#11 「 いつも、どこかで 」
平日の昼間だからか、改札口を通ったのは僕ひとりだけだ。
駅前ロータリーの中央にある噴水は、壊れているのか節約のためか水が止まっていて、干上がったタイルの上で数羽の鳩が気持ち良さそうに日向ぼっこをしている。
彼らを驚かさないようにそうっと噴水の縁に座って、ジーンズの後ろポケットから地図を引っ張り出した。
無造作に折りたたんだ地図には縦横斜めに不規則な皺が寄っている。
不動産屋のホームページで数枚の写真を見ただけで、内見もせずに契約した新居の場所を記した地図だ。
これまでの生活をリセットしたくて、誰にも何も告げずにアパートを引き払って来た。
ほとんどの持ち物を売ったり捨てたりして、必要最小限のものを詰め込んだスーツケースひとつだけを持って。
新しく借りた家までは、ここから歩くと一時間はかかりそうだ。
人影のない閑散とした駅前に客待ちをしているタクシーは一台も無く、店の大半がシャッターを下ろしている寂れた商店街を抜けて交通量のある大きな通り(と言っても対面通行の二車線だけれど)まで歩いてみたけど、流しのタクシーがやって来るような気配も無い。
道路を挟んだ向こう側には延々と田んぼが続いていて、まだ若い稲がさわさわと少し湿り気のある風に揺れている。
仕方ないな。
僕は小さくため息をついて歩きはじめた。
アスファルトの雑な舗装に、スーツケースのキャスターが悲鳴を上げ続けている。
いつの間にか風は止み、汗が噴き出す。
まだ七月になったばかりだというのに、今日の太陽はなかなかの威力だ。
自動販売機で買ったペットボトルの烏龍茶を片手に、道路沿いに点在するいくつかの小さな集落を抜けて、きっちり一時間歩いたところで地図に目印として書かれているクリーニング店の看板に辿り着いた。
その角を左に折れ、車一台が辛うじて通れるくらいの狭い道路を進むと、右手にぽつんとその家は建っていた。
”築四十年で外観こそ多少痛んでいるものの、家の中は手入れが行き届いており、家具付き庭付き一戸建てが家賃二万円は掘り出し物です!”という物件紹介の文句通り外観は年代を感じさせる。
平屋造りのはずなのに瓦葺の屋根は高く尖っていて、矢切りに取り付けられた明り取りの大きな窓が印象的だ。
手入れされること無く好き勝手に枝を伸ばした生垣の切れ間から砂利の敷かれた敷地に入ると、すぐに玄関のドアを見つけた。
失くさないようにとサイフの小銭入れにしまっておいた家の鍵を取り出す。
鍵穴に差し込んで回そうとすると、ドアが小さく軋んで開いた。
不動産屋が鍵を掛け忘れたのか?
契約はネット、鍵の受け渡しは郵送、便利なんだけどその分いい加減なんだろうな。
小さく舌打ちをしながら玄関に踏み入る。
と、薄暗い廊下の奥でゴソゴソと影が動いた。
明るい場所から急に暗がりへ入ったときに見えるアレか?と、きつく瞼を閉じてから再び目を凝らしてみる。
どういうことだ?
この一年ほどは誰も住んでない空き家のはずなのに、廊下の奥に人が居る。
しかも、何人も。
古い写真から抜け出てきたような、垢ぬけない服装の男女が四人・・・その手前に白くて大きな犬、その犬に跨った男の子。
人はあまりにも驚くと動くことも声を出すことも出来なくなるという、あまり有り難くない体験を、今、している。
固まったままの僕を、彼らは悪びれる様子もなく興味津々と言った顔でじっと見ている。
鼓動が少しだけ速くなった。
「あれ?この人、ちょっと・・・」
白い犬に跨った男の子が、左右にいる大人たちに何か言おうとすると、
「しっ!なお坊。大きな声出すんじゃねぇ!」
ハゲ頭にステテコ姿のじいさんが、男の子の口を手のひらで塞いだ。
「じいさん、あんたのほうがうるさいよ!」
白髪を後ろに束ねた少し猫背のばあさんが、口を塞がれてモガモガと苦しそうにしている男の子の顔から、じいさんの皺くちゃな手を引っぺがす。
「へぇぇ、珍しいねぇ。猫とか狸とかの類であたしたちが見えたってぇのはいたけど、人間は初めてじゃないかい?」
ばあさんは小鼻にのせた丸眼鏡を中指で押し上げると、不遠慮に僕を睨んだ。
「あらやだ、わたしたち見えてるの?ほんとに?わたしったら、お化粧してないわよ。どうしましょ?恥ずかしいわ」
小太りのおばさんが両手を自分の頬にあてて慌てている・・・が、申し訳ないけどそこには全く興味がない。
「あ、あの、あなたたちは?」
僕の立場からすれば、至極当然な質問だろう。
五人は互いに顔を見合わせて返事を探している。
男の子を乗せた白い犬だけは、ふるふると長い尻尾をせわしなく振って、今にも飛びかかってきそうだ。
「あ、あの・・・」
もう一度声をかけようとしたら、いちばん端っこに立っていたひょろりとしたおじさんが、犬の頭をひと撫でしてから僕の方へ歩み寄ってきた。
「はじめまして。この家は私が四十年前に建てた家なんです。まあ、色々あって生きてるうちには住めなかったんですけど・・・」
篤実そうな顔そのままの誠実そうな声だった。
僕の脳はフル回転していた。
このおじさんが言う通り、不動産屋の情報でもこの家は築四十年と書いてあったから築年数は間違っていない。
ただ、このおじさんはどう見たって四十歳前後にしか見えない。
じいさんの方が建てたって言われれば納得もできるけれど、このおじさんが建てたって話は信ぴょう性に乏しい。
それに『生きてるうちには住めなかった』って何だ?
いや、ちょっと待て。
そんな考察はどうでもよくて、問題なのは僕が借りたこの家になんで別の人間が住んでるのかってことだ。
不動産屋の手違いか?
しかし、昨日のメールのやり取りでは「お待ちしています♪」って返信が来ていたから(立ち合いにも来ないのにお待ちしてますってのもどうかと思うけど)、さすがにそれは無いだろう。
待てよ。
生活に困窮した人たちが放置されている空き家に住み着くケースが増えていて社会問題になっている、というネットニュースの記事をどこかで読んだ覚えがある。
そうか、ここが空き家なのをいいことにこっそり住み着いたんだな。
僕の中でそう結論が導かれた。
・・・の割には、なんでこいつらはこんなにも堂々としてるんだ?
ムカムカと腹が立ってきた。
「色々あったなんてことはどうでもいいよ!この家は僕が賃借契約を結んで借りたんだ。あんたが建てたかなんてこともどうでもいい!あんたたち、住むところがなくて勝手に空き家だったこの家に上がり込んだんだろ?不法占拠だ!さっさと出て行けよ!」
感情のまま、一気にまくし立ててみた。
しかし、五人と一匹は全く動じる気配がない。
どころか、一匹はさっきよりもさらに大きくしっぽを振っている。
「まぁまぁ。こんなとこで立ち話もなんだから落ち着いて話しましょ。さ、お兄さんもそんな怖い顔してないでこっちにいらっしゃい」
小太りのおばさんがニコニコと僕を手招きしながら廊下の右手にある部屋に入っていくと、その声に従って全員がろぞろと行ってしまった。
玄関に取り残された僕は、スニーカーを脱ぐしか選択肢が無かった。
おばさんが入った部屋はダイニングキッチンで、中央に置かれたテーブルには向き合って三脚ずつの白塗りの椅子が並べられていた。
僕は万が一に備えて入口近くの椅子に腰を下ろした。
「場合によっては警察を呼びますからね」
ここで弱気を見せてはいけない、と強めの口調で牽制した。
僕の足元にうずくまった犬が、スニーカーソックスからはみ出した僕の踝の辺りをぺろぺろと舐めている。
くすぐったくて緊張感を維持するのが難しい。
「どこから話したもんでしょうねぇ」
おじさんは困った顔をしている。
いやいや、困っているのは僕の方だ。
じいさんが何か言おうと身を乗り出すのをばあさんが片手で制する。
「じいさん、あんたが話すとややこしくなるから黙っときな。若いの、名前はなんて言うんだい?」
ばあさんは右ひじをテーブルについて、斜に構えて僕を再び睨んだ。
なんて感じの悪いばばあだ。
「お義母さん、名前を聞くなら先にこちらから名乗らないと失礼ですよ」
おじさんが遠慮気味に進言した。
既に失礼の域は超えていると思うのだが黙って聞くことにする。
ばあさんは不服そうに下唇を突き出して、
「じゃあ、あんたからしなよ」
と、おじさんに向かって顎をしゃくった。
「それでは、私から。私の名前は原清です。旧姓は松本なんですが婿養子で原になりました。四十二歳です」
ばあさんとは真反対の、丁寧で感じのいい話し方だ。
隣に座っているじいさんがコホンと咳払いをする。
「わしは原茂じゃ。六十歳・・・だったかのう。植木職人をしておった。この辺りでわしの腕前にかなう奴は・・・」
「じいさん、そんな話はいいんだよ。あたしゃ、チヨ子。節子の母ちゃんだよ」
このばあさんは、ことごとくじいさんの話を遮る。
「はいはい、私の番ね。名前は節子よ。清さんの女房でございます。よろしくね」
ホホホと品良く笑うが、よろしくね、は今のところ受け入れられない。
「ぼくはねぇ、直樹。原直樹。八歳だよ。シロはぼくの子分だからお兄ちゃんを見張ってるんだ」
そうか、僕の足元にいる犬はシロっていうのか。
「ねぇ、なんでお母さんとばあちゃんは何歳って言わないの?」
直樹君という男の子が不思議そうな顔で二人を交互に見る。
「なお坊、女に歳を訊くのは野暮ってもんだ。まぁ、ばあさんが何歳かだなんて知りたい奴は世界中どこを探してもいねぇだろうけどな。カカカカ」
じいさんはさっきの仕返しのつもりか愉快そうに笑った。
「じいさん、喧嘩売ってんのかい?」
ばあさんがギロリと睨みをきかす。
「おっかねぇ、おっかねぇ」
じいさんは首をすくめてソッポを向いた。
「そんであんたは?」
ばあさんが僕に向き直る。
「僕は・・・小田伸司。二十八歳、です」
いったいこれは何の時間だろう。
「あんた、なんでこんな田舎のボロ家に住もうと思ったんだい?」
ばあさんの口調は、まるで尋問のようだ。
僕のほうが訊きたいことはたくさんあるのに、完全にこの人たちのペースに嵌っている。
「ちょっと待ってください。私たちがなぜここに居るのかを先に説明しましょう」
おじさんはさっきとは違ってきっぱりと言い切ると、静かに話し始めた。
「先ほども少し話しましたが、私が四十二歳の時にこの家を建てました。正確には元の家が古くなってきたのでお義父さんとお義母さんに相談して建て替えたんです。その間、私たちは少し離れたところに家を借りて五人で住んでいました」
「シロも一緒にいたよ!」
男の子が元気に口を挟む。
「そうそう、シロも一緒に。家が完成していよいよ引っ越そうという前日のことでした。十月の終わりに季節外れの台風がやってきて大雨を降らせたんです。すぐそこに祝川という川があるんですが、その大雨のせいで祝川の下流で崖崩れがあって、土砂や倒木が川を堰き止めてしまいました。そのせいで水かさが一気に増して氾濫したのです」
色々と言いたいことはあるけど、まだ我慢する。
「この家に大きな被害は無かったのですが、仮住まいをしていた借家のほうは川が氾濫したところに近かったものですから、建物ごと流されてしまいました。家と一緒に私たちも流されました」
淡々と話すおじさんの脇で、ほかの四人が当時のことを思い出しているのかお芝居なのか、俯いて黙ったまま神妙な顔をしている。
足元のシロは僕の踝を舐めるのに飽きたようで、前足に顎をのせて大きなあくびをした。
「流された私たちはいわゆる死んだということなのでしょうが、どういうわけだか魂がからだからはぐれてしまったようです。私たちのからだがどこにあるのかは分かりません。ただ、魂はこの家に執着があったようで、気づくとここにいました。それ以来、四十年間ここに住んでいるのです」
どうですか、ご理解いただけましたか?といった顔でおじさんが僕を見る。
もう、黙っていられなくなった。
「それ、本気で言ってるんですか?」
嘘をつくにしても、もう少しマシな嘘にしろ。
「本気というか本当なんです」
「じゃあ、ここにいる全員がオバケってことですか?」
「そうなります」
「ふ、ふざけんなよ!」
バンっと、両手でテーブルを叩いて立ち上がったはずみで僕の座っていた椅子が勢いよく倒れた。
大きな音に驚いたシロがテーブルの下から飛び出す。
「いい加減にしろよ!そんな話を誰が信じるかよ。どうでもいいから早く出て行ってくれ!」
僕の怒鳴り声に、男の子がからだを硬くするのが分かった。
「そうですよね。こんな話、信じらてもらえなくて当たり前だと思います」
おじさんはそう言うと、席を立って台所の脇にある勝手口のドアを開けた。
「見ていてください」
サンダルをつっかけて裏庭に出たおじさんの足元に、初夏の太陽が濃く小さな影をつくっている。
「あなた、無理しないで」
おばさんが心配そうな声を掛け、他の人・・・いやオバケたちは息を詰めておじさんを見守っている。
僕にはその行為が苦し紛れの時間稼ぎにしか思えなかった。
数分が過ぎて僕がイラつきを抑えきれずに口を開こうとした時、不意におじさんのからだが陽炎のようにゆらゆらと揺れ始めた。
僕は目を疑った。
倒れまいと両手を膝について震えているおじさんのからだが、透明になって向こう側にある生け垣が透けて見えるのだ。
「清、もういい!早く家の中に入れ!」
じいさんは裸足で勝手口から飛び出すと、おじさんの腕を乱暴につかんで家の中へと引き入れた。
顔面蒼白で息も絶え絶えなその背中をおばさんが福福とした手でさすると、さっきまで透明人間になりかけてたおじさんに少しずつ色が戻ってきた。
「わたしたちは、この家から一歩でも外に出ると消えてしまうみたいなの。他の人から見ればわたしたちはとっくに死んでいるんだからどうでもいいだろうけど、わたしたちが消えてしまったとして、そのあと、どこに連れていかれるのかがわからなくてとても不安なの」
そう言いながら、おじさんの背中に当てた手をやさしく動かし続けている。
「伸司さんとやら、すまんがあたしたちをここに置いとくれやしないかね?」
さっきまでの態度とは打って変わってばあさんが頭を下げる。
「ちょ、ちょっと待って!百歩・・・いや百万歩譲ってその話が本当だとしても、オバケと同居なんて気味が悪すぎでしょ!だいたい、そんな話は僕の知ったこっちゃないし・・・」
「兄ちゃんよぉ!お前、なお坊を見殺しにする気か?わしら年寄りは先が短けぇからいいんだよ。でもな、なお坊はまだ八歳なんだ。それを思うと不憫で不憫で・・・」
じいさんが目に涙を浮かべて僕に訴える。
いやいや、見殺しもなにもみなさん既に死んでるんでしょ?
