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#26 「 生姜焼き定食の吉原さん 」

「海を見に行かないか」
昼食時で賑わっているササキ食堂のカウンター席で、安定の焼き魚定食にするか未知のハンバーグ定食にするか、はたまた日和ってサービスランチにするか思案していると、ボソリとつぶやきが聞こえた。
声の主は、椅子ひとつ空けた隣の席で生姜焼き定食に添えられたキャベツを咀嚼している男のようだ。
妖精にでも話しかけているのか?と気にはなったものの、朝食抜きで極限空腹状態だったので無視させてもらう。
「おばちゃーん、今日のサービスランチは何?」
メニューを決めきれず、狭い店内を忙しなく行き来するおばちゃんに救いを求めると、
「美紀ちゃん、今日のサービズはね、お刺身定食よ。マグロの美味しいとこが山盛りだから食べなきゃ損よ~」
とおススメされた。
わたしの脳が瞬時に、たっぷりのワサビとほんの少しの醤油を纏った中トロの鮮明な画像を思い浮かべる。
最早、迷うことは無い。
わたしが手を挙げておばちゃんに声を掛けようとしたとき、
「刺身なら海で食べればいい」
再び声がした。
男はキャベツの千切りをほとんど食べ尽くしていた。
まだ、生姜焼きには手を付けていない。
わたしと違って、野菜からいくタイプのようだ。
男は箸を止めて、じっと生姜焼きを見つめている。
関わらない方がいいんじゃない?
本能的にそう感じたものの、ここで敢えてサービス定食を注文したら男がどんな反応をするのか興味が湧く。
悪い癖だ。
「じゃあ、サー・・・」
・・・ビス定食と言いかけると、
「海を・・・見に行かないか?俺と・・・」
今度はわたしに顔を向けてはっきりと言った。
目が若干血走っている。
「ビ・・・、あ、やっぱりハンバーグ定食で」
気迫に負けた。
「あら、サービスじゃなくていいの?」
「う、うん。このあとお刺身を食べるかも・・しれないから」
「そう?うちの方が美味しいのに」
おばちゃんの残念そうな声に少し後悔したが好奇心の方が勝った。
「あの・・・、新しいパターンのナンパですかね?いや、セリフはクサいんですけど手法が斬新と言うか・・・」
男はわたしの問い掛けには答えずに、生姜焼きの肉でごはんをくるみながら、
「13時ちょうどの赤い電車に乗りたいんだ」
そう言って、タレの絡んだ豚肉と白米のハーモニーが間違いないカタマリを頬張る。
グキュ、キュルル・・・おなかが鳴った。
赤い電車ってなんだ?
歳はわたしと同じくらいか少し上のように見える、痩せ型、顔は人並み、どこにでも居そうだけど少しかげのある男。
わたしは席を立ち、入り口のそばにある給水機に向かった。
タオルが敷かれたお盆からプラスチックのコップを手に取って、そのコップで給水機のレバーを押し込む。
コポコポと注がれる水がコップの淵からこぼれる寸前で手を引いた。
頭上の黄ばんだ壁に掛けられた時計は12時26分を指している。
そろそろと席に戻り、午後に客先で急な打ち合わせが入ったからノーリターンになりそうだと課長にメールを打つと、すぐに「了解」と返信があった。後ろめたさを覚えつつキンキンに冷えた水をひと口飲んだら前歯に染みた。それで許されたような気がした。
「美紀ちゃん、お待たせ~。ハンバーグ定食ね~」
おばちゃんが運んできた鉄板の上で、たっぷりのデミグラスソースがピチピチと跳ねている。
