事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!
あなたと共にうたいたい。
元高校教師(国語)の
たこせん枝瀬です🐙
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教育は
自分が変わらないと
他人を変えることなんてできない。
=「主体変容」
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【たこせん枝瀬の発信の足】
【河合隼雄『で』語ります!!】
コンプレックスは輝く
河合隼雄の自伝『未来への記憶』を
読んでいると、
彼が学生時代のころまで
強い劣等感を抱いていたことに驚かされる。
幼少期は、
感受性が豊かなあまり、
幼稚園の先生が辞めると聞いては泣き、
童謡に出てくる
どんぐりの行方を案じては泣き、
筋肉系、アウトドア系、スーパー健康、
情熱家で非合理主義的な
兄 雅雄(霊長類学者・サル学の権威)に
比較して
弟 隼雄は、
神経系、インドア派、
本ばかり読む不健康な子であり、
冷静で合理主義的だったそうだ。
(記念講演『河合雅雄・隼雄兄弟:息子たちが語る交錯し合う人生』より)
だとか、
という記述に触れても、
ウソツキ俱楽部を立ち上げて、
融通無碍な冗談を飛ばしながら
人の心をやわらげていく
のちの河合隼雄とは
似ても似つかない
深刻で、重苦しく、
内向きで、内省的な
少年時代だったことが
読みとれる。
さらに、
京大理学部数学科に入学してからも
本当に数学ができる人と比較して、
すぐに自分に才能がないことに気づき、
劣等感を強めていた
という述懐もある。
思うに、
という事実は、
多くの人の希望になるのではないか。
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劣等感がない人間なんていないし、
劣等感はあって当たり前。
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問題は
劣等感が重荷(呪い?)になって
身動きがとれないでいるのか、
劣等感をバネにして
自身の世界を好転させるべく
行動をとり続けるのか、
結局、
人は、その2択を選ぶだけなのだと思う。
かくいう
枝瀬もコンプレックスの塊のような人間で、
生来、「超」がつく人見知りだ。
高校3年間で
同じ部活の女子生徒を
一度も名前で呼べなかったし、
根が臆病で、内向的だからこそ、
このように、noteでは
自分語りが饒舌になるわけだが、
若い時分の河合隼雄も
劣等感の強い反動なのだろうか?
などという記述を読むと
妙に勇気づけられる気持ちになる。
そう。
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強いコンプレックスは
その人が『自分らしく』輝くための
バネになりうるのだ。
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「自信」よりも「行動」が大事
ところで、
劣等感や、
自信について、
最近、
つとに思うことがある。
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自信の「ある」「なし」は、
その人の人生の結果に
さほど大きな影響力を及ぼさない。
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「自信のある人」が
自信満々にふるまうことで
周りが迷惑をこうむる話はよく聞くし、
「自信がない」からこそ、
用意周到に準備を重ねて
大きな実績をあげることだってある。
それでも、
その人は「自信がない」わけで。。。
むしろ、
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人生を決定づける大きな分かれ目は、
行動の「ある」「なし」だけ
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なのかもしれない。
そういう風に考えたとき、
大学を卒業してからの
河合隼雄は
圧倒的に
「行動の人」に変化する。
それは、
やはり「教師」という職業が
河合隼雄の天分だったのだろう。
いわゆる
(頭でっかちな)評論家や思想家とは
一線を画しており、
現場第一主義
すなわち
実践家、
臨床家
に徹するようになっていく。
現場と会議室の橋渡し
ところで。
先日、
TVで『踊る大捜査線』の映画が放送されていた。
織田裕二演じる
刑事 青島俊作が発したセリフ
を久しぶりに見て
非常に痛快な気分になったのだけど
(わからない人はごめんなさい)
この
現場VS会議室(=権力)
という構造は
古今東西いつでも生じる問題らしい。
学校で働いているときも
最前線で働く担任たち(現場)と、
管理職・教育委員会(会議室)とでは
いかんともしがたい
認識の齟齬があり、
現場感覚が理解されないのが常だった。
この対比構造は、
保護者(現場)VS学校(会議室)
でも同様かもしれない。
現場で
本当に困っている人、
血を流している人の痛みは、
会議室にいる人には
共感(理解)しづらくなるらしい。
要因はたくさんあるのだろうが、
ぼくはやはり
現場の論理と
会議室側の論理とが
異なっていて、
その橋渡しを上手にできる人がいないときに
食い違いが大きくなると考えている。
現場の『こころ』を扱うのは路地裏の学問
実践家・河合隼雄は
高校生の悩みに寄り添いながら、
自主的に勉強会に参加し、
行動を続けながら試行錯誤するうち、
臨床心理学
という学問領域に
手応えを感じるようになる。
臨床心理学の定義や詳細は
ここでは省略するが、
要するに
現場感覚にもとづく体系
というくらいに理解してほしい。
ところが、
当時の臨床心理学は、
会議室(権威)的な学問には
あまり認められていないジャンルだった。
なぜ認められないかというと
当時の権威的な学問は
なにより「科学的」であることが
重視されており、
客観性にもとづくものでなければ、
信頼性が担保されないからだ。
その点、
「こころ」という主観的な要素と
切っても切れない臨床心理学は、
当時の学問的立ち位置でいうと
「路地裏」だったといえよう。
このような状況にあっても
現場感覚と
自分の手ごたえを拠り所にして
動じないところが
河合隼雄の本領だ。
ここで、
本記事の冒頭引用箇所に
話がつながってくる。
まさに、
現場第一主義を象徴するセリフ。
河合隼雄にこそ
というセリフがよく似合う。
そして、
河合隼雄は、
本格的に臨床心理学を学ぶべく、
アメリカ留学を決意する。
「行動の人」は、
見てみて清々しい。
今日は、ここまで。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
嬉しくてタコ吹いちゃいます(˶˙๏˙˶)♡
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