先が短いんじゃなくてちょん切れてるわけだし。
「お兄ちゃん。ぼく、お手伝いするよ。シロのお世話もする。いいでしょ?ねぇ、お兄ちゃん!」
僕の腰にしがみつく小さな手が温かい。
どうにもオバケには見えない、澄んだ目をしている。
オバケって、もっとこう、おどろおどろしい感じじゃないのか?
ひとりになって自分と向き合いたい・・・と言えば聞こえはいいけど、正直全部投げ出して楽になりたいと思ってここを選んだ。でもどこかに孤独へ対する心細さも感じてはいた。
悪い人・・・オバケたちではなさそうだ。
何より、困っているこの家族を追い出すのは胸が痛む。
「う・・・、わかったよ。居てもいい、です。ただ・・・」
「やったー!」
「まぁ!本当?いいのね?」
おばさんと男の子が、顔を見合わせてパッと明るく笑う。
「よし!言ったな。男に二言はねぇからな」
念押しするじいさんの横でばあさんがホッと息を吐く。
「伸司さん、ありがとうございます」
おじさんが深く頭を下げた。
たたみ掛けるように感謝されて、僕は二の句を継げなかった。
こうやって、僕とオバケ一家の生活が始まった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「伸さん。あんた、仕事に行かなくてもいいのかい?」
チヨ子ばあさんが遠慮の欠片もなく襖を開け放って部屋に入って来た。
仮面ライダーVスリーのシールが貼られた枕もとの時計は五時十分辺りを指している。
「あの、今は仕事してないんで大丈夫です」
僕はタオルケットを頭からかぶりなおして背中を丸めた。
「いい若いもんが仕事もせんとなにしよるんじゃ。お天道様が顔出したら起きるもんだよ!」
チヨ子ばあさんは縁側のサッシに掛けられたクリーム色のカーテンを乱暴に引き、昇ったばかりの太陽の光を六畳の部屋に招き入れると、僕から乱暴にタオルケットを剥ぎ取った。
往生際悪く敷布団にしがみついて抵抗を試みたものの、
「伸兄ちゃん、おはよー!」
直樹君が全体重をかけて馬乗りしてきたところで敢え無く降参となった。
「えーっと、直樹君だっけ?朝から元気がいいんだね・・・」
オバケのくせにちゃんと重い。
「直樹君なんて呼ばれたことないや。直樹でいいよ、直樹で」
「そっか。じゃあ、直樹。おはよう」
「うん。おはよっ。もうみんな起きてるよ。すぐに朝ご飯ができるから行こうよ」
確かに、台所の方からいい匂いがする。
昨日、この家族との同居が決まったあと、僕の部屋をどこにするかでひと悶着あった。
この家には四畳半の畳の部屋がくっついたダイニングキッチンの他に三つの部屋があって、その三部屋うち直樹と両親でひと部屋、茂じいさん夫婦でひと部屋の合計二部屋は既に埋まっていた。
玄関を入ってすぐ左側が茂じいさん夫婦の部屋、廊下を挟んだ向かいがダイニングキッチン、茂じいさん夫婦の部屋の隣は空き部屋で、その隣が清さん夫婦の部屋、その奥が風呂やトイレなんかがあるスペースだ。
僕が清さんと茂じいさんの両夫婦に挟まれるのは落ち着かなくて嫌だと訴えると、空いている部屋に入るのが手っ取り早いじゃないかと茂じいさんに正論をぶつけられた。
わたしたちが移るから奥の部屋でもいいかと節子さんが気を使ってくれたのだけど、夜中にひとりでトイレへ行くのに遠くなると怖いから嫌だと直樹が半べそを搔きながら拒んだ。
オバケに怖いものなんてあるの?と訊いてみたかったが、そんなことを言って直樹に嫌われたくはないので思うだけに留めた。
結局、清さんの裁定で一番手前の部屋が僕に当てがわれることになった。
なんだかんだ言って、この一家の柱は清さんなのだろう。
それから、家の中の引っ越しが始まったのだけど、そもそも不動産屋の情報で家具は備え付けられてると聞いていから、すっかりそれを当てにしてスーツケースに詰め込んだ衣類とか小物以外に何も持って来ていない。
仕方ないので清さんと茂じいさんのそれぞれの部屋にあるものでなんとかすることになった。
まず、茂じいさんたちの荷物を運び出して部屋を空にしてから、直樹が使っていた子供用の箪笥、玄関脇に置いてあったミカン箱を机代わりにして、押し入れに仕舞ってあった客用の布団(当然来訪客など無く新品のまま)を運び込み、最後に清さんの蔵書の中からもう読み返すことは無いという数冊の本にタオルを巻いて枕を拵えて、殺風景だけどなんとか部屋らしくなった。
そうこうしているうちに夜になり、晩ごはんだと節子さんが握ってくれたおにぎりを二つ食べてから、風呂に入る準備をしに部屋に戻ったのだけど、広げたままになっていた敷布団に横になったら、そのまま朝を迎えていた。
薬を飲まずに眠れたのは久しぶりだ。
直樹に引き摺られるようにして居間へ入ると、茂じいさんと清さんが畳の部屋で朝のニュースを見ていた。
この家に閉じ込められて四十年、歳を取ることもなくテレビの画面越しに変わってゆく時代を見続けるってどんな気分なんだろう。
「伸兄ちゃんが起きたよ!」
僕のぼんやりとした思考を直樹の大きな声が掻き消す。
清さんと茂じいさんが二人同時にこちらを振り返った。
「伸さん、おはようございます。よく眠れましたか?」
「おう、伸さん。おはようさん。おめえ、遅せえなぁ。一番最後だぞ」
昨日会ったばかりなのに、まるでずっと昔からの同居人のような気安さだ。
台所では節子さんが前掛けをして朝ごはんの支度をしていた。
味噌汁のいい香りがする。
「あら伸さん、早起きなのね。おはよう」
いや、自発的に起きたわけではないのだけれど。
「あ、おはようございます」
もごもごと挨拶を返す。
伸さん、伸さん・・・か。
そんな風に呼ばれるのは初めてなのに、なんだか懐かしい気持ちになる。
「そうだ!伸兄ちゃん、お母さんたちの呼び方も決めなきゃいけないね」
直樹が唐突に大きな声を上げた。
いちいち元気が良すぎる。
「呼び方?」
節子さんが手を止めて直樹の前にしゃがみ込んだ。
「そう!さっきさ、ぼくのことは直樹って呼ぶことに決まったんだ。だからみんなの呼び方も決めたほうがいいよね?」
「あら、いいわね。じゃあ、わたしはなんて呼んでもらおうかしら」
節子さんが僕に向かって小首を傾げた。
「え?えーっと、直樹のお母さんだし・・・おばさん、でしょうか?」
僕が探るように上目遣いで反応を覗うと、
「あらやだ、伸さん。おばさんなんてやめてよー。伸さんと五歳しか変わらないのに」
と、太ももの辺りをバチンと叩かれた。
割と強めに。
「え?ということは、三十三歳・・・なんですか?」
「あら、バレちゃったわね。もっと若く見える?」
節子さんはフフフと悪戯っぽく笑う。
「老け・・・いや、その、落ち着いて見えたんで。じゃあ、せ、節子さんでいいですか?」
「いいわねえ。清さんも結婚したての頃はそう呼んでくれてたのよねえ。最近は”お母さん”だけど」
わざとらしい節子さんの声に、清さんは背中を向けたままコホンと小さく咳払いをした。
「決まり!お母さんが節子さんなら、お父さんのことは清さんね。伸兄ちゃん、おじいちゃんとおばあちゃんはなんて呼ぶ?」
直樹は矢継ぎ早に話を進めていく。
「茂おじいさんとチヨ子おばあさん・・・は、ちょっと変かな?」
口にしてみて、いちいちそんな風に呼ぶのも面倒くさいなと思う。
そこへ、僕の部屋の掃除を終えたチヨ子ばあさんが戻ってきた。
「伸さん。あんた、そんな昔ばなしの登場人物みたいな呼び方はやめとくれよ。昔々おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きましたとさ、みたいじゃないか。あたしたちゃ、そんなに腰は曲がっちゃいないよ」
フンっと鼻をふくらます。
「ぼくみたいにおじいちゃん、おばあちゃんって呼んだらいいんじゃない?」
勢いよく僕を見上げようとして直樹がよろけた。
節子さんの右手が直樹の背中に添えられる。
「んー、おじいちゃん、おばあちゃんってのも違う気がするなぁ。じゃあさ、ちょっと縮めて茂じいとチヨ子ばあはどうかな?」
直樹は節子さんの右手に支えられたまま、腕組みで考える仕草をした後、
「それ、いいと思う。それにしよう!」
そう言って満足気な笑みを浮かべた。
「チヨ子ばあ、ねぇ。ま、可愛げがあっていいんじゃないのかい。さあ、ご飯にするよ」
チヨ子ばあの声でみんながテーブルについた。
清さんが手を合わせて「いただきます」と言うと、みんなが声をそろえて「いただきます」と合唱して箸を取る。
僕も口の中で小さく「いただきます」とつぶやいて箸を手にした。
豆腐と油揚げのお味噌汁とサバの塩焼き、こんもりと添えられた大根おろし、それと昆布の佃煮に白菜のお漬物。
こんなにちゃんとした朝ごはんはいつ以来だろう。
粒の立った炊き立てのご飯はおかずなど無くてもどんどん食べられる。
あっというまに一杯目を食べ終わり、節子さんにおかわりをお願いして茶碗を差し出したとき、ふと、昨日訊きそびれていたことを思い出した。
「あの、ちょっと質問なんですが・・・」
僕の問いかけにみんなが箸を止めてこちらを見遣る。
「今までここに住んでた人たちとぶつかる・・・と言うか干渉し合うことは無かったんですか?」
頬張ったご飯粒を飛ばさないように口を押さえながら尋ねると、
「なぜだかは分かりませんが、私達が生活している場所とその方たちの生活している場所は違うようで、お互いが鉢合わせするような事はありませんでしたね」
そう、清さんが答えてくれた。
「わたしたちのことは見えてないみたいだけど、わたしたちからはその人たちが見えるんだから不思議よねえ」
節子さんが山盛りにしたご飯茶碗を僕の前に置きながら続けた。
「なんで僕はこっちの世界に紛れ込んでしまったんだろう・・・」
不思議がる僕に、
「動物が紛れ込んでくることはたまにあったから、伸さんはそこら辺の動物並みってことじゃないのかい」
と言ってチヨ子ばあがカカカと笑った。
この話はそれきりになった。
丸いちゃぶ台が置かれた畳の部屋で食後の番茶をすすりながら、僕と清さんと茂じいの男三人でぼんやりとテレビを観ていた。
直樹はシロを枕にして、両手の指で作った怪獣となにやら会話をしている。
「ところで、伸さんはどこの生まれなんだい?」
ニュースに飽きたのか、胡坐をかいた足首を両手で股の方に手繰り寄せながら、茂じいがこちらに顔を向ける。
「九州の端っこの、田舎の町です」
「ほおー。九州の田舎から関東の田舎に越してきたのか?よっぽど田舎が好きなんだな」
茂じいは感心した様子でうんうんと何度も頷く。
「いや、地元の専門学校を卒業してから就職で東京に出てきたんだけど・・・」
「専門学校?なんでぇ、それは?じゃあ、そこを出てからなにがしかの仕事をしてたけど辞めちまってここに越して来たってことかい?」
「まあ、要約するとそんなとこです」
「どうしたい?なんかヘマでもやらかしたのか?」
「いや、ヘマって言うか・・・」
あまり触れられたくない話題だ。
「お義父さん、あまり興味本位で根掘り葉掘り聞いたら悪いですよ」
清さんがチラリと僕を見る。
「バカ野郎!清よ、伸さんはもう家族同然なんだぜ?変な遠慮なんかするない!」
茂じいがムキになって声を張り上げた。
茂じい、昨日の今日で家族同然とはちょっと気が早くないか?
「伸さん、少しその辺を散歩してきたらどうですか?今の時間、川沿いを歩くのは気持ちいいと思いますよ」
清さんは茂じいの言葉を往なしてテレビのスイッチを切る。
「それなら、シロを散歩させてあげてよ!」
ひょっこりと直樹が首をもたげて言った。
「え?シロは外に出ても大丈夫なの?」
「うん。前にさ、勝手に外に出てっちゃって心配してたら、次の日に平気な顔で帰ってきたもん」
清さんと直樹の提案がありがたかった。
「へえー。それじゃシロ、行くか?」
僕が立ち上がると、シロは尻尾をクルクルと回して飛びついてきた。
「迷子になるんじゃないよ」
テーブルでお茶を飲んでいたチヨ子ばあがからかうように言った。
「シロがついてるから大丈夫でしょ」
節子さんもそれにのっかってくる。
「お兄ちゃんがシロに散歩へ連れてってもらうみたいだね」
直樹のとどめの言葉でみんなが笑った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
午後からまとまった雨が降るとテレビのお天気キャスターが言っていたけど、今の青空に雨の気配は微塵も無い。
昨日よりも僅かに湿り気を増した風が吹いていたが、川が近いからなのかもしれない。
シロは僕の前や後ろを行ったり来たりしながら、決して遠くに離れたりはしない。
みんなの言いつけを守って、本気で僕が迷子にならないように見張っているのだろうか。
家を出て右の方へ少し歩いていくと、小さな橋が架かっていた。
薄いグレーで塗装されていた痕跡はあるもののペンキはほとんど剥げていて、地肌が晒された鉄骨はかなり錆びている。
この川が祝川か。
朝陽をうけた水面はキラキラと輝き、その上を番いの鴨が滑るように泳いでいく。
二十メートル足らずのなだらかな弧を描いた橋の欄干には白竜橋と書かれていた。
橋の袂にひっそりと祭られた小さな祠の前には、黄ばんだ陶器の花瓶に土手で摘んだであろう二輪の桔梗が挿してあった。
シロの足跡を辿るように橋を渡る。
他の集落から離れているせいか、朝が早いせいか、人影は無い。
橋を渡り切って右に逸れ、土手沿いを下流に向かって進むと、川原に小さな公園があった。
それを見つけたシロが勢いよく駆け下りて行く。
そりゃそうだよね、広い所を走り回りたいに決まってる。
半ば朽ちて雑草に埋もれた丸木の階段を、転ばないよう慎重に下りてシロを追いかけて行くと、傾いたブランコとほとんど骨格だけになったベンチがあった。
僕は青と赤で塗られていた名残のあるブランコの椅子に腰かけて、はしゃぎまわるシロをぼんやりと目で追った。
「おい、伸司。お前に任せるからやってみろ」
社長からプロジェクトのリーダーに指名されたときは正直驚いた。受注できれば会社の年度売り上げのトップスリーに入るであろう大規模な案件なので、普段ならチーフクラスがプロジェクトリーダーを務める。実際、社内では僕より四年先輩で実力者の河野チーフがやるのだろうという雰囲気だったし、河野チーフ自身もこれを足掛かりにしてマネージャーに昇進するんだという野心を数日前の飲み会で披露していた。
「河野、今回は伸司にやらせたい。伸司は実績こそまだまだだが実力はあると思ってる。将来、会社の中核を担える人材を一人でも多く育てたいんだ。しっかりサポートしてやってくれ」。社長の言葉に不承不承に頷く河野チーフの横顔が僕の右目の端に映る。
顔見知りばかりの狭い田舎町で、四六時中監視されているような生活が苦痛だった。
都会に出てたくさんの人の中に紛れ込めば、その他大勢のうちのひとりとして自由になれるのではないか?
