l'heure bleue
「ブルーアワーにぶっ飛ばす」
リコメンドという仕組みによって私の目の前に現れた、この映画予告編。
その予告編は、おもしろそうな予感と、安心感を漂わせていた。
ここでいう安心感は、寄り添いと意味が似ていて、焦燥感を癒すような、でも、ぶっちぎるからな。って言ってるようなそんな感じがした。
物語は大抵、現実と平行で、交わることがあまりない。
その距離を楽しんでいるし、あぁ、こんなことを形にできるのかぁ。
すごいなぁ、かっこいいなぁ、ありがたいなぁ。と常に享受される側に立つ私は思っている。
この「現実とかけ離れること」に違和感を抱くことは全くないし、現実への助言とか、救いを提示しないと嫌なのと駄々をこねはしない。
でも、我儘だが、遮ったはずの向こう側から、知らないうちに、どこからか助けが来てくれやしないかと待っていたりする。
この映画の主人公はまるで沢山の人のスワンプマンとなって、その我儘の受容体となってくれているように思う。(時に能動的。発散するあたり、気持ちがいい)
主人公の砂田は、不器用で、もまれてて、ふてくされてる。ダサいけど、惰性かもしれないけど、なんとかやっている。
彼女は年齢的に私よりだいぶ年上だ。仕事をし、結婚もしている彼女。(けれど、やや泥沼)
多分、私が理解できると言った瞬間に、イヤイヤ、これを分かるなんてまだ早いって。と、私の場合は言われてしまうかもしれない。
でも、なんだか、
救われてしまう。
砂田にも、もう一人の清浦にも。
その周りの人物も、あぁ、そうなんだよねって思える。
あまりに現実的だけど、この映画のフィクションさは、ファンキーで、おもしろくもあり、頼りでもあり、悲しくもある。
できれば、そちら側へと思うが、そう思う自分を切り離さない限り、自分を空箱のように扱う事への虚しさは消えず、本当に空箱だと錯覚して、自分で自分を捨ててしまえてしまうのかもしれない。難しい。
「ブルーアワーにぶっ飛ばす」という映画は、徳間文庫からコミカライズ化されている。
文庫型の漫画のような、絵コンテのような、持ち運べる映画のような・・・。コミカライズってどういう意味か知らないけれど、多分そんな感じだと思うが、私はその本を購入し、読んだ。
ページをめくって、最後のページまでいって、最初のページに戻って、また最後まで読む。
清浦が瞬間、瞬間に差し出した言葉は、その瞬間の空気を和らげる。
きっと、言われたい言葉は胸の中にある。
でも、聞こえてくるのは、先端が尖った言葉で、そんな風にしか言えないのかと悲観したりする。それが家族からだったりすると、余計に悲しくなる。
ただ、言われたい言葉を待っていて、正解があるのに、自分に問いかけるだけでは満足できなくて、正解を言える誰かを待っている。そしてその誰かが、単にお世辞ではなく、その人格として、個性としてその正解を唱え続けられ、いつでも隣にいてくれることを望んだりする。
でも本当は、自分自身がその誰かの一部分を持っていたいと思うのだろうけど。
清浦はそんな人たちを救う。
でも、望まれるような彼女ですら、救われるような言葉を待ってる可能性だってあるのだろう。分かってもらいたさもあるのだろう。羨ましさなんて言葉で包んでしまってはいけないのだろう。
あぁ、とても勝手だ。
勝手で、自分のことしか考えていられないけれど、
その姿が自分からは醜く見えたとしても、本当はそれは素敵な抗いだ。
でもいつか、
その自分への抗いは終わりを迎えるだろう。
平穏に、そして折り合う優しさと共に。
さぁ、この感想文を終わりにしよう。
もう一度、この物語に出会うために。
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