ひと先ず、こっちに集中しよう。
「鉄板、熱いから気を付けてよ~」
渡された紙エプロンを首に巻いて、みっちりと詰まった箸立てから割り箸を引き抜く。
跳ね避けの紙カバーを取ってこんがりと焼き目のついた肉のカタマリに箸先を入れると、流れ出た肉汁で鉄板が再び騒ぎ出す。
わたしは断然、肉からいく派。
ひと口分をふーふーと息で冷まして口に入れた途端、脳内から中トロの幻影が姿を消した。
自分の選択が誤っていなかったことに大きく頷きつつ、ご飯茶碗に手を伸ばそうとしたら、隣で席を立つ音がした。
中トロと一緒に男の存在も半分消えてしまっていた。
男が自分の伝票と一緒にわたしの伝票も手にして席を離れようとするから、「わたし、まだ ”かも” の段階なんですけど?」
と、小さく抗議してみた。
すでに ”かも” ではなかったのだが、わたしの答えを確かめもせずに決めつけてる感じが癪だった。
男は自分の手元から、わたし、ハンバーグと視線を移しながら、
「外で待ってるから。ゆっくり食べて」
そう言い残すと、レジでの支払いを済ませて店を出て行った。
「美紀ちゃん、あの人、知り合いなの?」
おばちゃんが入り口の方とわたしとを交互に見ながら訊いた。
「今から、知り合いになるかも・・・みたいな人」

13時の赤い電車には間に合わなかった。
「ごめんなさい。急いで食べたんだけど・・・」
ご飯をお代わりしたことは言わないでおく。
男は何本目だかのタバコを吸おうとしているところだった。
「次の電車で行けばいい。海は逃げない」
手にしていたタバコを上着の右ポケットに突っ込むと、ズボンの右ポケットから2枚の切符を取り出して、そのうちの1枚を差し出した。
わたしを待ってる間に買っておいたようだ。
段取り上手と見た。
すぐ目の前の地下鉄の駅から目的地行きの電車に乗れるらしく、わたしたちは階段を下りてホームのベンチに並んで座った。
わたしが会話のネタを探していると、
「俺はナンパなんてしたことはない」
やおら話をはじめるから一瞬キョトンとしてしまった。
そうか、ささき食堂での質問の回答だ。
「でも一般的には、知らない女子に声をかけてどこかに行こうよって誘うのをナンパって言うと思うんですが」
至極真っ当な突っ込みを入れるわたしと黙りこむ男。
「どこかでお会いしたことありましたっけ?」
「いや、初めてだ。会ったことはない」
男はぶっきらぼうに返してきた。
そっちから誘ったんだから、もう少し愛想よくすればいいのに。
「わたし、すぐについて行きそうな顔してました?チョロそうとか?」
俯いた男の顔を覗きこんで訊くと、
「そ、そんなことはない。声をかけるまであなたの顔は見ていなかった」
慌てて否定した。
それにしても、あなた・・・って、異性からは呼ばれたのは初めてかもしれない。
「行ったことのない知らない店で、最初に隣へ座った人に声をかけようと決めたんだ」
男は膝に置いた自分の手の甲を見つめながらボソリと呟く。
よし、コミュニケーションを取る気はあるようだ。
「男の人でも?」
「男でも」
「おばあちゃんでも?」
「おばあちゃんでも」
「子供・・・は、同意があっても誘拐になりますよ?」
「あんな定食屋に子供がひとりでは来ないだろうし、そもそも誘わない」
横顔が少しだけ笑ったように見えた。
「それもそうですね」
わたしもフフフと少しだけ笑う。
あれ?