そう思って、専門学校を卒業するのと同時に両親の意見などは聞かずに家を飛び出した。
この会社に勤めて八年、大袈裟ではなく寝食を忘れるほど働いて経験を積んできた。
仕事で同期に、いや先輩たちにだって負ける気はしない。
自分の居場所はここなんだと旗を立てるチャンスだ。
不安が無かったかというと嘘になる。
でも、失敗するイメージなんて微塵も浮かばなかった。
なのに・・・何故だ?
いつの間にか手のひらに跡が付くほどブランコの鎖を強く握りしめていた。
薄茶色になった指先から鉄錆びの臭いがした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
はしゃぎ過ぎて喉が渇いたようで、シロは川の瀬に舌を伸ばしている。
「シロ、帰ろうか?」
言葉は通じなくても気配でわかるのか、上目遣いで名残惜しそうにこちらを見上げた。
「明日また連れてきてやるからさ」
ふさふさの頭を撫でてやると、シロはしょうがないなと答える代わりにペロリと僕の手を舐め返した。
草を掴むようにして土手に上がると、さっきより風が強く吹いている。
空は青いままなのに雲の流れが速くなったように感じた。
機嫌よく尻尾を振りながら歩くシロと来た道を戻る途中、仲良さげに散歩をしている老夫婦とすれ違った。
「あ、お、おはようございます・・・」
見知らぬ人に挨拶なんてしたことなかった。
なんで声を掛けたのかは分からない。
老夫婦は聞こえなかったのか、僕の方を見ることもなく行ってしまった。
「なんだよ」
ひどく孤独を感じた。
玄関の前で鍵を持って出なかったことに気づき、日に焼けて黄色くなったインターホンを押した。
ビ、ビ・・・ビーっと頼りない音が鳴り、すぐにガチャリとドアが開く。
「ただいま」
「なんだい?勝手に入ってきておくれよ。あたしゃ忙しいんだよ」
箒と塵取りを持ったチヨ子ばあがそっけなく迎えてくれた。
僕はシロの足の裏を軽くはたいて廊下に上げてやる。
「あの、鍵は掛けてないんですか?」
「鍵?そんなの掛けたことないよ」
「え?泥棒とか入ったらどうするの?」
「こんなボロ家に入る物好きな泥棒なんていないだろ?それに、ご近所さんが遊びに来て鍵が掛かってたら申し訳ないじゃないさ」
「いや、普通は鍵が掛かってて留守だったら出直すし・・・」
「あら、やだねー、伸さん。他人行儀な人付き合いしてるんだねぇ。ご近所さんなら勝手に上がってお茶でも飲んで待っててもらえばいいのさ。ま、今となってはお客さんなんて来やしないがね」
チヨ子ばあはふんっと笑って奥の方へ引っ込んでいった。
入れ替わりに僕の声を聞きつけた直樹が、洗濯ばさみをつなぎ合わせて作った飛行機を手に駆けて来た。
「びゅーーん!」
水色と黄色とみどり色を組み合わせた飛行機は、僕の周りをグルグルと二度旋回しからシロの背中に着陸した。
飛行機の先っちょで首の後ろの毛を挟まれたシロは、そうされるのに慣れているようで、飛行機を背中に乗せたままトコトコと居間へ向かった。
「伸兄ちゃん。遊ぼっ!」
目をキラキラさせた直樹にジーンズを引っ張られて僕の部屋へと移動する。
「なにして遊ぶ?」
満面の笑みだ。
「何しようかな・・・。あ、そうだ。直樹、飛行機になってみるか?」
「え?ぼくが飛行機になるの?」
直樹が目を真ん丸にする。
僕は部屋の真ん中で仰向けに寝転んで、直樹を手招きした。
恐る恐る近づいて来た直樹をグイッと引き寄せて、小さなからだの左右の足の付け根に僕の左右の足の裏をそれぞれ当てる。
脇の下に両手を差し込み勢いをつけて持ち上げると、からだがふわっと宙に浮いて直樹が顔を引きつらせた。
僕は落っことさないように腰と腕と足でバランスをとる。
初めはおっかなびっくりだった直樹が笑顔になった。
膝を曲げ伸ばしして上下に揺すったり、時には蹴り上げて宙に浮かす。
右に左に傾けると、直樹は慌てて僕の腕を握った。
「大丈夫!もっと手を広げてごらん」
直樹はチラリと僕の方を見てからコクンと頷くと、両手を水平に大きく広げグッと顔を上げた。
「どこに行きたい?」
僕は聞いてみた。
「ぼくが決めるの?」
「そうさ。行先は自分で決めるもんだよ。どこに行きたい?」
「ん~?じゃあ、月まで!」
「月・・・か。よし、分かった!しっかり両手を広げて飛べよ!」
僕の両手と両足に力が入る。
「うわー!もっと、もっと!びゅーーーん。びゅーーーん」
直樹は真っ直ぐに前を見ている。
どんな景色が見えているんだろう。
時折落ちてくる直樹のよだれ爆弾をかわしながら、昔、飛行機になって親父に飛ばしてもらったのを思い出していた。
時計の針は昼の十二時を少し通り過ぎた。
「お昼にするわよー」
節子さんがみんなを呼ぶ。
テーブルには大きなアルマイトの鍋が置かれていて、たっぷりと張った氷水に素麺がゆらゆらと泳ぎ、スライスしたキュウリとプチトマトが所狭しと浮かんでいる。
「さあ、たくさん茹がいたからいっぱい食べてよね」
こんもりとお椀に盛られた小ねぎを、好みに合わせてそれぞれが取り分けていく。
「いただきまーす!」
ねぎには見向きもせずに箸の先を咥えながら身を乗り出した直樹は、
「コラ、なお坊!ねぶり箸するんじゃないよ!行儀悪い!」
と、チヨ子ばあに叱られて一瞬動きが止まったものの、すぐに勢いよく箸を鍋に突っ込んで素麺を手繰りよせると、濃いめのツユへたぷたぷに浸して口いっぱいに頬張った。
「美味しい!」
直樹の声に節子さんが嬉しそうに笑う。
「伸さん、散歩はどうでしたか?」
そう言いながら、清さんも素麺をツルリと啜る。
「この辺って、のんびりしてていいですね。そこの橋を渡ってちょっと行ったところの小さな公園でシロが嬉しそうに走り回ってました」
「ああ、あの公園ね。昔はよく直樹を遊ばせていたのよ。今で言うママ友の集まる場所で、近所の子供たちがブランコの取り合いをしていたわ」
節子さんが窓の外を見ながらつぶやいた。
外に、出たいですか?
そんなくだらない質問を絶妙な茹で加減の素麺と一緒に飲み込んだ。
みんなが無言でズルズルと麺を啜っていると、窓ガラスを雨粒が濡らしはじめた。
「天気予報が当たったのう。しばらくは雨降りじゃ」
茂じいはもうお腹いっぱいになったみたいで、テレビの部屋へ向かうとゴロンと横になった。
「あたしも少し休ませてもらおうかね」
チヨ子ばあが立ち上がると、
「ぼくもお昼寝する!」
と、直樹がついて行った。
「伸さん、若いからまだ大丈夫よね?これ、食べちゃってね」
節子さんは僕のお椀に残りの素麺を掬って入れると、小さくなった氷が浮かぶ鍋の中にみんなが使った食器を入れて流し台に持って行った。
テーブルには清さんと僕だけになった。
「伸さん、朝義父さんが言ってたこと、気にしないでくださいね」
清さんはチラリと居間を横目で見ながら小声で言った。
茂じいは座布団を枕に、こちらへ背を向けて眠っているようだ。
「ああ、別に気にしてないし、大丈夫です」
「それなら、いいですけど」
清さんは湯飲みを手のひらの内でゆっくりと回している。
節子さんが食器を洗うカチャカチャという音を聞きながらお椀に残ったひと口分の素麺を箸先で突ついていると、さっきの公園で沸いた感情がこぼれ出てきた。
「大きな仕事を任されたんです」
清さんが静かに顔を上げる。
「大きな案件のリーダーを任されたんです。上手くやれると思ってたのに結果は最悪でした」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
僕の他にチームのメンバーとして五人が選ばれた。同期の渡部、二年先輩の新井田さんと田中さん、今年入ったばかりの祐有子ちゃん、そしてサブリーダーとして河野さん。
コンセプトを決める最初の会議から、僕と河野さんは衝突した。
僕が「うちの会社が今まで積み上げてきたものも大事だけど、僕の色を付け足さないと、僕が選ばれた意味はない」と主張したのに対して、河野さんはそれに関しては異論はないと前置きしながら、「しかし、お前の言ってることは独りよがりすぎる。客が求めているのは奇を衒ったものじゃない。もっと客観的に考えろ。俺たちの仕事は自分たちが満足することじゃない。客を満足させることだ」と反論された。そんなことは言われなくても分かっている。分かったうえで練ったプランに対して、子供を諭すように言われたことが気に食わなかった。他の四人に意見を求めようとする河野さんに、このチームのリーダーは僕なんだから勝手に仕切らないでくれと言うと、河野さんはノートパソコンをパタンと閉じて部屋を出ていった。
会議室に漂う重く長い沈黙を破って、渡部が「お前がリーダーなんだから好きなようにすればいいさ。成功して褒められるのも失敗して責任を取るのもお前なんだし。巻き添えくらうのはごめんだけどな」と笑った。
田中さんが新井田さんを見て苦笑いをしながら、「まあ、そういうことだ。コンセプトは大筋お前の案でいけばいい。やっていくうちに微調整できるだろう。ガキじゃないんだ、河野さんともしっかり擦り合わせていけよ。さてリーダー、何から手を付けたらいいか指示してくれ。納期は待っちゃくれないからな」
大丈夫だ、と思った。
河野さん以外は僕の味方だ、と。
「みなさんは協力してくれたのでしょう?」
清さんは湯飲みの底にわずかに残った番茶を啜る。
「そうですね、みんなよくやってくれてました・・・」
「なのに、なぜ最悪の結果になったのですか?」
河野さんとの溝は埋まることがなかった。コンセプトの部分はなんとか落としどころを見つけられたものの、細部を作り込んでいく過程でいちいち注文を付けられた。社長からお目付け役を言いつけられている河野さんを無視するわけにもいかず、その度に手を止めてはミーティングを繰り返した。
社内プレゼンまで残り一週間を切ってもなかなか形にならないもどかしさに、僕だけではなくメンバーたちも煮詰まっていた。最初こそ僕の意見を尊重してくれていたものの、河野さんの助言に逆らい無理筋を押し付け続ける僕に対して、次第に白けた空気が漂いはじめた。
「いい加減にしろよ、伸司!少しは河野さんの話を聞け。河野さんはお前がやりたいことを形にしようと意見してくれてるんだぜ。俺から見ればお前のやりたいことも河野さんが言ってることも変わらない。視点が違うだけだ。少しだけお前が寄ればいいものができるんだ!なんなんだよ?お前は何に拘ってるんだよ?」もう何度目かもわからないミーティングで、徹夜続きの隈に縁どられた目で僕を睨みつけながら放った渡部の言葉が、リーダーとしての僕への最後通告となった。
僕はきっと酷い顔をしていたと思う。
僕はきっと酷い言葉を吐いたと思う。
祐有子ちゃんが淹れてくれた熱いコーヒーの入った紙コップを握りしめた。白い会議テーブルに黒い液体がゆっくりと広がった。
僕はプロジェクトを降りることになった。僕の様子を心配した新井田さんが社長に進言したのだと後から聞いた。
残りのメンバーで作り上げたものは、社内プレゼンで高評価を得て客先のコンペに臨んだ。しかし、最終選考の二社には残ったが、結果は次点で終わってしまった。
僕はそれを知らせる渡部からのグループラインを心療内科の待合室で受け取った。コンペに提出された資料のクレジットには責任者として僕の名前が載っていたこともその時に知った。河野さんが社長に「これを作ったのは伸司だから」と譲らなかったらしい。「伸司、次はいけますよ」そう言ってたとも。
スマートフォンの画面が歪んだ。
何に拘ってるんだ・・・だって?
今なら答えられるような気がする。
田舎町を飛び出して、この仕事に就いて、必死で働いた、たった八年ぽっちに拘っていたんだよ。
くだらないよな。
僕はいつも、敵か味方でしか周りにいる人を見ていなかったんだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「そうですか。そんなことがあったんですね」
清さんが湯飲みを静かにテーブルに置く。
「それで、お仕事はどうしたの?」
節子さんは濡れた手を前掛けで拭いている。
「辞めました・・・と言うか、黙って出てきました」
「あらあら、誰にも言わずに?」
「はい。会わせる顔がなくて」
「伸さん、それはダメよ。世の中、義理人情で成り立ってんだから」
節子さんが怖い顔をつくって見せる。
「まあまあ、それはいいでしょう。もう少し落ち着いてから、いつか連絡できるといいですね」
清さんの穏やかな言葉に、そうですね、と小さく答えた。
庭の生垣を叩く雨の音が煩さくなってきた。
「ちょっと部屋で休んできます」
お椀に残った素麺を喉に流し込んで食器を手に立ち上がると、
「いいわよ、それちょうだい。わたしが洗っておくから」
そう節子さんが両手を差し出した。
「すみません、お願いします」
おずおずとお椀を渡す僕に、
「伸さん。こういう時はね、ありがとうってだけ言えばいいのよ。しょんぼりとお願いされるよりそっちの方が嬉しいわ」
節子さんはうつむき加減の僕を覗き込むようにニコリと笑いお椀を受け取った。
殺風景な部屋で畳の上にからだを投げ出す。
枕仕立ての本に頭をのせて仰向けになると、所々雨漏れの跡が残る天井板の木目が薄暗い部屋の中にぼんやりと浮かんでいる。
そういえば小学生の頃に木目の模様が人の顔に見えて怖かったとか話してる女子がいて、木目は木目でしかないのにとからかい馬鹿にした日の夜、その話を布団の中で思い出して天井を見たら悪魔の顔を見つけてしまい、怖くなって泣きながらおふくろの布団に潜り込んで寝たっけ。
そんな僕が、オバケ一家と暮らしてるっていうのが何だか可笑しかった。
フフ・・・微かに声にして笑ってみたけど、すぐに雨の音にかき消された。
これから僕はどうなっちゃうんだろう?
