読書メモ:茶色の朝 〜区別が生む差別。なかったことにされる違和感に気づこう〜
「今後、茶色以外は認めません。」
「誰しも、茶色のペット以外は飼ってはいけません。」
「破ったものは、処罰します。隠したものも処罰します。」
「あなたの犬は茶色ではないため、殺処分します。」
「ユダヤ人が経営する店に、印をつけます。」
「誰しも、ユダヤ人が経営する店で、売買をしてはなりません。」
「破ったものは、処罰します。」
「ユダヤ人は連行します。」
1つ目は、「茶色の朝」という本から取ってきました。
2つ目は、ホロコーストです。
別の話でしょうか。
同じ話でしょうか。
こんな理不尽がまかり通ることがあるのかと言われれば、往々にしてあるのでしょう。
「野球部は坊主にしなければならない。でなければ、ワガママ。」
「両親には従わなければならない。でなければ、親不孝。」
「年長者は敬わなければならない。でなければ、無礼者。」
「ルールは全員が守らなければならない。でなければ、背反者。」
「社会的弱者は守らなければならない。でなければ、傍観者、加害者だ。」
差別を成立させるために、必要な手順があります。
区別からはじめることです。
先輩-後輩、親-子、年長者-若手、ルール遵守-ルール無視、強者-弱者。
さて、ひとつ事例を取り上げて考えてみましょう。
2023年6月16日、性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律(通称:LGBT理解増進法)が成立しました。
概要は下記です。
この法律も賛否両論ありますが、そこに反応してはならないはずです。
まず、賛否が分かれない議論はありませんし、仮に満場一致だとすれば、それこそ極めて危険です。
とはいえ、「性的指向」「LGBT」「理解」という言葉に違和感は抱きます。
そもそも日本国憲法に、基本的人権っていうものがなかったっけ?という話です。
名は体を表すと言いますが、法律名からはこんなふうに読み取れます。
「昔はなかったけど性的指向やジェンダーアイデンティティが多様になって来たからみんなの理解を進めましょうね。それを通称で、LGBTへの理解を進める法律と呼びますよ」
日本国憲法において、あらゆる差別を禁じているなか、「LGBT」と区別でき得る呼称を設ける必要はあったのだろうか、という違和感です。
さて、冒頭の流れに当てはめてみましょう。
「LGBTの方々を理解するようにしましょう。」
「誰しも、LGBTの方々を差別してはなりません。」
「破ったものは、処罰します。」
「? ? ?」
さぁ、
これがこの先、どうなるかは分かりません。
取り上げたのはひとつの事例です。
外国人労働者などの問題でも同様です。
私個人の考えとしては、理解増進法でも、差別解消法でも、差別禁止法でも、頭に「LGBT」という呼称がつくのであれば、危険に感じます。区別できるからです。
さて、ではどう考えるか、という点においては、区別の特徴を知ることです。
区別は、違いを見つけて分けることです。
では反対に、共通点を見つけて統合すればいいわけです。
LGBTでも男性でも女性でもなく、日本国民。
キリスト教でもユダヤ教でも黒人でも黄色人でも白人でも日本人でもエジプト人でもなく、人類。
共通点をみつけて、全員に当てはまる視点で考えればいいのです。
しかし、現在はこれが難しい。
それは、多様性、という言葉で代表されるように、個人の権利が強くなっているからです。この風潮はまだしばらく続くように感じます。
というより、これ以上弱まることはないかも知れません。
従って、個人と全体のバランスは、益々根深いものになると思います。
しかし、個々人の視点で考えれば、I、You、Weのバランスと言い換えられます。
Iばかりが強くてもワガママです。
Youばかりが強くても自己が成立しません。
なので、Weの視点で考え、意見を持ち、決定し、実直に行動しつづけること。
重ねていえば、
Weのなかに、誰がいるのかを気づくことです。
仕事で「私たち」という言葉が指すのは、
自分と先輩なのか、自分の課なのか部なのか、はたまた自社なのか、自分の業界なのか。
ちょっと話が広がりましたが、茶色の朝を読んで広がった思考をまとめてみました。
本書は、文章量的にはさらっと読めますが、感情的には非常に重たいです。
後ろについているメッセージを受け取り、痛すぎて、本を投げ出したくなりました。
くれぐれも、寝る直前に読んでみるか〜とはしないことをお勧めしておきます。
終戦の日の今日、戦争のことを振り返ると同時に、世界や日本、一個人についても考えを巡らせることができました。よかったです。
2024年8月15日
えだちゃん。
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