「そう言えば、わたしとは反対側の席に先客がいましたよね?」
中年のおじさんがひとりでズルズルと麺を啜っていたはずだ。
男の耳タブが赤くなる。
「誘わなかったんですか?」
訊いてから我ながら意地悪な質問だなと思った。
「誘ったけど断られた」
誘ったのか・・・本気だな。
「で、なんて?」
「勝手に行って泳いでこい・・・って」
「あらら・・・」
泳いでこいってのはアレだけど、普通はそんな反応になるよね。
「ま、ま、それは忘れるとして。じゃあ、ホントに誰でもよかったんだ。わたしじゃなくても。ちょっとがっかり」
これは正直な気持ち。
男は慌てた素振りで顔を上げる。
「いや、違う。いや・・・違わないけど・・・結果論とは言え、あなたで良かった」
また、あなた・・・くすぐったい。
「その”あなた”っていうのは止めてください。美樹でいいですよ」
「初対面の人を名前でなんか呼べるわけがない」
マジメか。
「じゃあ、いきますよ。伊藤の伊、佐藤の佐、山田の山、全日本苗字トップ10にランキングされている3つの名前が詰まった伊佐山です。よろしく!」
「ああ、伊佐山さん、ね」
なんて素っ気ない返事だ。
少しくらい笑え。
合コンでの自己紹介に使ってた鉄板ネタなのに。
「で、お名前は何さんでしたっけ?」
憤慨が語気に宿る。
「吉原。え・・っと、牛丼の吉と・・・しんのすけの原で吉原だ」
男はチラリとわたしを見る。
このボケに”わかりにくい~”とかツッコんだら負けだから、
「はい、吉原さん、ですね」
と、努めて平静を装ってわたしは復唱した。
吉原さんは照れたような顔でコクリと頷き、ホームに滑り込んできた電車を見遣る。
電車の色が赤ではなく黄色なのを見て「あ・・・」と、露骨に残念そうな顔をしたから吹き出してしまった。
待つこと14分、わたしたちは13時20分の電車に乗った。

 平日のこの時間は乗客が少なくてガラガラだ。
ロングシートの端の席にわたしが座ると、吉原さんは通路を挟んだ向かいの席に座った。
おいおい、そこじゃないだろう。
わたしが吉原さんの隣に移ると、ちょっと驚いた様子でからだを揺すって座り直した。
居心地悪そうな顔をしているが、そんなことはお構いなしで話しかける。
「なんで海なんですか?」
「海、好きだから」
まんまやん。
「仕事はいいんですか?」
「それは、あな・・・伊佐山さんも同じだ」
その通り。
「お休みの日に行けばいいのに」
「今日の海が見たかった」
「今日はパスタじゃなくてラーメンの気分なんだ、みたいな?」
「ちょっと違う。パスタじゃなくて生姜焼き定食だったんだ」
と、微妙な笑顔で答えてくれたけど、ピンとこないよ。
電車が地上に出て、車内の照度がグンと上がる。
すぐに大きな駅に停まった。
スーツケースを引くサラリーマンや乗り換え客が乗り込んできて、座席は全部埋まり、吊革に掴まってる人も結構いる。
次の駅までは混んでそうだから少しお喋りを中断することにした。
快速電車は軽快に駅をスキップしながら走っていく。
電車の小さな揺れと窓越しの陽射しとお腹の中のハンバーグ定食が眠気を誘う。
瞼が重くて、ちょっとだけ目を閉じた。
ちょっとだけのつもりだった。
ゴンっと後頭部を思い切り窓枠にぶつけて目が覚めた。
正面に座っていたふたり組の女子高生がクスクス笑っている。
こんな時間に高校生?
