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賢くみられたい願望ありありだけど、実はそうじゃない私であるよ、という話。
3年前に息子が不登校になった時に、いちばん私にとって支えになったのが、地域の福祉課子育て支援担当の女性だった。息子が感じているだろう辛さについて示唆してくれ、また息子の特性の素晴らしさについて率直にほめてくれた。
息子が中学生になって少し学校に行き出してから、連絡を取らなくなっていたが、1年以上ぶりに再び面談した。
1年の間に、高校生の長女が学校を辞めて通信制に編入し、末っ子が夏休み前に学校に行くのはしんどいと打ち明けてくれてフリースクールに通い出した。
そんな経緯を話していると、ペアレントトレーニングを紹介してくれるに至った。
子どもが自分で育とうというペースと、親が引っ張るペースがうまくバランスが取れなくなっていて、子どもたちが今、自分のペースをとり戻している時期ではないか、ということ。
家庭では、仕事のように評価をするのではなく、ただ存在することが素晴らしいと認めて、情を交わすことが大事だということ。
子どもが自ら決めて動き出すのを見守りしんぼう強く待つのが親の仕事ということ。
いや、分かってるんですよねー、でもそんなに完璧にできないから悩んでるし、結局親である私がちゃんと親の役割を果たしてないから、子どもたちは学校に行けなくなったりする人生の遠回りをしてるんですかね、親ってそんなに全部できなくちゃいけないんですかねっていう、やや投げやりな気持ちに正直なってしまった。
相手は何もそんなふうに捉えてほしくて言ってるんじゃないんだろうなって頭じゃ分かるのだが、なかなかに辛かった。
仕事で適応される価値観一本に没頭できるのは楽ちんだ。
それはつくづく思う。
仕事の文脈で、1日の大半をそれに費やし、生産性はどうだ、どんなアプトプットができたのか、どんな成果が出せたのかとかばっかり考えてるのは、ルールがはっきりしているゲームみたいで、没頭しやすい。
でも子どもを育てることって、そういうルールを適用し出すとたちまちおかしなことになってしまうのだ。おかしなことになるよって、長い間経ってやっと分かったのだ。
長女が成人になろうかという時にペアレントトレーニングか、とどうしても思ってしまう。それこそが成果とか生産性とかの価値観丸出しで、狭量なんだろうなと思いつつ、自分はこの18年もの間3人の子どもの親をやってたのに、大事なことが身につかなかったのかと哀れになってくる。
そつなく器用にできる人と評価されたかったんだな、と気づく。
長い間かかっても本質にたどり着けない、勘どころと要領の悪い人間というのが本来の私なんだろう。 でもお金を稼いだり世間で馬鹿にされないがために、そうじゃない自分でありたいと願い思い込み、そうじゃないふうに今でも振る舞いがちなわけです。
愚かしいところを人に周囲に勘付かれたくない、だから子どもたちが私のせいでのびやかに育ってないということを認めるのが悔しいし怖いし、いや、そんなの他の人はできてるんですか、と話のすり替えをして逃げたくなってしまっている。
愚かしい私です、というとことをちゃんと認めるところから始めるしかない。
こういうのって周りは冷静に分かってるんだけど、本人だけが気づかず、分かっていないという定番の構図ですよね。
ペアレントトレーニング受講は来年から。
2年前は、とにかくなんでもこの場を打開してくれる方法を、という想いで自ら探していた。その頃はコロナの影響もあって受講できなかった。当時でももっと探せばあったのかもしれない。自分でやりますって手をあげるのと、今の状況を冷静に聞いて第三者から勧められるのとは受け止め方がずいぶん違うものだなというのも発見だった。
今さら感が私の中ではスッキリ拭えないのだが、おすすめされたのだから素直に受けてみようと思っている。きっと発見と学びがあるだろう。
そうなんだけど、だけどもさ…と際限なくぐずぐず愚痴り自分を庇いたくなる愚かしい今の私を記録しておく。