後先考えずにここに来てはみたものの、いくら物理的に離れた場所に逃げ込んでも現実は地続きで僕に繋がっている。
仕事のこと、生活のこと、そして恋人のこと・・・。
ズンッと、みぞおちのあたりが沈んだ。
納まりの悪い枕を頭の下から引き抜こうとからだを捻ったら、ミカン箱の上に放り出したスマートフォンが目に留まった。
一昨日の夜から電源は落としたままだ。
ほふく前進の要領でにじり寄って、伸ばした左手の指先が触れた、と思ったらスマートフォンが畳の上にトンと落ちた。
両肘を突いたまま拾い上げて人差し指で小さな突起を長押しすると、画面が明るくなってクリスマスのイルミネーションをバックに笑いあう僕と彩奈が映った。
間も無くスマートホンがブーっと振動して、電話とメールとラインの着信を知らせる小さな窓が開いた。
「どこにいるの?」
「一度、連絡ください」
「帰ってこい!」
「みんな心配しているぞ」
「なぜ黙っていなくなるの?」
「妙なこと考えるなよ」・・・
09:12 不在着信 ”会社”
09:15 不在着信 ”会社”
09:17 不在着信 ”会社”
18:53 不在着信 ”彩奈”
19:14 不在着信 ”彩奈”
19:21 不在着信 ”彩奈”
20:01 不在着信 ”彩奈”
20:32 不在着信 ”彩奈”
21:22 不在着信 ”彩奈”
21:29 不在着信 ”彩奈”・・・
もう一度、人差し指にぐっと力を入れ電源を切った。
黒くなった画面に、僕の顔が映っている。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
いつの間にか眠っていたようだ。
ほんの少しウトウトとしていた感覚だったけど、窓の外が薄暗くなっているから三時間くらいは経っているのかもしれない。
雨は相変わらず降り続いている。
気だるさの残るからだを起こしてサッシを開けると、くぐもっていた雨音がぐっと鮮明になった。
大きく開いた紫陽花のピンとした葉が、雨粒に打たれて揺れている。
切れ目なく落ちてくる雨で、庭のそこここにできた水溜りが沸き立っていた。
サッシに摑まって左足をそうっと雨の中に伸ばしてみると、裸足の甲はたちまち濡れて、思いのほかの冷たさに小さく鳥肌が立った。
「伸さん、寝てるのかい?」
声に振り返ると、ふすまの隙間からチヨ子ばあがこちらを覗いている。
「あ、起きてますよ」
僕は濡れた足先を振り、残った水滴を手のひらで払ってサッシを閉めた。
「どうしたんですか?」
手のひらをジーンズの太ももで拭いながら訊ねると、チヨ子ばあに襟首を引っ張られるようにして部屋に入って来た茂じいが、僕の前にペタンと座りこんだ。
絵にかいたように眉尻を下げてしょぼくれた顔をしている。
「ほら、じいさん」
チヨ子ばあに急かされて茂じいがもごもごと口を開く。
「伸さんよぉ、清から話は聞いたよ。朝は悪かった、勘弁してくれ。別に悪気はなかったんだよ。ほら、一緒に住んでるってのは家族みたいなもんだからさ、どうにも気になっちまって。それでついあんなこと訊いちまったんだ」
なんとも情けない声だ。
「伸さん、ごめんよ。じいさんは世話焼きでさ、昔っからご近所さんの厄介ごとに首を突っ込んでは、かえってややっこしくするようなことばかりしててさ。でもね、悪気はないんだよ。こんな性分なんだ。しょうがないんだよ。許してやっておくれ」
全然フォローになってなくて笑ってしまった。
「気にしなくていいよ。清さんに話して気持ちが少し楽になったし、朝、茂じいに聞かれたときに話しとけばよかったかなって・・・」
子供の頃、夕食のテーブルでその日に起きた良いことや悪いことを夢中で話したように。
「本当かい?」
「嘘はつかない主義です」
「主義って・・・難しい言い方だねぇ」
チヨ子ばあがおどけた調子で笑うと、つられてへへへと茂じいも笑った。
「ほれ」
そう言って、チヨ子ばあが手にしていた茶色の紙袋の口を開けて僕に差し出した。
「ここの煎餅、旨いんだよ。食ってみな」
すすめられるまま手を突っ込んで一枚を摘まみ出すと、ぷんっとしょうゆの焦げた匂いがして、表面にふり掛けられたザラメがぱらぱらと畳の上に散らばった。
慌てる僕を見て、
「そんなもん、あとで掃いときゃいいさ。さあ、食ってみな」
眼鏡越しにチヨ子ばあがニヤリと笑う。
そっと歯を立てると、パリッとボリッの中間くらいの音を立てて煎餅が割れた。
雨のせいか少し湿けった歯ごたえが、余計に甘さを感じさせる。
チヨ子ばあは手のひらで煎餅を半分に割り、片方を茂じいに渡した。
パリポリ、ガリボリと音がする。
「茶でも入れてくるか」
茂じいが指先を舐めながら腰を上げた。
「お、気が利くじゃないか。珍しいねぇ、じいさんがそんなこと言うなんてさ」
からかうチヨ子ばあをひと睨みして茂じいが台所へ立った。
僕とチヨ子ばあの二人きりの部屋に少しの沈黙が生まれた。
風向きが変わったのか、雨粒がサッシのガラスを叩いている。
「雨、止みそうにないね」
そんな僕の言葉には答えず、チヨ子ばあは丸眼鏡の鼻あての部分を中指で押し上げながら、
「伸さん、あんた仕事のこと以外で他に何か悩んでることがあるんじゃないかい?」
と、探るような顔つきでにじり寄って来た。
チヨ子ばあ、さっき茂じいのことをお節介だとか言ってなかったっけ?
「まあ、それなりには色々と・・・」
僕が言葉を濁すと、
「なんだよ、歯切れが悪いねぇ。なんでも話そうと思ったんだろ?」
更に詰め寄って来た。
「あんた貯金はあるのかい?」
「え?貯金?そりゃ少しはあるけど・・・」
「じゃあ、そこは慌てることないね。ここに居れば食べるもんは神さんが届けてくれるから困らないんだし。ゆっくり自分のことを考えたらいいよ」
「神さん?って、神様のこと?」
「そうさ・・・多分。こんな境遇のあたしたちを哀れと思ってるのか、食べものだけは冷蔵庫にいつも季節の旬のものが家族分そろってるんだよ。今朝からは、伸さんの分もね。ただ、欲をかくとソッポを向くんだ。鰻が食べたいってねだったらイワシの蒲焼が出てきたよ。身の丈をわきまえろとでも言ってるのかねぇ。この煎餅は精いっぱいの贅沢さ。貧乏くさい神さんだよ」
チヨ子ばあは、忌々しそうにボヤくと煎餅をひとかけら口に放り込んだ。
「貧乏くさいとか言ってると、晩ご飯のおかずが質素になっちゃわない?」
僕はけっこう本気で心配になった。
「おっとっと、今のは独り言だからね。神さん見逃しておくれよ」
天井を見上げてチヨ子ばあが手を合わせる。
「伸さん、あんまし心配ばっかりしてないで気楽にいきな。そんな時もあるさ」
「でも、仕事とか色んなことをほったらかしにしてきてるから・・・」
「あれこれ欲張るもんじゃないよ。あたしゃこの四十年で悟ったんだよ。お天道さま拝めて、腹いっぱいご飯食べられりゃ人生お釣りがくるってね」
そう言って、チヨ子ばあが右目をシバシバさせた。
ひょっとするとウィンクのつもりかも知れない。
「あのさ、チヨ子ばあが・・・その、洪水?に巻き込まれたのが四十年前で、その時はすでにお婆ちゃんだったんだから百年以上は生きてる・・・この世にいるってことだろ?僕はそんなに長く生きてるわけじゃないから、人生を悟るなんてそんなの無理だよ」
「そりゃそうさ!」
チヨ子ばあが大袈裟に驚いた顔をする。
「あんたぐらいの歳で悟った気になるなんて百年早いよ。だから、こうやってばあさんが言ってやってるのさ。年寄りが若いのに話してやれるのは経験だけだからね。いっつもじゃなくていいんだよ。偶には年寄りの話を聞いておいた方がいいときもあるさね」
河野さんの顔がチラリと浮かんだ。
時には・・・か。
あの時、そう思えていたら目の前の世界は今と違っただろうか。
散らばったザラメのひと粒を人差し指の先に押し付けて舐めてみた。
舌先にほの甘さが広がる。
「ところでさ、伸さん」
チヨ子ばあがぐっと顔を寄せてきた。
「若い男の悩みと言ったらアレだろ?好いた女でもいたんだろ?」
右手の小指を立ててイヒヒといやらしく笑う。
はずみでチヨ子ばあの口から煎餅の欠片が飛び出した。
ついさっきチヨ子ばあの言葉に、わずかでも心を動かしてしまった自分を後悔した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「伸司、なんだか顔が疲れてるわよ」会社を抜け出して待ち合わせたカフェで、テーブルの向かいに座った彩奈が心配そうに僕の顔を覗き込む。お昼時の店内は混み合っていて、二人分の席を確保するために十五分ほど待たされたけど、僕の疲れた顔はそのせいではなかったと思う。プロジェクトが始まってからは二人の時間をつくれずにいた。お互いの忙しさもあったけれど、あの時の僕は恋人に逢うという気持ちの余裕を失くしてしまっていた。
「大丈夫、心配いらないよ。それより、彩奈こそ疲れてない?仕事は順調なの?」彩奈は大学新卒から六年間勤めた商社を辞め、友人と二人で輸入雑貨の会社を立ち上げたばかりだ。僕よりもずっと忙しかったのではないか。
「なんでもやらなきゃいけないからバタバタしてるけど、自分で決めたことだし。まあ、今のところ給料は会社員時代の半分以下だけどさ。いい話もたくさんきてるし、これから頑張って稼ぐわ!」と笑って、噛み応えのありそうなバゲットのベーコンレタスサンドに齧りついた。二週間前にここで逢ったときは肩まであった髪がショートボブになっている。僕が三日遅れになってゴメンと言ってその時に渡した誕生日プレゼントのピアスが小さな耳で揺れている。緑色の石が黒い髪にとてもよく似合っていた。
「その髪型、似合ってんじゃん」
「なによー、切ってすぐに写真を送ったときはスルーしたくせに」
くちびるの端についたマヨネーズを人差し指で拭いながら僕を睨む。
「ごめんごめん、後で返事しようと思ってて・・・忘れてた」
言い訳しながら飲むコーヒーが苦い。
「忘れてたって・・・。まぁ、いいわ。伸司は今が勝負の時なんだもんね。でも、あんまり無理しないでよ」
「ああ、彩奈に負けないように頑張るよ」
「もぉー、なんで私との競争になるのよぉ。いいけどさ。ホント、からだだけは気をつけてよ」
「わかってる。彩奈も無理しないようにね」
慌ただしくランチを済ませて僕たちは別れた。ちゃんと話をしたのはこの時が最後で、この三日後に僕はプロジェクトから外された。
「なんの話しをしてんだ?」
丸いお盆に湯飲みを三つ載せて茂じいが戻ってきた。
「あんたにゃ関係ない話だよ」
チヨ子ばあは湯飲みを手に取ると、そっぽを向いてズズッと啜った。
「そりゃぁ、世間様で起こる大体のことはわしに関係ないことじゃけどな」
茂じいが差し出したお盆から僕も湯飲みを受け取る。
「じいさん、こりゃ薄くないかい?」
「ばあさん、文句言うなら飲むない」
唇を尖らせた茂じいが僕の隣に胡坐をかいて座り、ぐいっと湯呑を傾ける。
「なんでぇ、ちょうどいい塩梅じゃねえか」
二人の口ぶりに釣られて勢いよく口に含んだお茶は、そんなに呑気な温度ではなかった。
「熱っちぃぃっ!」
危うくお茶を吹き出しそうにって口元を押さえながら悶える僕を見て、
「なんだよ伸さん、これっくらいで熱いだなんて」
「そうだぜ、伸さん。これっくらいで大袈裟じゃねえか」
ふたりは口をそろえて呆れたように笑った。
恐る恐る舌先で上顎の辺りを触るとザラザラとした感触があって、ところどころ痛い。
「ところで伸さん、その彩奈さんはあんたがここに居ることを知ってるんだろうね?」
チヨ子ばあは空になった湯呑をお盆に置く。
「・・・何も言ってない、です」
「黙って出てきた・・・ってことかい?」
「いや、はい・・・黙って出てきました」
「あんた、それでいいと思ってるんじゃないだろうね?」
低く唸るような口調だ。
「誰でぇ?その彩奈さんとやらは」
急に剣呑な雰囲気になって、話の前段が分からない茂じいが口を挟む。
「伸さんのいいひとさ」
チヨ子ばあが面倒くさそうに言うと、
「ほぉ、彩奈さんってのは伸さんの女か?」
そう言って茂じいは小指を立てた。
「じいさん、品のないことするんじゃないよ。ちょっと黙ってな!」
チヨ子ばあは茂じいが立てた小指を叩く。
ついさっき、自分も同じことをしてたくせに。
「あんた、そりゃいけないよ!」
チヨ子ばあの声がひとまわり大きくなった。
「あんたは自分の好き勝手にしてるからいいんだろうけど、そのお嬢さんはあんたを待ってるんじゃないのかい?あんたたちの将来がどうなるかなんて知ったこっちゃないが、ちゃんと話してやんなきゃ可哀想じゃないか。好いてくれてる女を泣かせちゃいけない。あんた、男ってそういうもんじゃないのかい?」