そうか、期末試験中なんだ。
隣の吉原さんは、相変わらず窓の外をぼんやりと眺めていて、わたしのゴンには興味を示していない。
いつの間にか、電車はピルの間ではなく低い屋根を見下ろしながら走っていた。
「もうすぐだ」
吉原さんの声に返事をする代わりに、コホンと小さく咳をして口元に手を当てる。
よかった、流れ出てはいない。
時計を見ると、きっちり1時間針が進んでいた。
「ずっと起きてたんですか?」
「いや、少しウトウトした。さすがに伊佐山さんほどは眠れないけど」
あ、何かの仕返しをしようとしてるな。
意地悪を言い返そうと思ったけど思い浮かばなかった。
「暖かくてよかった」
吉原さんは両手を前に突き出して小さく伸びをした。
わたしも真似てみる。
開いたドアから雲ひとつ無い青空が見えて、それだけで得した気分になった。

ホームに降り立つと、観光客らしい年配の人たちがフェンス越しにスマートフォンのシャッターをしきりに鳴らしている。
近付いて覗くと、3月に入ったばかりだというのに駅の敷地で大きく枝を伸ばした木に、赤に似た濃いピンク色の花が満開に咲き誇っていた。
「河津桜だ。綺麗だな」
木の周りでも写真を撮っている人がたくさんいる。
「近くの公園が有名で、行ってみたことあるけど綺麗だった」
162センチのわたしの目の高さで、ごつごつした喉仏が小さく動く。
「前にも来たことがあるんですね」
「何度も。ここの海がどこよりも落ち着く」
きっとそうなんだろうなと思える声だ。
階段を降りて改札を抜ける。
ホームから見た桜の下のベンチでおばあちゃんがウトウトと船を漕いでいて、その向こう側の細い路地沿いに小さなお土産屋さんとマグロ推しのお店が数件並んでいる。
「こっち」
吉原さんは左の方を指差してスタスタと先に行く。
桜とマグロにうしろ髪を引かれながらも、ここまで来て置いてけぼりは嫌なので後を追った。
窮屈な歩道を駅に向かって来る人と譲り合いながら海を目指して歩く。
春物のコートでさえ要らない暖かさだ。
あっけないくらい直ぐにキラキラと光る海が見えてきた。
彼方に水平線ではなく陸地が見えるから所謂”湾”なのだろう。
突き当たった広い道路を渡ると、遊歩道を挟んで左右に砂浜が広がっている。
人影はまばらで、波打ち際までが遠い。
砂浜に等間隔で並んで立つ電柱を見るのは初めてだ。
ピーヒョロヒョロと鳴く茶色の鳥が3羽、砂を跳ねながらじゃれている。
ひょっとすると、ひとりの女の子を巡って喧嘩してるのかもしれない。
砂浜に続く7段の階段を下りると、吉原さんは階段脇の壁にもたれポケットから煙草を取り出して火を点けた。
いつもそうしているのだろう、自然な感じで。
わたしは煙草の煙が苦手だから、真っ直ぐに波打ち際へと歩く。
公園の砂場に似た茶色っぽい砂にはいくつもの足跡が残っていて、でも、風が吹くたびに舞い上る砂に少しずつ消されていく。
さらさらで肌理きめの細かい砂が容赦なくパンプスの中に入ってくるが気にしない。
後からまとめて追い出せばいい。
海に近づいて波の音が大きくなるに連れ、その他の環境音が遠のいていく。
ささやかな白い波が繰り返し行き来する様子はいつまでも眺めていられそうだ。
肩から鞄を降ろし、その上にコートを載せた。
パンプスを脱いで、脱いだ靴下をその中に押し込む。
天気予報を信じ、ストッキングを履いて来なくて正解だった。
8分丈のパンツの裾を膝の下までくるくると巻き上げて、波のタイミングをうかがいながら、濡れて黒く見える砂に足を乗せた。
静かに寄せる波がひたひたと足先を濡らす。
3月の海の水は冷たいよ、やっぱり。
だけど、引いていくときに足の裏の砂を波がさらっていく感触が気持ちいい。
のこのことついてきて良かった。
波を追いかけて、逃げて、追いかけ過ぎて、逃げそびれて、を繰り返してると、
「まだ、水が冷たいだろう」
びっくりした、いつの間にか吉原さんが後ろに立っていた。
