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バウンダリー、または余白について

学校に行くことが難しくなる背景にある
発達障害やHSPの傾向をもつ子どもたちに対して
特性に合った生き方を掴み取るため
親としてどうやってサポートしてくか問題に向き合っていると
「バウンダリー」ということを改めて考えるようになりました。

バウダリーは自分と人との境界線。
私がバウンダリーに対して誤解していたのは
人と境界線を引くことと
人に対して共感するということと
トレードオフなのでは、
ということでした。

しかしそうではなく、
むしろきちんと自分というものの境界線を
持っていないことで
人への共感や理解によって
他人の価値観や意見、感情に飲み込まれてしまって
メンタルの不調をきたしてしまうということを
最近になって学びました。

バウンダリーを持つことで
共感性の弱点を補うというか、
ポジティブな方向に機能させ続けることができる、
と今は理解しています。

私は、人が感じること、考えていることについて
比較的敏感に察知する方だと自分では捉えています。
子どものこととなると、自分のことのように捉えてしまいがちで
それは時には子どもを追い詰めていたとも思います。

子どもが学校に行くことができない、という苦しい状況になった時に
「なぜ?」と問い詰めたし
子どもが心のうちを語ってくれないことに
もどかしさも悔しさも感じました。
自分に対する無力感が子どもに向かい
どうして話してくれないのか、と子どもを責めたりもしました。

今でも子どもに対して
目に見えての改善とか成果というものを思わず求めてしまい
イライラとすることがあります。
そういう時にはなるべく子どもと距離をとって冷静になるよう
気をつけています。
不登校の上二人は基本的には家にいるので
休みの日や在宅ワークをしていると
起きてくる時間や日中の活動を身近に見すぎて
焦燥感を抱いたり、怠けているように感じたりするのです。

子どもは、いくら自分が産んで育てた子どもでも
やはり他人です。
考えていること、感じていることのごく表面的な部分を
シェアしているのであって
自分でも捉えることができない深い悩みや
苦しみを理解しているわけではない。
自分が自由にできるわけではない、よその家の庭に
少しお邪魔させてもらっているような
適切な緊張感や礼節を持つことが
バウンダリーなのかなと今は理解しており
できるだけ実践できるよう努力しています。

最近読んだ山崎晴太郎さんの「余白思考」というの著作の中で
人間関係における「余白」についても語られていています。
それはバウンダリーに通じる考えだなと思って
読んでいました。
自分と他人との間に「縁側」のようなスペースを設けるという
イメージがとても分かりやすく
くっきりとした境界線や頑丈な壁のイメージより
日本人には捉えやすく、実践しやすいように思いました。

今、不登校になっている我が家の子どもは
ふたりとも人との距離をできるだけ取ろうとしています。
それは自分たちの境界線を乗り越えて入ってくる外の世界に対して
本当にくたびれてしまったからなのではと
私は思っています。

もし、子どもたちに小さい頃からバウンダリー、あるいは
人と自分との「余白」について
一緒に話したり考えたりすることができていたら
もう少し傷は浅かったのかな、と思うことがあります。

私自身バウンダリーについて非常に不器用で
仕事でのストレスのほとんどは
この部分が自分の中で成熟していないからだなと
気づくこの頃です。

自分という外郭をしっかり持って、
他人から自分を守る、というイメージだけだと
今まで上手く機能しにくかったのですが
縁側のように人と自分の価値観や感情が混じりあるスペースを
豊かに設けるということだと
個人的にしっくりきます。

子どもともそんなイメージを共有しながら
人から侵害されない自分を保つための
感情コントロールを身につけていければと思っています。

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