チヨ子ばあの目が真っ直ぐに僕を射る。
返事に窮している僕を見かねたのかチヨ子ばあの物凄い剣幕に驚いたのか、
「ばあさん、あんまし伸さんを責めんじゃねえよ。伸さんには伸さんなりの考えがあるんだろうよ。好いた女を放ったらかすからにゃ、それなりの理由ってもんがよ。わかってやれや」
茂じいが困った顔で取りなす。
「ふん。じいさんよ、あんた、男同士だから伸さんの気持がわかるっていうのかい?気色悪いね。道理は道理なんだよ。伸さんの都合なんて関係あるもんか。何言ってんだよ。だいたいてめぇのケツをてめぇで拭けないからこんなトコに来る羽目になっ・・・」
チヨ子ばあの言葉を遮るように、襖が勢いよく開いた。
「お義母さん、その先はいけません」
ひまわり模様のエプロンをつけた清さんが立っていた。
「少し早いですが夕飯にしましょう」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
チヨ子ばあが言ったこと。
それは僕が僕なりに自問自答していたことだった。
でも、チヨ子ばあの口から言葉になって耳に届くと、僕が僕自身に投げかけていた丸くて曖昧でふにゃふにゃとしていたものよりも、その棘は鋭く尖ったものだった。
あの日以来、僕を責める人はいなかった。
それは諦められているのと同じことなんだ、と僕自身も諦めていた。
だから、チヨ子ばあがきつく叱ってくれたことに、僕は救われたような気持ちになったんだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
テーブルの下に灰色のボンベのようなものが置いてある。
白抜き文字で『プロパンガス』と書かれたそれは、煤けた水色のホースでテーブルの上のコンロと繋がっていた。
節子さんとその隣に座った直樹が忙しなく手を動かして、お椀の中のたまごを勢いよくかき混ぜている。
晩ごはんはすき焼きのようだ。
「プロパンガス・・・?」
誰に訊くともなしにつぶやく。
「ふん。最近の若いもんはプロパンガスも知らんのかい」
チヨ子ばあは先ほどの不機嫌を引き摺った顔のままだ。
「今時で言うカセットコンロみたいなもんじゃよ」
茂じいは苦笑いしながらそう言って、片手で器用にたまごを割ってみせた。
「伸さんもどうぞ」
清さんがお椀とたまごを僕の目の前に置く。
テーブルの角で入れた小さなひびに親指を挿し込むと、力加減が上手くなかったようで、黄身と白身といくつかの殻の破片とが混ざり合いながらお椀に落ちていった。
「伸兄ちゃん、下手クソ~」
直樹が大袈裟に手を叩いて喜んでいる。
コンロにの上に置かれた黒光りする鍋が熱をもった頃合いを見計らって、清さんが牛脂をふたつ滑り落とした。
白い立方体が泡立ちながらゆっくりと小さくなっていく。
清さんは菜箸を使って鍋の隅々まで油をひろげると、竹の皮に包まれた高級そうな肉を鍋底一面に敷き詰めていった。
みんなで儀式のように鍋の中を凝視している。
ジュージューと鳴る鍋を注意深く観察しながら、肉のふちの色がほんのりと変わった瞬間、清さんは徳利に入れてあった割り下をひと回しかけた。
甘い匂いが部屋を満たしていく。
かるく煮立ったころ合いを見計らって、清さんはコンロのツマミを回して火を消し、みんなのお椀に肉を取り分けてくれた。
「じゃあ、いただきましょう」
「いただきます!」
清さんの掛け声に全員で合唱した。
肉にたまごをたっぷりと絡ませて頬張ると、口の中で溶けるようにほどけていく。
醤油が上顎の火傷に少し沁みた。
「こりゃ、神さんも奮発したもんだね。上等な肉じゃないか」
さっきまで渋い顔をしていたチヨ子ばあの機嫌があからさまに良くなった。
「おお、こりゃウマいな。伸さんのおかげじゃ」
茂じいが僕に手を合わせる真似をすると、みんなが笑った。
清さんは満足そうに微笑んで再びコンロに火を点け、今度は鍋にたっぷりと割り下を注いで肉と野菜を隙間なく並べていく。
白菜、焼き豆腐、春菊、糸こんにゃく、椎茸、白葱。
全部がしんなりと醤油色になってきたところで、節子さんが炊き立てのご飯をよそってくれた。
箸が止まらなかった。
僕はたまごをみっつ使って、二回ご飯のおかわりをした。
満たされた腹をさすりながらお茶を啜る。
さっき茂じいが煎れてくれたのよりも濃いお茶が、口の中の油を洗い流していく。
すっきりするような、名残惜しいような。
とろんとした時間に浸っていると、いきなり甲高い共鳴音が鳴り響いた。
「あら、なにかしら?」
節子さんが窓の外に顔を向ける。
「防災スピーカーからみたいだね」
清さんが同じ方向に目を遣る。
雨の音で聞き取りにくいが、どうやらこの辺りに大雨洪水注意報が出されたらしい。
昼から降り始めた雨は、止む気配が無い。
「大丈夫かな?」
直樹が不安げな目をしてつぶやくと、
「なお坊、心配するねい。明日の朝にはお天道様が顔を出してるさ」
茂じいが優しく直樹の頭をなでた。
節子さんと目が合った。
「直樹はね、雨が怖いのよ。あの日を思い出すから」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
棟上げで盛大な餅播きしたときはご近所さんがたくさん来てくれてね。見栄っ張りなおじいちゃんは嬉しそうにしてたわ。お父さんはそろばんを弾いて頭抱えてたけどね、フフフ。それからは、ほとんど毎日ここに来てたわ。買い物のついでとかお散歩の足をのばして。少しずつ形になっていく家を見ながら、みんな好き勝手なこと言ってね。あの日は土曜日だったんだけど、朝ごはんを早めに済ませてから、出来上がったこの家をみんなで見に来たのよ。いよいよ明日は引っ越しだって浮かれちゃって。荷造りがあるからすぐに帰ったんだけど。あの日も昼頃からいきなり雨が降り出してね。ずぶ濡れになってシロの散歩から帰ってきた直樹が大きなくしゃみをして。鼻水がだらーんと顎のとこまで垂れてみんなで大笑いしたわ。笑われた直樹も笑ってた。
荷造りが終わって、作り置きしてたおにぎりをみんなで食べたの。お塩をふっただけの。あ、いくつかには梅干を入れたのよ。おばあちゃんが漬ける梅干しはしょっぱくて酸っぱくて。直樹はそれが苦手でさ、梅干し入りのおにぎりに当たると、梅干しを指でほじくってお父さんの口に押し込むの。お父さんは眉間に皺をよせて食べてたわ。薬缶の麦茶をふたつの湯飲みで回し飲みしてたんだけど、お父さんったら何杯もお代わりしてたわね。みんな、お腹いっぱいになったら眠くなっちゃって。畳の上に雑魚寝したのよね。窓を閉めて、灯りは点けっぱなしにして。
夜明け前にサイレンが鳴ったのよ。
すぐそばの消防小屋の櫓の上で誰かが半鐘を打ってた。
カンカンカン、カンカンカン、カンカンカン、ってね。
音に驚いて飛び起きたら真っ暗でね。
懐中電灯も何もかも風呂敷かミカン箱の中。
手探りで名前を呼びあって、お互いの所在を確かめ合って。
手を繋いだの。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
直樹が節子さんの膝によじ登ってきた。
胸にしがみついて顔を埋ずめる。
トントンと直樹の背中をたたきながら節子さんがからだを揺すると、直樹は大きな欠伸をひとつついて、やがて寝息を立て始めた。
僕はなぜだか直樹の呼吸に合わせて息をしていた。
すっかり眠ってしまった直樹を茂じいがが抱き上げると、チヨ子ばあがドアを開け一緒に部屋を出ていった。
廊下の奥で襖を開く音がする。
直樹の布団を用意してやっているのだろう。
「あの、聞いてもいいですか?」
清さんと節子さん、ふたりに・・・いや、この家族にどうしても聞きたいことがあった。
僕の唐突な問いかけに節子さんが小首をかしげる。
「どうぞ。なんでも聞いていいわよ。わたしのスリーサイズでも知りたい?」
清さんが危うくお茶を噴きそうになる。
いや、そこにはあんまり興味ないのだけれど。
「あの、こんなことを訊いていいのかどうか・・・」
じゃあ、やめておけ。
もう一人の僕の声がした。
「どこにも行けずに、ずっと家の中に・・・同じ場所に居るのってどんな気分ですか?退屈っていうか、窮屈っていうか・・・」
諦めっていうか。
反対側から見れば、傲慢でひどい質問だと思う。
自らが望んで今の状況に身を置いているわけではなく、自分ではどうしようもないことに対して心情を語れというのは、三流リポーター並みのマイクの向け方だろう。
ただ、知りたかった。
なぜみんなが笑顔で暮らせているのか。
清さんは黙ったまま節子さんを見ている。
優しい目で。
節子さんは嫌な顔をするでもなく答えてくれた。
「もし、わたしが一人だったら発狂してたかもね。でも、みんなと一緒だったから。そりゃ、初めは大変だったわよ。わたしは何が起こったのか理解できなくて、ヒステリー起こしてお父さんのこと引っぱたいたりしたわ。おじいちゃんなんかみんなが止めるのも聞かずに外へ飛び出して一週間くらい寝込んだこともあったし。おばあちゃんにこっぴどく怒られてたわ。でもね、次第にみんな分かってきたの。どうにかなるもんじゃないって。それなら、いつまで続くのか分からないけど、家族でいられるこの暮らしを大事にしようって決めたの。ね、清さん」
清さんがコクリと頷いたように見えた。
「家族ってそんなにいいですか?」
僕の言葉に、節子さんが不思議そうな顔をする。
「伸さん、親御さんはご健在なんでしょ?」
「はい」
「ご両親のこと嫌い?」
「よく・・・わかんないです。一緒に暮らしてた頃の僕はいつもイライラしてて文句ばっかり言ってたから・・・。親との会話なんてほとんど無くて。それに、こっちに出てきてからは一度も帰ってないし」
「そう。じゃあもっと考えないとね。お仕事のこととか親御さんのこととか。あと、彩奈さんのことなんかも。いいわねぇ、悩めることがいっぱいあって」
チクリとどこかが痛んだ。
「全部聞いてたんですね」
「あんだけ大きな声で話してたら聞こえるわよぉ。母さんったら、随分怒ってたわねぇ」
「ええ。でも、清さんが助けて・・・」
「助けたつもりはありませんよ」
優しい目のままで清さんが口を開いた。
「伸さんの答え合わせはここでするものじゃないってだけです」
「答え合わせ・・・って、どういうことですか?」
「さぁ?それは伸さんの宿題ですから」
清さんの言葉の意味が分からずに僕は黙り込んでしまった。
茂じいと千代子ばあが戻ってきた。
「節子、片付けはあたしがやっとくから直樹のそばにいてやんな。今は眠っているけど、目が覚めて一人きりだと直樹も心細かろう」
チヨ子ばあが椅子に掛けてあった前掛けを手に取る。
「じゃあ、僕も片づけを手伝います」
椅子から立ち上がろうとする僕を茂じいが左手で制止する。
「台所はばあさんと節子の持ち場じゃ、余計なことはせんでもいい。それより伸さんは他にやらないかんことがあるじゃろ?」
他にやること?
思い当たることがない。
いや・・・、あった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
照明からぶら下がってるひもを引っ張ると、ジーという音を立てて灯りが点く。
ミカン箱の前に胡坐をかいてスマートフォンを手に取り電源を入れたら、小さな窓の中には新しい通知が増えていた。
一番上を選んでタップすると、”彩奈 携帯 21分前”と表示された。
その下にある受話器のマークを押せば、きっと彩奈は数コールで出てくれると思う。
でも、繋がったとして、何を話せばいいのだろう?
謝罪と言い訳に意味があるだろうか?
画面を見つめたまま、動けなくなってしまった。
雨が相変わらず降っている。
屋根や窓や紫陽花や剥き出しの土をこれでもかと叩き続ける音を聞いていると、ずぶずぶと泥濘に沈んでいくような感覚に襲われた。
迷っているうちに画面が薄暗くなり、そして静かにスリープした。
スマホをミカン箱の上に戻し、部屋の隅で丸まっていたタオルケットを頭から被ってからだを倒した。
砂に潜った深海魚のように目だけを出してみる。
”あんた、・・・いいのかい?”
チヨ子ばあの声がする。
天井の雨染みが悪魔からチヨ子ばあの顔に変わった。
僕は大きく息を吸い込んで、そして、吐いた。
”あんたはそれでいいと思ってるのかい?”
息を吸って、吐く。
まるで心臓がそこにあるかのように、耳の奥が脈打っている。
”そのお嬢さんはあんたを待ってるんだろ?”