「そうでもないですよ。一緒にどうです?」
吉原さんはゆっくりと首を横に振ると、砂の上に腰を下ろした。
既に手遅れかもしれないが、いい歳してはしゃいでいるトコをまじまじと観察されるのも恥ずかしいので、わたしもその隣に並んで座る。
知り合ったばかりの男と、平日に仕事をサボってスーツ姿で海を見ている。
今朝の星占いにはそんなこと書いてなかったな。
海の遠くを大きな船がゆっくりと横切っていく。
広い海をどこの港まで行くのだろうか。
「あの・・・」
「ん?」
吉原さんは砂を手のひらですくってはこぼす。
「もっと、ドーンと水平線が見えるような海の方が見応えないですか?空と海が遠くで混ざり合いそうな海」
わたしが今までに見てきた海はそんなところばかりだ。
「苦手なんだ」
吉原さんは手のひらの砂をさらさらと落とす。
「落ち着かなくて。だから、ここみたいに閉じた海に来る」
閉じた海、の意味がよく分からない。
「閉じた海、ですか」
「そう、閉じた海」
むむむ、分からない。
「海が好きなのはわかったんですけど、なんで急に来ようって思ったんです?仕事で失敗したとか、失恋したとか、愛犬が死んだとか、ですか?」
「伊佐山さんは質問してばかりだね」
吉原さんが苦笑いする。
あ、よく言われるやつだ。
「すいません・・・」
これまで何人に嫌な顔をされてきたことか。
学習能力の低さよ。
気まずい沈黙、も、波の音がしていると救われる。
さっき見つけた大きな船が、外の海へ出て行こうとしている。
「伊佐山さんは居ても立っても居られないって感じ、分かるかな?」
逆に質問された。
「え?居ても立っても・・・ですか?」
「そう、居ても立っても」
「う~ん、たった今注意されましたけど、誰かのことを知りたいって思ったら止まらないのが、そうなのかなぁ」
吉原さんがハハハと笑った。
今日イチの笑顔だ。
「別に注意したわけじゃない。俺の周りには伊佐山さんみたいな人が居ないから珍しいなって思っただけだ」
そう言いながら吉原さんは立ち上がった。
「少し歩こうか」
わたしは靴下に付いた砂を払って鞄にいれてから、素足にパンプスを突っ掛けた。

左手に海を見ながら、砂浜に沿って濃淡をつけた暖色のブロックが敷き詰められた遊歩道を歩く。
時々、地元の人とすれ違い、稀に、観光客とすれ違いながら。
駅前に居た人たちのほとんどは桜が目当てなのだろう。
太陽と海が近くなって、風が吹いてきた。
「なんで俺について来ようと思った?」
右斜め前で半歩先を歩く吉原さんが、首をこちらに傾げる。
「なんでって、誘われたからじゃないですか」
「それはそうなんだが、そうじゃなくて・・・」
困った顔でこっちを見てる。
なんで?って、わたしの心持のことか。
「んー、今日の予定は済んだし、差し迫った仕事もなくて、手持ちの案件は明日に回して大丈夫で、仕事終わっても予定はないし、それに最近、海行ってないなあって思って。でも、いちばんの理由は面白そうだったから、です」
「伊佐山さんって、変わった人だね」
「いやいや、あんな誘い方してきた吉原さんに言われたくはないです。確かに変わってるって言われることは多々あるけど」
「じゃあ、お互いさまか」
吉原さんがニンマリと笑った。
海から引き上げられた小舟が遊歩道の脇に仰向けで並べられていて、所々塗装の剥げた船底の上でカラスが探し物をしている。
わたしたちが近づくと、お前らに用はない、とでも言いたげな愛想のない顔をして、トントンと軽やかに助走をつけて飛んでいった。
その行き先を目で追いながら、
「突然、何もかも投げ出したくなるんだ。もういいだろうって」
吉原さんは半歩分タイミングをずらしてわたしと並んだ。
「年に数度のときもあれば、1~2年全く無いときもある」
しばらく言葉が途切れた。
わたしは黙って続きを待つ。
「いつもはひとりでよかったんだけど、今日は違ったんだ」
