要があるけれど、日常生活においては、他人のニーズを満たす必要などほとんど求められない。自分にとって必要なものを見極められるかどうかが無駄な努力を削減する為のきっかけになる。

 やってみなければわからないのは確かにそうかもしれないけれど、他人の迷惑になるようなことをしてまで、自分自身の欲望を満たしたり、自分自身の能力を高めたいとは思わない。この辺の価値観は、人によって違うだろう。他人に迷惑をかけてても、自分自身の能力を高めたり、自分自身が満足したいと思う人間もいるかもしれない。自分と他人は全く別物だから、他人の感情や他人の苦しみなどわからないからである。自分だけ満足できればいいと言う観点に立っていれば、そのような行動も平気で取れるだろう。相手の立場に立つことができない人間は一時的には利得を得ることができるかもしれないが、いずれ信用を失って、誰からも相手にされなくなるだろう。独善的な行動は、相手に対する裏切りに等しい。利己的な行動を平然と取れる人間は、いずれ誰からも相手にされなくなる。

 善人である必要はないが、無理して悪人になる必要もない。善人でもなく、悪人でもなく、中立的な人間であればいいのかもしれない。無理して善人になる必要もなく、無理して悪人になる必要もないのである。

 自分自身ができないことを素直に認められれば、他人に協力を素直に求めることができる。自分自身が無能であることを認められないから、素直に他人に協力を求められないのである。人間は、神ではないので、全知全能ではない。できなくて、当たり前である。できるのは努力したからである。赤ん坊が何もできないのと一緒である。自分の生命維持すらも一人できないのが人間なのかもしれない。

 正直者は馬鹿を見るのかもしれないが、正直に生きなければわからない境地もある。世渡りが下手な人間は、いろいろな人間とぶつかりながら、生きていくしかないのだ。そうやって、社会を生きる中で、自分自身が成長していくのかもしれない。

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