吐いた息で口元のタオルケットが熱を孕む。
”好いてくれてる女を泣かせちゃいけない。”
彩奈の顔が浮かんだ。
”泣かせちゃいけない。”
泣いているのか笑っているのか分からない彼女の横顔。
”泣かせちゃいけない。”
キーンと耳鳴りがして、鼓動と息づかいだけが世界の全てになった。
彩奈の声が聞きたい。
そして伝えたいことが、ある。
僕は・・・
起き上がってスマホに手を伸ばした瞬間、メキメキと生木を裂くような音がした。
「おい!白竜さんの方から変な音がしとるぞ!」
茂じいの叫び声が合図のように家中の灯りが消えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
シロが激しく吠えている。
跳ね起きて廊下に出ると懐中電灯で闇を払う清さんが見えた。
「伸さん!大丈夫ですか?」
振り向きざまに照らされた光に一瞬目がくらむ。
「僕は大丈夫です。いったい何が起こってるんですか?」
眩しさにかざした手のひらの向こうで、清さんはチヨ子ばあを背負っていた。
「よくわかりません。川の方で何かあったみたいです。伸さん、私は直樹と節子の様子を見てきます。お義父さんとお義母さんを頼みます」
背中から降ろされたチヨ子ばあは、へなへなとその場に座り込んだ。
清さんはもうひとつ持っていた懐中電灯を僕に手渡すと闇の中へと消えていった。
僕が抱き上げようとするより早く茂じいがチヨ子ばあを抱き上げる。
「伸さん、足元を照らしてくれ。取り敢えず清のとこに行くぞい」
「茂じい大丈夫?僕がチヨ子ばあを・・・」
「いいからさっさと懐中電灯を点けろい。こいつはワシが連れていく!」
さっき僕と一緒にチヨ子ばあに怒鳴られて、項垂れてシュンとしてたじいさんと同一人物とは思えない。
「わ、わかった!」
僕は右手に握った懐中電灯のスィッチを強く押した。
接触が悪いのか、チカチカと点いたり消えたりする。
手のひらで乱暴に叩いたら、やっと役に立つ明るさになった。
玄関へ向かって吠え続けるシロに茂じいが怒鳴る。
「シロ!こっちに来い!」
懐中電灯でシロの方を照らしてやると、サンダルと下駄とスニーカーがぷかぷかと泥水に浮かんでいた。
潮の満ち引きのように波立つ泥水は、上り框の際を濡らしながら今にも廊下に上がり込んで来そうだ。
「あん時と同じじゃ・・・あん時と・・・」
茂じいに抱えられたチヨ子ばあの声が震えている。
僕の背中を冷たいものが流れた。
「伸さん、急げ!」
茂じいの足元を懐中電灯で照らしながら、清さんたちの部屋へと走った。
背後でパリンッとガラスの割れる音がした。
「清っ!でぇじょうぶか?」
部屋に駆け込むと、節子さんはまだ寝ぼけたままの直樹を浴衣の帯で清さんの背中に結わえ付けていた。
清さんの足元の畳から水が湧き出るように滲んでいた。
「お義父さん、これでお義母さんも!伸さん、手伝ってください!」
清さんは薄いピンク色の帯を茂じいに投げた。
「茂じい!僕の方が若いし力もある。チヨ子ばあは僕が背負ったほうがいい!」
「そんなもやしみたいな腕でなに言ってやがる!ばあさんは、チヨ子はワシじゃ。わしの背中に縛れ!」
「でも・・・」
「あたしゃ、じいさんがいいよ。離れたかないよ・・・あんな淋しいのはもうごめんじゃ」
「大丈夫じゃ、ばあさん。二度も死ぬこたぁない。大丈夫じゃ」
しがみついたチヨ子ばあは茂じいの首に回した腕にギュッと力を入れる。
「ぐへっ・・・ば、ばかやろう!ワシを殺す気か!」
膝をついた茂じいの背中に帯を襷掛けしてチヨ子ばあが落ちないようにきつく結んだ。
廊下からも泥水が流れ込んできた。
「伸さん!廊下の突き当りに梯子があります。それを登って屋根裏部屋の入り口を開けて下さい!」
僕は頷いて部屋を飛び出した。
こんなところに梯子があったなんて、何度かこの前を通っていたのに気づかなかった。
ギシギシときしむ梯子を登って大きな木枠の蓋を天井裏に押し上げると、黴臭く真っ暗な空間があった。
昨日見上げた明り取りの窓が雨に濡れている。
からだを持ち上げて恐る恐る床を踏むと、両手を伸ばしても届かないほどに屋根が高い。
「伸さん!手伝ってくれぇ!」
振り返ると茂じいが天井の木枠に手をかけていた。
その腕を掴もうとしたらヌルリと手が滑った。
「ちきしょー!泥がついてぬるぬるすらぁ!」
茂じいのこめかみに血管が浮かんでいる。
僕はシャツで手のひらを拭いてもう一度茂じいの腕を掴んだ。
両足で踏ん張って持ち上げると、茂じいの上半身がこっち側に来た。
チヨ子ばあを結び付けた帯に手をかけてもう一度勢いよく引っ張ると、転がるように全身が屋根裏部屋に届いた。
すぐ後ろから節子さんが、見た目よりも軽やかに自力で登ってきた。
「ふぅー、もう少し痩せないといけないわねぇ」
冗談めかして笑ったけど、脛まで泥水で茶色になっている。
「伸さん、シロを!」
下を覗き込むと清さんに押し上げられたシロが梯子に四本の足でつかまっている。
前足の付け根に手を刺し込んで持ち上げようとすると、シロは僕の顔をペロペロと舐めてきた。
「シロ、お礼は上がってきてからでいいから!」
せーのっ!の掛け声で、清さんが押上げ僕が引っ張る。
どうにか屋根裏に上がってきたシロがブルブルとからだを振ったから、泥が混じったしぶきが四方八方に飛び散った。
「ぶへぇっ・・・シロ!おとなしくしてろい!」
茂じいがシャツの袖で顔を拭いながらまた怒鳴った。
最後に清さんが屋根裏に上がってきた。
「清さん、大丈夫ですか?」
「なんとか、みんな無事のようですね」
「ホント良かった、みんな無事で」
僕がほっと息を吐くと、さっきまで清さんの背中で寝ぼけ眼だった直樹が僕を指さして噴き出した。
「伸兄ちゃん、顔が泥だらけ!」
みんなが僕の顔をまじまじと見て一斉に笑い出した。
「あははは!いやねぇ伸さん。色男が台無しだわ」
節子さんがポケットから取り出したハンカチで顔を拭いてくれた。
でも、そんな節子さんの顔も泥で汚れている。
よく見ると、みんな泥だらけだ。
「節子よ、てめぇの顔もなかなかなもんだぜ」
茂じいがカカカと笑うとみんながお互いの顔を見ながら笑いあった。
「伸さん、よかったよ。よかった」
そう言うチヨ子ばあはよく見ると笑いながら泣いている。
僕の肩をポンポンと叩きながら何度もよかったよかったと繰り返す。
皺だらけの掌。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ここに居れば大丈夫だとは思いますが、まだ安心はできませんね」
清さんが廊下を侵略してくる泥水を見下ろしながらつぶやく。
僕も清さんと顔を並べて様子を見た。
さっきよりも水嵩は増したようだけど、床から三十センチほどのところでこう着状態のようだ。
「心配してもはじまらねぇ。どうせ水が引くまではここに居るしかねえんだからよ。今の季節でよかったな、真冬なら凍えるところだ」
茂じいは僕の手から懐中電灯をひったくると、部屋の隅っこに行って薄っすらと埃を被った段ボールを物色しはじめた。
「茂じい、何してるの?」
「なんか役に立ちそうなもんがねぇかなと思ってよ。歴代の住人が引っ越すときに残してったガラクタを勿体ねぇからこの箱の中に仕舞っといたのさ。ほれ、あった」
僕の胸に押し付けられたのは、子供もののTシャツだった。
「それ、なお坊が着れるだろ。泥だらけのままじゃ可哀想だ。ま、オレたちは我慢だな。あ、この太いローソクも使えるな。おっと、ライター・・・ちっ、オイルが切れてやがらぁ。おうおう、洒落たマッチがあるじゃねぇか。ん?こりゃ何だ、食いもんか?”えいようかん”って書いてあるぜ。へへへ・・・しめしめ」
茂じいはパチンコで戦利品を獲ったようにニヤニヤしている。
「あー!それ圭太のTシャツだ!」
直樹はTシャツを両手で広げて大きな声を出した。
「あら、こんなとこに紛れ込んでたのね」
節子さんが懐かしそうな顔をする。
「あの、けいたくん・・・って、誰ですか?」
「この家に最初に住んでくれたご夫婦の子供よ」
「最初・・・。えーっと、みんなが、その、流されたあと・・・」
「なによぉ、両方の頬っぺたに綿を詰め込んだみたいな言い方して。そうよ、わたしたちが死んでしまって、主をなくしちゃったこの家に住んでくれた家族よ」
あっけらかんと節子さんは答える。
「わたしたちが居なくなっちゃって、この家と借金だけが残ったでしょ?売ってしまおうって話も出たみたいなんだけど、お義父さんが・・・清さんのお父さんね、お義父さんがそれはダメだって。わたしたちの貯金では足りない分を肩代わりしてくれたの。でも、お義父さんは自分の家があるからここに住むわけにはいかなくて。家って人が住んでないと傷んじゃうじゃない?どうしようかって時に、遠い親戚で結婚する人がいて新居を探していたから、相談してみたら渡りに船ってことで住んでくれることになったの」
「自分たちの家に知らない人が住むのって嫌じゃなかったですか?」
「全然っ!アカの他人に住まわれるより全然いいわ。それに、晃さん夫婦はとても大切に家を使ってくれたの。奥さんの里美さんがお掃除好きでね。毎日隅から隅まできれいにしてくれるの。たまには手を抜きなさいって教えてあげたかったわ」
心底残念そうに唸る。
「その晃さんと里美さんの子供が圭太くんなんですね?」
「ここにきて4年目かな?周りから子供はまだかまだかって言われ、里美さんがとても気に病んでてね。晃さんは気にするなって言うんだけど、口さがないことを言う人がいるのよ。そういう時代だったの。だから授かったってわかった日は二人はとても喜んでて、それを見てるこっちまで幸せだったものよ。圭太君が生まれてから直樹はずっと圭太君の側にいたわ。弟のように思ってたんじゃないかな。そうそう、こんなこともあった。冬の寒い日、ハイハイしてた圭太君がストーブにぶつかっちゃって、上に載せてあった薬缶がひっくり返ったときにね、走って行って圭太君を抱え上げたの。見事なお兄ちゃんぶりだったわよ。当の圭太君は何が起こったのか分からなくてキョトンとしてた。圭太君が小学校に上がるちょっと前までここに住んでたんだけど、晃さんが転勤になってね。」
直樹は泥が付いた空色のシャツを脱いで圭太君の白いTシャツに袖を通した。
「ちょっと小さいよ」
窮屈そうに襟元を引っ張る。
「だから、晃さんたちの引っ越しの当日は一日中泣いてたの。直樹が泣きながら圭太君の頭を撫でて元気でなって言うとね、圭太君は見えないはずの直樹を見つめてニコリと笑ったの。それを見てわたしたちも泣いた泣いた。お化けになってもお別れは辛いもんなんだなって。不思議な気分だったわ」
節子さんは腕を伸ばして直樹を抱き寄せた。
「おかあさん!せっかく着替えたのに汚れちゃったじゃない!もう!」
「あらあら、ごめんごめん」
そう言いながらも節子さんが抱きしめると、直樹は黙ってからだを預けた。
淡い花の香りが漂ってきた。
茂じいが灯したローソクの明かりが屋根裏部屋をゆらゆらと揺らしている。
「なんだこれ?いい匂いがするじゃねえか」
クンクンと茂じいが鼻を鳴らす。
「それは去年引っ越しされた佐藤さんが好きだったアロマキャンドルですね。お義父さんは夜が早いから知らないと思うんですが、彼女が寝る前によく使っていたものですよ」
清さんが階下の様子を気にしながら答えた。
「ああ。一日中コンピュータとやらに向かってカチャカチャやってた女だな」
茂じいは両手でタイピングの真似をしてみせる。
「ええ。小説家志望の方でした。そんなに大きくはないけど賞を貰ったって喜んでましたね。やっとこれで食べてく自信がついたって、嬉しそうにお母さんに報告していて。でも、お父さんに代わってくれって言っても電話口に出てくれなくて。お父さんは随分と反対されていたようです」
「そりゃそうだろうよ。地に足の着いた仕事に就いてくれて、お前みてえな堅い旦那と結婚してくれるのが親としちゃ安心だわい」
「お義父さん、お褒めいただいて光栄です」
そう真顔でお礼を言う清さんはどこまで本気なんだかわからない。
「ふん。誰も褒めとりゃせんわい」
「でも、その後にお母さんから送られてきた写真には、ご近所やお友達に配るんだと言って、彼女の作品が掲載された雑誌を段ボールいっぱいに買ってきたお父さんが写ってましたね」
清さんは目を細めて微笑んだ。
「けっ。素直に褒めてやりゃあいいもんをよ。子供は幾つになっても子供だからよ。心配しながら応援してんだろうさ。娘もよ、しっかり親孝行しないとバチが当たるぜ。ところでよ、伸さん。おめえの親は?」
矛先がこっちに向けられた。
「親・・・は、いるよ?」
「当たりめえだろ!親がいなくてポロンと生まれてくる人間がいるかよ。そうじゃなくて、達者で暮らしてるのかって聞いてんだよ!」
じれったそうに捲くし立てる。
「両親は九州の田舎で元気に暮らしてる、はず」
「はずって、なんでえ?」
「いや、その、こっちに出て来てから帰ってないんで」
「かーっ!薄情な男だな!ひとりで大きくなったとか思ってるんじゃあないだろうな?孝行したい時に親は無しって言うくれぇだ。たまには顔出して喜ばせてやれよ」
「うーん。そんなに喜ばないんじゃないかなぁ、兄貴もいるし。それに勝手に飛び出してきちゃったから帰りづらいってのもあって」
「そんなもん、若気の行ったり来たりで悪かったって頭を下げりゃ済むじゃねえか。それともなにかい?親のこと顔も見たくないほど嫌いなのか?」
行ったり来たりってなんだ?