なんて反応するのが正解なのかわからない。
そもそも反応していいものなのか、も。
少し重くなった空気に俯いてつま先を見ながら歩いていたわたしは、つっと立ち止まった吉原さんを追い越してしまった。
顔を上げて振り返ったら、
「だから次はどうなるか分らない。ひょっとすると10人くらいと来たいとか思っちゃうのかもな」
ぎこちなくおどけてみせて、心の破片を回収してしまった。
消えたわけではなくて、きっと吉原さんの中に仕舞った、だけ。
でも、これ以上は触れないほうがいいように思う。
なにより、気まずい雰囲気にしたくなかった。
「10人だとバスケができますね。楽しそうじゃないですか」
慌てるな。砂浜ならビーチバレーだろう。
「俺はスポーツ全般が苦手だ」
吉原さんは微かに首をすくめる。
「ああ、そんな感じがします」
大げさに同意する。
「どんな感じだよ」
空笑いかもしれない。
でも、笑えないよりマシだ。
「あ、自販機がありますよ。歩きっ放しだから喉が乾いちゃった」
遊歩道の端に置かれた青色の自販機。
「わたしが驕ります!」
恩着せがましく宣言して飲み物を買った。
わたしがコーヒーで吉原さんがココアってとこで他愛のない話をしたが、あまりにも他愛なさ過ぎて覚えていない。
遊歩道に腰を下ろした吉原さんが煙草を2本吸い、砂浜に降りたわたしがピンクと紫の貝殻をひとつずつ拾ったところで、どちらからともなく来た道に足を向けた。
帰りは吉原さん越しに海が見える。
日が長くなったとはいえ、17時近くになると太陽は昼間の元気を失い、空の青にも薄墨色が混じっていた。
海からの風が強くなって肌寒い。
コートを羽織るわたしの横で、コートを持ってない吉原さんは平気そうな顔をしているけれど、微妙に背中が丸まっているから寒いのだろう。
沈黙に耐性の無いわたしは、最近観た映画や好きな音楽のことなどを話題にした。
当たり障りない話をしながらも、ずっと引っ掛かってる言葉があった。
それを尋ねていいものなのか考えていた。
考えることに集中すると、わたしの眉間には皺が寄る。
それに気付いた吉原さんに、
「どうかした?」
と、声を掛けられた拍子に口に出してしまった。
「えっと、もうひとつだけ、最後の質問してもいいですか?」
上目遣いで反応を覗う。
「ホントに最後?」
吉原さんは小さく笑ってから、どうぞ、と促した。
「さっき話してた、”閉じた海” って、何ですか?」
寂しさを含んだような響きが気になっていた。
「ああ、それは・・・」
言葉を選ぶというよりも、引き出しから大切なものを取り出すように、
「繋がってることが実感できる海が好きなんだ。そこにも俺みないなやつが居るんじゃないかって安心できる海が・・・」
吉原さんはそっと答えてくれた。
おそらく、自分に問いかける時間がたくさんあったのだと思う。
「伝わるかな?こんな言い方で」
なんとなく想像はできるけど、軽々にわかりますとは言えない。
違う。そんな事を考えたこともないのだから想像できるつもりなだけだ。
わたしは曖昧に頷いた。
ただ、吉原さんが好きな海には光があるように感じられて少し安心した。
わたしたちは灯ったばかりの街頭が落とす二人分の薄い影を踏みながら駅へと向かった。

スポットライトを当てられた桜が、すっかり陽が落ちた空をバックに存在感を増している。
仕事帰りの人たちが、一瞬足を止め、桜を見上げては家路を急ぐ。
わたしたちも家に帰る時間だ。
駅に向かう途中の海鮮居酒屋で、お刺身とビールでささやかな乾杯をした。
ささき食堂で抱いた心残りもめでたく解消だ。
8対1もしくは9対1の割合でわたしが喋り、吉原さんは相槌を打ちながらビールを飲んでいた。
唯一、コップ一杯のビールで顔を赤くするわたしをイジるときだけは、悔しいけれど主導権を吉原さんに譲った。
駅の構内に貼ってある桜祭りのポスターが目に入る。