それにしても節子さんと似たようなことを訊いてくるとは、やっぱり親子なんだな。
「好きとか嫌いとか考えたことないなぁ。仕事が忙しかったし。そんなもんじゃないの?」
「まったく、今時の若いヤツは。そんなんだからバチが・・・」
「お義父さん、大きな声はいけませんよ」
しっ、と唇に人差し指を当てて目くばせした。
シロを枕にした直樹を真ん中に挟んで千代子ばあと節子さんが川の字になっている。
「水は引いているようです。雨も小降りになったし、もう大丈夫でしょう。明日は朝から片付けが大変だと思うので早く寝てからだを休めましょう」
そう言うと、清さんは板張りの上にゴロンと横になった。
「フンっ。続きは明日だな」
茂じいは忌々しそうな捨てゼリフを残し、僕に背を向けて転がるとすぐにいびきをかきはじめた。
明日も茂じいに説教されるみたいだ。
少しげんなりとして、少し楽しみでもある。
ひとりポツンと残された僕は、揺れるろうそくの火を眺めながら眠気が訪れるのをボンヤリと待った。
そういえばこの家に来る前の日におふくろから手紙が届いていたな。
スーツケースのポケットに入れたままでまだ読んでないけど、いつもと変わり映えのしない他愛も無い内容だろう。
勝盛公園の桜が咲いたとか、穂波川の鴨が七羽の雛を孵したとか、千石峡の蛍が綺麗だったとか。
となりの伊藤さんがギックリ腰になったとか、兄貴とオヤジが喧嘩して最近口を利いてないとか、ベスト電器で買った洗濯機が調子いいとか。
ちゃんと食べてるの?仕事きつくないかい?お父さんはもう怒ってないから一度くらい帰っておいで・・・とか。
近況報告なら電話でもよさそうなものを、それじゃ雰囲気が出ないからと毎月せっせと書いて送りつけてくる手紙に返事を書いたことは無い。
業を煮やして、数か月ごとに掛かってくる電話で手短な近況報告をしてたから、それで十分だと思っていた。
ただ、おふくろの誕生日の六月二十一日には毎年ショートメールでおめでとうとだけ入れていたのだけれど、今年は気が付いたら六月が終わっていた。
普通の人は親のことを好きとか嫌いとか考えるものだろうか。
親は親であって好きとか嫌いとか言うのを通り越した存在ではないのか。
高校に上がる頃にはいくらか煩わしさを感じるようになってはいたけど、反抗期だと思えばかわいい部類だと思う。
ひとりで大きくなったなんて思い上がりは持っていないつもりだけど、もう親にベタベタとする年でもないだろう。
親が嫌いで町を出たわけではない。
窮屈と退屈から解放されたい、そんな気持ちを我慢できなかっただけだ。
つらつらと考えを巡らせていると、こめかみの辺りから睡魔がやってきた。
これを逃がすとまた余計なことを考えなければいけなくなる。
いや、余計なことではないのだろうけど。
指先を舐め、その指でろうそくの芯をつまんで火を消す。
夏休みの花火のあと、親父がそうやってろうそくの火を消すのを見てびっくりして指先を見せてもらったっけ。
「お前も大きくなったらできるようになるさ」
驚く僕にむかって、親父は少し得意そうに笑った。
傍らの田んぼから聞こえる蛙の鳴き声に「うるさい!」と大きな声を出すと、一瞬鳴き声は止んで、でも、またすぐに大合唱が始まる。
盆地特有の纏わりつくような湿度に汗を拭いながら、明日は何をして遊ぼうかと企む僕が見上げた空には、数えきれない星が瞬いていた。
火の消えたろうそくから細く淡い煙が闇の中に溶ける。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
白いパラソルが三つ、大きなキノコのように砂浜から青い空に向かって開いている。傘の下で親父が会社の同僚たちと楽しそうに缶ビールを呑み、その横には大袈裟な花柄の水着の上にパーカーを羽織ったおふくろがよそ行きの顔でちょこんと座っている。朝から晩まで大声で僕と兄貴を叱り飛ばす鬼の角はどこに隠しているのだろう。ピーマンと人参がバーベキューの網の隅っこで炭にあぶられ黒く焦げていて、あれはもう食べなくてよくなったなと、ほっと安堵した。僕はついさっき友達になった同い年くらいの男の子と、浮き輪の穴にお尻を埋め込んで波打ち際をぷかぷかと漂っていた。男の子の名前は・・・もう憶えていない。兄貴は同じくさっき出逢った女の子と波打ち際で楽しそうに砂山を作ってトンネルを掘っている。きっと兄貴も女の子の名前を憶えてはいないだろう。夏休み最初の土曜日の割には人が少なくて波の音がよく聞こえた。砂浜から海に向けて吹く温かい風が僕らの頬を撫でて沖へと消えていく。僕たちを乗せた二つの浮き輪はくっついたり離れたりしながら波に揺られた。真上にある太陽の放つ光で波がキラキラと光るのを飽きることなく眺めていると、男の子が急に泣き出した。どうしたの?と声を掛けながら右腕で水を掻いて方向転換をすると、男の子の向こう側にある砂浜が随分と遠くに見えて急に不安になった。怯えた男の子が僕に向かって手を伸ばすから、その手を掴もうとからだを捻ったはずみで僕はバランスを崩して浮き輪から放り出されてしまった。ボコッボコボコと僕の体の中から泡が生まれる。風呂場での潜水ごっこで、湯船で鼻をつまんで息を我慢する僕のからだを兄貴がくすぐった時のように盛大に。海の中から見上げた空は歪んでいて、苦しくて手足をバタバタさせながらも光の屈折の授業を思い出していた。影が差して水の壁からヌッと伸びてき大きな手に僕は抱え上げられた。海水を飲んでむせる僕を抱くオヤジの両腕が震えていた。どこまでも沈んでいくように感じた海はオヤジの腰ぐらいの深さで、遠くに見えた砂浜はすぐそこにあった。あの日以来、親父が酒を呑んでいるのを見た記憶がない。
誰かに話しかけられたような気がして目が覚めた。
窓から差し込む薄い光で雨が上がったのと朝が来たことを知る。
大雨の不安は消えて明るい朝を迎えたというのに、なぜだか腹の奥の方がゾワゾワと騒いでいた。
すぐにその原因が遠くから聞えるバラバラバラという音だと気付く。
都会ではしょっちゅう耳にするヘリコプターのプロペラ音が、こんな田舎で聞くと不穏な音に変わる。
「誰か・・・ますか?・・・橋が壊・・・早く避・・・ください。逃げ遅れた方・・・せんか?手や・・・振って合図を・・・」
拡声器らしきものを通しての呼びかけは途切れ途切れで聞き取れない。
漠然とした不安にゾワゾワが大きくなる。
僕は明り取りの窓の縁に両腕を伸ばして飛び付いた。
窓は思いのほか高いところにあって、おまけに足をかけるところがないからなかなか外を見ることが出来ない。
「どうしたんじゃ?」
ガシガシと僕が壁を蹴る音で目を覚ました茂じいに、
「なんか変だ!」
振り返って大きな声を出した拍子に、縁を掴んでいた指先が滑って床に尻餅をついた。
「外で何か言ってるんだけど聞えない!でも、何かが起こってる!」
尻をさすりながら答える僕に清さんが駆け寄ってきて外の様子を伺う。
ヘリコプターの音は少し離れたところに移動したようで、代わりに防災スピーカーから女性の声が流れた。
「昨晩の大雨の影響で祝川に架かっていた白竜橋が倒壊し土砂に押し流されています。周辺の住民の皆さんは直ちに避難してください。繰り返します・・・」
やけに鮮明に聞こえた。
一瞬の間をおいて、清さんは階下に向かって走り出した。
茂じいがガラクタ置き場から小さな脚立を引っ張り出してきて「これでどうじゃ?」と梯子にして壁に立てかけた。
僕はそれに登って窓に取り付けられたねじ式の古い鍵を回そうとするけど、手が震えてうまくいかない。
「なにやってんだ!代われ、伸さん!」
茂じいは僕の脹脛のあたりをバシバシと何度も叩いた。
交代した茂じいが窓を勢いよく開けると、雨上がりの匂いを纏った風が流れ込んできた。
朝の柔らかい光が暗い屋根裏部屋の床をボンヤリした輪郭で照らす。
「な、な、なんじゃありゃ!白竜さんが動いとるぞ!こっちに向かって動いとるぞ!」
茂じいが口から泡を飛ばして叫んだ。
まだ眠っている直樹の小さな手がピクリと動いた。
節子さんは、直樹を抱きしめたまま言葉が出ない。
千代子ばあがジッと茂じいを見つめている。
ドン。
小さな振動で家が震えた。
ドン、ドン。
不規則な鈍い音と一緒に家が揺れる。
泥だらけになった清さんが階段を上がってきた。
「駄目です。白竜さんが土砂と一緒にすぐそこまで来ています」
諦観を含んだ静かな声だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
清さんは節子さんが抱く直樹をチラリと見てからガラクタ置き場で何かを探し始めた。
「こんな筋書きとは・・・。神さんも意地悪よなぁ」
チヨ子ばあは、深く長いため息をついた。
「そうね。でも、いつかこんな日が来るのは分かってたから・・・」
節子さんは泣きそうな顔で微笑んだ。
「どうしたの?」
目を覚ました直樹が不安そうな表情でふたりの顔を見る。
「大丈夫。心配しなくていいわよ」
節子さんの丸くて優しい声に直樹は小さく頷いた。
「さて、やることはひとつじゃな」
茂じいも清さんと一緒に何かを探し始めた。
「これがいいんじゃないか?」
茂じいが手にしていたのは少し曲がった登山用のストックだった。
直樹が夕べ脱ぎ捨てた空色のシャツをストックの先にくくり付けながら、
「見つけてくれといいんですが」
清さんは窓の外をまぶしそうに見上げた。
「なにをする気なんですか?」
清さんが僕の質問には答えずに窓立てかけた梯子を登ると、茂じいは倒れないようにそれを両手で支えた。
窓の枠に方足をかけた清さんは、自分のからだとシャツを結わえたストックを雨上がりの青空の下に突き出した。
「おーーーーーーいっ!おーーーーーーいっ!」
あの物静かな清さんのどこからこんな声が出るのだろうと驚くほどの大声で叫んだ。
チヨ子ばあが両手を胸の前で合わせている。
「ここだー!助けてくれ!伸さんを助けてくれー!」
両手で大きくストックを振りながら何度も叫ぶ。
青いシャツが右へ左へと風を孕んだ鯉のぼりのように大きく泳ぐ。
「ちょっと待って!そんなことしたら・・・」
駆け寄ろうとした僕の左手を節子さんが強く掴んだ。
「伸さん。この家が無くなればわたしたちは消えてしまうの。遅かれ早かれそうなる。それはいいの。仕方のないことだから。でも、でも、伸さんは違うから」
生木が折れる鈍い音と一緒にギシギシと家が鳴る。
あばら骨を1本ずつ折られるような、悲鳴のようなその音はだんだんと大きくなっていく。
叫び続ける清さんの声が枯れ、そのからだがゆらゆらと陽炎のように揺れて、向こうにあるはずの空が薄く透けて見えはじめた。
「お義父さん、そろそろみたいです。すみません先に行きます。伸さんを・・・みんなを・・・お願い・・・します」
「おう、あとは任せとけ!なぁに、伸さんを届けたらすぐにそっちに行く。茶でも飲んで待ってろ。チヨ子、節子!梯子を押さえろ!」
僕は節子さんを振り払って梯子に足を掛けようとする茂じいを突き飛ばした。
「な、何をするんじゃ!」
茂じいが目を吊り上げて怒鳴るのにはかまわず、僕は右手で綿菓子のような手ごたえの清さんを掴んで思い切り引っ張った。
梯子が傾いてバランスを崩した清さんと僕が縺れるように床に転がる。
「大丈夫だから。僕は大丈夫だから。みんなと一緒にいるから。いや、みんなと一緒にいたいんだ。だから、もういいから。もう、いいから・・・」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ヘリコプターは更に遠くへ行ってしまったみたいだ。
防災スピーカーからは相変わらず避難指示の放送が流れているけど、どこかエンドレステープを回しているような無機質さを感じる。
家がまた少し傾き、夜を照らしてくれたキャンドルが倒れてコロコロと床を転がった。
窓から差し込む光が、さっきよりもくっきりとした窓の輪郭で屋根裏部屋を照らしている。
僕らは呆けた顔で床に座り込んで、その時を待った。
「僕はみんなと一緒にいたいよ。直樹と遊んで、茂じいにお説教されて、清さんに慰められて、チヨ子ばあに怒鳴られて、節子さんの作った美味しいご飯を食べるんだ。天気のいい日はシロを連れて河川敷を散歩する。他に何もいらない」
ゆっくりと、でも確実に倒壊した橋と土砂がこの家を飲み込もうとしていた。
でも、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、こうなることが約束されていたのではないかとさえ思っている。
近づいてくる終わりの音にどこか安堵している僕がいる。
「伸さん、私は怒っています」
さっきのダメージが残っていて、節子さんと直樹に支えられていた清さんが、その腕をほどいて強い目で僕を真っ直ぐに睨む。
「私たちはもう死んでしまっているから生き返ることはない。それは、この家があろうが消えようが変わらないことです。わかりますか?歳も取らずこの先に何もない毎日を過ごすことの意味を。節子に聞いてましたよね?どんな気分なのかって。私たちは選べなかった。だから受け入れたんです」
清さんは静かに怒っていた。
「でも、伸さんは生きてるんですよ。いま、生きてるんですよ。この家があろうが消えようが、生きてもう一度やり直すことができるんです。それは、私や節子やお義父さんやお義母さんや、直樹には二度と叶わないことなんです」
大きく家が揺れた。
揺れたはずなのに、僕たちがいる空間は水を打ったような静けさの中にあった。
「いいんですか?本当にいいんですか?謝らなきゃいけない人がいるんじゃないですか?好きな人がいるんじゃないですか?ありがとうって言いたい人がいるんじゃないですか?いいんですか?本当にいいんですか?」
河野さんや渡部の顔が浮かんだ。
彩奈の髪は少しが伸びているかも知れない。
封を切っていないおふくろからの手紙には、今月もまたくだらない愚痴が書かれているのだろう。
でも。
「なぜ、そんなに生きろって言うんですか?なぜ、清さんは自分が消えてしまうのをかまわず僕に生きろって言うんですか?茂じいもそうだ。僕はアカの他人で、僕がどうなったってかまわないじゃないですか。僕はこの先いいことが起こるなんて思えない。どうせ僕なんかなんの役にも立たないんです。このままここに居たらダメですか?他人事だからですか?なんでみんなは僕に生きろって言うんですか?」
強く握った拳が震えた。
「ふん。清のあの姿を見ても気づかないってのはとんだ甘ったれだね。ほっときな!本人にその気がないんじゃからほったらかしとけばいいのさ。アカの他人と呼ばれるあたしたちがとやかく言うことじゃないだろ?」
節子ばあが吐き捨てるように言った。
「なに言っとんじゃ!この期に及んで見捨てる気か?」
茂じいがチヨ子ばあに喰ってかかる。
「この期もその後も知ったこっちゃないね。伸さんがそれがいいって言うならそれでいいじゃないか。無理強いしたって遅かれ早かれってやつだよ。アカの他人のあたしたちが面倒見れるのはここまでなんだ。変な期待をさせるもんじゃないよ」
「そうね。これはわたしたちの身勝手なエゴかもしれないわね。結局、伸さんが決めることなんだもの。清さん、あなたもそう言ってたじゃないの」
節子さんが清さんに繋ぐ。
「私は全てを見届けてからでも遅くはないんじゃないかと思うんです。あなたが投げ出してきたことの顛末を、良いことも悪いことも全てを見届けてからでもいいと思うんです。今のままだと後悔しか残らない。このまま私たちと一緒にいたとしても、伸さんは永遠に自分を責め続けるでしょう。毎日毎日。そんな同じ日を繰り返したいと思いますか?私たち家族を見ていて・・・」
清さんはそう言うと、また、僕を真っ直ぐに見つめた。
「ぼくもできるなら伸兄ちゃんと一緒にいたいよ。でもね・・・」
直樹が静かに立ち上がり。ズボンの後ろポケットから僕のスマートフォンを取り出す。
「それ・・・いつの間に?」
直樹は僕の問いかけにひどく寂しそうに笑うと、スマートフォンの画面を僕の目の前に差し出した。
「このお姉ちゃんみたいに約束ができないんだ。ぼくたちはこの家が無くなったらどこに行っちゃうかわかんないんだもん・・・。もし、はぐれちゃったら、伸兄ちゃんはずっとひとりぼっちになっちゃう」
僕は差し出されたスマートフォンの画面に目を落とした。
彩奈からのメッセージが画面に浮かんでいた。
『 生きてるよね!帰って来るよね!待ってるから!ずっと待ってるから! 』
シロが窓に向かって小さく吠えた。
振り返ると、いつの間にかオレンジの円環服を着た救助隊員らしき男が窓枠に掴まっていてゴーグル越しに僕を見ている。
黙って、左手を差し出していた。
「さぁ、行って!」
直樹は僕にスマートフォンを握らせると、両手で僕の腰をくるりと回した。
窓に取り付いた男は「行くかのか?行かないか?」と無言で問いかけていゆようだ。
ポンッと、直樹が僕の尻を叩いた。
僕は一歩だけよろけて立ち止まる。
「伸さん、私たちはあなたに会えて楽しかったですよ。でも、いつまでも一緒にいるわけにはいかないでしょう。直樹が言った通りです。あなたはあなたの場所へ帰るべきです」
清さんの声が背中から聞こえた。
「僕の帰るべき場所ってどこなんだよ?ここじゃなくてどこなんだよ!元の場所に戻ったって、それが本当に僕の帰るべき場所なの?わかんないよ。僕はどこに行けばいいんだよ!」
あんなに何もかもを自分で決めたがっていたのに、なんで今の僕はこうも何ひとつ決められないんだろう。
手のひらに爪が食い込むほど固く握りしめた僕の右手に、直樹が小さな手をそっと重ねる
「伸兄ちゃん、ぼくを飛行機にしてくれた時に言ったよね?行先は自分で決めるもんだって」
”行先は自分で決めるもの”
直樹の言葉を口の中でなぞった。
ダメだ。
偉そうなことを言っておきながら僕は決められない。
ペタペタ・・・と足音を立ててチヨ子ばあが直樹の隣に立った。
「お義母さん・・・」
清さんが間に割り込もうと腰を上げたその瞬間だった。
「ええい!じれったいね!さっさと行きな!」
直線的に鋭く、チヨ子ばあの右足が僕の尻を思い切り蹴った。
その弾みでぼくはよろよろと円環服の男の腕を掴んだ。
「あ!それは駄目ですよ!伸さんが決めないと・・・」
「まどろっこしいんだよ!なぁに、伸さんは大丈夫さ。あたしが保証するよ。ま、責任はもてないけどね、イヒヒヒ・・・」
ふわりと僕のからだが宙に浮いて窓の外に引っ張り出される。
と同時に、泥だらけの鉄の塊が家をなぎ倒した。
その反動でみんながいる屋根裏部屋が、流れてきた土砂の方に鋭角に投げ出される。
スローモーションのような静止画のような一瞬だった。
ガラスでガラスを擦るような甲高い耳鳴りがして、脳みその真ん中がジンジンと熱くなった。
僕はなにかを叫ぼうとするのだけれど声にはならず、代わりに涙と鼻水が飛び散る。
「なに情けない顔してるんだい!しゃんとしな!ぐじぐじ言ってる暇があったら手を動かすんだよ!どん詰まったら酒でも飲んで寝るこった。それでもダメなら帰ってきな。あたしゃ、いや、あたしたちゃあんたの・・・」
薄れていく意識の中で見たチヨ子ばあや茂じいや節子さんや直樹や清さんは笑っているようで怒っているようで泣いてるような顔をしていた。
シロが大きくしっぽを振っている。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
気が付くとベッドの上に寝かされていた。
からだが鉛のように重くてあちこちが痛むうえに、ひどくのどが渇いていて口の中がカラカラだ。
みんなはどうなったんだろう?
「伸司?」
声のした方向に首を傾けると、ボンヤリとした視界の端に誰かがいる。
朦朧として言うことをきかない瞼に力を入れて焦点を合わせると、彩奈がいた。
起き上がろうとしたが上手くできない。
自分のからだじゃないみたいだ。
「気が付いた?伸司!わたしのこと分かる?」
僕の顔を覗き込む彼女は少しやつれていて、髪はあの日よりも伸びていた。
「わかるよ・・・、彩奈だろ?わかるよ」
乾いたのどが引きつって情けないほどか細い声しか出ない。
彼女の顔がくしゃりと歪んで、温かい雫が僕の頬に落ちてきた。
大袈裟だな、たいした怪我はしてないはず・・・なのに。
そうか、黙って姿を消してしまったから心配かけちゃったんだな。
ちゃんと謝らなきゃ。
僕の右の手のひらを握る彼女の手を握り返そうとしたけどやはり力が入らない。
「彩奈・・・」
僕の口元に彼女が耳を寄せる。
「どうしたの?苦しいの?痛いよね・・・大丈夫?」
そんなに心配そうな顔をしないでくれ。
「その髪型、似合ってんじゃん・・・」
僕の言葉に彼女は唇の右端を少し上げてあきれた顔をする。
「もう!なに言ってんのよ。でも、そんな軽口きけるならだいじょうぶだね。あとでたっぷりお仕置きするからね」
そう言うと、枕もとに置いてあったボタンを押して叫んだ。
「意識が戻りました!伸司が・・・目を覚ましました!」
白衣を着た人たちが慌ただしく部屋に入って来たて、そこでようやくここが病院なのだと気付いた。
よく見ると、僕の左腕には二本のチューブが刺さっていて、おまけに右肩のあたりから手首にかけてミイラ男みたいに包帯がグルグルと巻かれている。
白衣の彼らがぼくの周りでテキパキと何事かを遂行している様子を、いつの間にか彩奈と並んで立っていた親父とおふくろが心配そうにじっと見ている。
え?わざわざ田舎から出てきたの?
「CTにも問題ありませんでしたし、意識も回復してハッキリしているようですので大丈夫でしょう。鎖骨と肋骨は一か月もすればくっつきます。もう二、三日様子を見てから退院です」
担当医らしき中年の男がキッパリと宣言した。
くっつくってことは折れてる・・・何で骨が折れてるんだ?
ここに来るまでの経緯を思い出そうとするけど、すっぽりと記憶が無い。
そうか!救助したはいいが、円環服の男が手でも滑らせて僕を落っことして怪我させたんだな。
アイツ、カッコつけて片手で僕を持ち上げてたけど途中で力尽きたんだ。
なんて非力な・・・
「伸司!なんで自殺とかしようとしたとね!そげんキツかったんなら、なんで帰ってこんかったとね!みなさんに心配かけてから・・・。よかった・・・よかった。生きててよかった・・・」
自殺?
誰が?
ベッドの端で泣き崩れるおふくろの肩を親父が抱いている。
あの日、アパートを引き払って街を出ようと駅へ向かう途中で発作的に歩道橋から飛び降りたらしい。
トラックの幌がクッションになって何本かの骨を折っただけで済んだものの、頭を強く打って3日間意識を失っていたのだと教えられた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
駅前の景色はあの日のままだ。
違うのは枯れた噴水に今日は鳩がいない。
お盆を過ぎて夏の峠は越したと言っても、照りつける太陽は肌を焼くように強烈で、前回(という言い方が正しいのかどうかは分らないけれど)の教訓を活かして事前にタクシーを予約しておいて正解だった。
名前を告げて後部座席に乗り込むと、運転手が帽子を取ってご利用いただきありがとうございますと挨拶をする。
「どちらまで行きましょうか?」
「白竜さん・・・白竜橋があったところに行きたいんですが」
「承知しました。ただ、この前の大雨で橋は流されてしまって、その近所もまだ土砂が残ってるんで川までは行けませんがよろしいですか?」
「ええ、知っています。大丈夫です、行けるところまでお願いします」
それは、僕が目覚めた日付けの新聞で確認してきた。
あれが夢ではなかったことを。
「かしこまりました。申し訳ありませんがシートベルトをお願いします。最近、警察がうるさいもんでして」
そう言うと、運転手はメーターのスイッチを押して静かにアクセルを踏んだ。
まだ若く弱々しかった稲穂が、空に向かって高く伸びていた。
風が吹くたびに、その通り道を教えてくれるようにさわわと揺れる。
舗装のでこぼこを踏みつけて進む車の窓を少し開けた。
「お客さん、冷房、寒いですか?」
「いえ、ちょっと景色を見たかったもんで」
「ああ、スモーク貼ってて見にくいですもんね。でも、この辺は田んぼばっかりで面白いもんなんて何もありませんよ」
運転手がバックミラー越しに僕へ視線を送る。
「僕の田舎の風景に似てるんですよ」
ふうんと、あまり興味のない顔をして運転手はミラーから視線を外した。
ハザードランプを点けて車が路肩に停まった。
「お客さん、この道を入って少し行くと橋が架かってたところなんですけどね、まだ工事してて車では行けないんですよ。どうしますか?」
運転手がミラー越しではなくこちらを向いて不必要なほどハキハキと問いかける。
「まだ、橋の残骸があるんですか?」
「さあ、どうなんですかね。なんせ狭い道でして、大型の重機が入れないらしいんですよ。だから、細切れにして運び出してるって聞いてますが。今日は日曜日だからやってないでしょうけど」
生垣越しに見えていたはずの矢印の様に尖った屋根が見えない。
「あそこにあった家は流されちゃったんですか?」
答えは分かっているのに。
「ああ、あの尖がり屋根の家ですか。橋が直撃して粉々ですよ。でも、あの家が橋を食い止めてくれたおかげでこっち側に土砂が流れてこなくて大きな被害にならずに済んだんです。最近は人が住んでなくて空き家だったようなんですけど、あんなボロな家でも役に立つもんですね」
悪気は無いだろうし、客観的に見ればそういうことなのだろう。
「ちょっと、川を見てきたいので待っててもらえますか?」
「それは構わないですが、川まで行くとなるとまだ泥が残ってて足元が悪いですよ?」
「スニーカーなんで大丈夫です。それに、そんなに近くまでは行かないと思いますし」
「承知しました。ここに停めっぱなしにもできないので、すぐそこのコンビニエンスストアの駐車場で待っていますね」
お気をつけて、と言うと運転手はドアを開けてくれた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夏を惜しむように鳴く蝉の声を聞きながら、僕は自分の足元だけを見ながら生垣伝いに歩いた。
撤去作業をする作業員の足跡らしき泥の模様が、インクの切れかかったスタンプのように、縦横斜めと不規則に道を行き来していた。
もう少し先の、この生垣が途切れたところから玄関が見えるはず、だった。
でも、僕の記憶よりも早い場所で生垣は途切れていて、代わりに黄色と黒の縞模様の柵が並べられている。
ゆっくりと顔を上げると、薄汚れたプレハブの小屋とその横に切り刻まれた白竜さんの一部が積まれていた。
ここにあったはずの家は、はじめから存在しなかったかのように跡形もない。
柱も屋根瓦も壁も全て消えていた。
僕の額や頬にぷっくりぷっくりと汗が染み出す。
いくつかの汗つぶが繋がってひと筋流れた。
こうなっていることを確かめに来たはずなのに、その通りだったことに呆然としている。
この景色のどこかに余白があって、物語の続きが書いてあるのではないかと期待していたんだ。
タクシーを待たせているからそろそろ戻らなきゃ。
そう自分に言い聞かす。
いつまでもここにいたって仕方がない・・・と。
でも、引き返すタイミングが見つからない。
いや、そもそもどこに引き返せばいいのかが分からなくなった。
度の合っていない眼鏡をかけたようにぼんやりとした意識の中で立ちすくんでいると、プレハブ小屋の陰で動くものがあった。
もしかしたら・・・。
トラ模様の柵を蹴飛ばして近寄ると、地面に突き刺されたストックの先で泥だらけのTシャツが揺れていた。
作業員の誰かが見つけていたずらに立てたのだろうか。
それとも、チヨ子ばあが言ってた神さんとやらが気まぐれに残したのだろうか。
僕はきつく結ばれたシャツの袖を解いた。
その結び目の内側のところだけが、あの時の青色のままだった。
そこだけ、時間が止まったままだった。
僕はこのひと月くらいの間にたくさん泣いた。
色んな人たちと一緒にたくさん泣いた。
僕もみんなも、なんでこんなに泣けるんだろうってくらい。
もう、一生分の涙を流したと思っていた。
だけど・・・。
どれくらいそうしていただろう。
少し離れたところで僕を見守ってくれていた彩奈が、タオル地のハンカチを手渡してくれた。
僕は片手でそれを広げて顔を覆った。
「落ち着いた?」
「うん。もう、大丈夫」
「そっか」
僕が握りしめていたTシャツにそっと手を添える。
「これが清さんって人が作ってくれた旗・・・だよね?」
「そうだよ。これを大きく振って助けを呼んでくれたんだ」
「で、チヨ子おばあちゃんにお尻を蹴られた。フフフ。痛かった?」
「覚えてない。でも、どこかが痛かったような気がする」
「骨が折れてたんだもの。痛いに決まってる」
「そうだね」
「また会えるといいね」
「どこかで見てくれていると思うんだ」
「わたしも会ってみたい」
「きっと会えると思うよ」
「うん」
「信じてくれた?」
「わたしはずっと信じてるよ」
「ありがとう・・・ありがとう」
駅に向かうタクシーの中で少しだけまどろんだ。
短い夢を見た。
ビー、ビ、ビー。
年季の入ったドアフォンを人差し指で強く押す。
ガチャリとドアが開くと、ふんわりと出汁の香りがする。
チヨ子ばあの得意なけんちん汁のいい匂いだ。
「ただいま」
居間に向かって声を掛けると、「おう、お帰り」と茂じいが応える。
上がり框に腰掛けてスニーカーのひもを解こうとすると、直樹が背中に飛びついてきた。
一日中家の中にいるから退屈を持て余していたのだろう。
廊下に上がって直樹を小脇に抱えると、シロが足元にまとわりついてきた。おっと、あやうく転ぶところだった。
右足の爪先でシロのお腹のあたりを突っつくと、親指を甘噛みされた。
シロ、犬歯で噛むのやめろ。けっこう痛いぞ。
部屋に荷物を投げ込んで居間へ向かう。
直樹は無邪気に両手を広げて足をバタつかせながら飛行機のポーズをしているけど、僕の右手は重さに耐えかねてプルプルと震え限界が近い。
茂じいがNHKで相撲中継をみてる横で、清さんは文庫本を読み耽っている。
節子さんとチヨ子ばあが夕ご飯の支度で忙しそうだから、直樹と一緒にお茶碗を出したり箸を並べたりして手伝う。
「できたわよ」
節子さんの丸い声に呼ばれてみんなが食卓の定位置に座る。
清さんの掛け声に合わせて、みんなでいただきまーすと合唱する。
みんなが思い思いに今日の出来事をしゃべりだす。
僕は炊きたてのご飯を頬張りながら、みんなの話をうんうんと聞いている。
食卓には、恋人や家族や仕事仲間や友人たちもいたんだ。
またね。
いつか、どこかで。
<了>
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