昼間は気付かなかったが、今週の末から2週間開催されるらしい。
友だちでも誘って来てみようか。
その時の海は今日と違って見えるのだろうか。
そんなことをエスカレーターの手摺に掴まってぼんやりと考えていると、
「お、赤だ」
ホームに停まった赤い電車を見つけて、吉原さんが嬉しそうな顔をした。
「鉄オタなんですね」
わたしがからかうと、
「オタクではない。この電車が好きなだけだ」
と、抗議してくる。
それと鉄オタのどこが違うのかわたしにはわからない。
乗り込んだ車両は人もまばらで、席は選び放題だ。
わたしは中央のロングシートのど真ん中に陣取った。
吉原さんは、またもや通路を挟んだ向かい側に腰を下ろす。
わたしは席を立ちかけて、やめた。
プシュッと息を吐いてドアが閉じ、小さな振動を切っ掛けに電車が走り始める。
わたしたちはお互い、相手の背中にある窓の外を流れていく家々の灯りを見ながら揺られた。
ひとつ、ふたつと駅を過ぎても人は乗ってこない。
吉原さんが腕組みをして目を閉じた。
わたしもそれに倣う。
暖房が気持ちいいのだけれど、不思議と眠くはならなかった。
いくつ目かの駅でまとまった数の人が乗ってくる気配がして、わたしの右側のシートが人の重みでたわむ。
細く目を開けると、隣に吉原さんが座っていた。
澄ました顔でさっきまで自分が座っていた席の方を見ているから、笑いを我慢するのに苦労した。
電車は右へ左へ揺れながら都心へと走っていく。
車内は酔客も多く賑やかなはずなのに、どういう訳かわたしの耳元ではずっと波の音がしている。
これが明日まで続くようなら病院に行かなきゃ、などとくだらない妄想をつらつらと繋いでいると、次に停まる駅の名がアナウンスされた。
わたしたちの乗り換え駅だ。
わたしが眠っていると思ったのか、吉原さんが「着くぞ」と囁く。
「あい・・・」
ヘンテコな返事をしてしまいひとり恥ずかしくなったが、吉原さんには聞こえなかったみたいだ。
赤い電車はゆっくりとスピードを落としながら駅に入った。
ドアが開くと、せっかちな人が前の人を押しながら降りていく。
そんなに急ぐって、身内に危篤の人でもいるのだろうか?
わたしたちが降車客の最後尾について降りようとすると、今度はフライング気味に乗り込んでくる人と肩がぶつかる。
こんなこと慣れているはずなのに、チクチクと見えない棘が刺さる。
波の音は、もう聞こえない。
吉原さんは無表情で流れに身を任せている、ように見えた。
わたしたちは改札を抜けて、連絡通路の端にからだを寄せた。
「人が多いですね」
「平日の今の時間はこんなもんだろう」
いくつもの靴音がわたしたちを掠めて通り過ぎていく。
「俺はこっちだから」
わたしと吉原さんはここで別々の電車に乗り換える。
「あ、わたしはこっちです」
お互いに違う方向を指さす。
「すっかりご馳走になっちゃって、ありがとうございました」
「こっちこそ、付き合ってくれてありがとう」
吉原さんの歩幅ひとつ分の距離ができる。
「あ、ささき食堂のハンバーグ定食おすすめですよ。次に行ったら食べてみてください」
「ああ。生姜焼きも旨かった」
「わたし、初めて行った時に食べました。それからあそこに通ってるんですよ」
「そうか」
また、ひとつ分遠くなる。
「ドーンと広い海も、誰かと一緒なら悪い印象が変わるかもですね」
「別に悪だとは思っていないけどな」
吉原さんが笑って、わたしも笑った。
「それじゃ・・・」
「うん、じゃあ・・・」
わたしが小さく手を振ると、吉原さんは自分の足元に目を落として、くるりと背中を向けた。

「わたし、来週の今日、生姜焼き定食を食べてると思います」

吉原さんは返事をする代わりに肩の辺りで手を振る。
その指先は、吉原さんにはあまり似合わないピースサインだった。


< 了 >

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