私は「私の劣化コピー」を育てたいわけじゃない
私は一応親だから、私が育って来た中で大事だったことを伝えたいという使命感モドキな変な情熱があります。子すずめが現在育っている環境が私が育って来た環境と同一ならば、そういった私の助言も彼女にとってのライフハック技になるかもしれないけれど、子すずめが今現在育っている環境は全くの別物です。(私が高校生の頃の時代観としては、MS-DOSのパソコンで5インチのぺらっぺらなフロッピーディスクで、コード打ち込んでドット画のもぐらたたきゲームを作ったら動いたー!ってことが最先端の頃ですからね)
そんな時代に育った私が助言するとしても、そりゃあ何割かは「普遍的な大切なこと」もあるでしょうが…(そのパーセンテージ、多めであってほしいとは願っているけれど)、悲しいかな「今の時代に大切なこと」ではない確率の方が高い!
なので、子すずめには常々「私は大切だと思うから伝えたいと思って伝えている。でも、受け入れる⇔受け入れないの自由はアナタに帰属する。受け入れるとしてもどれくらいの割合で受け入れて、どれくらいの部分を削ぎ落して受け入れるかという判断は、アナタの自由裁量です」と伝えてきた…つもりです。
子すずめが私の助言を受け入れて黙って従うのであれば、それは子すずめが「私の劣化コピー」になるだけではないか?私は「私の劣化版」を育てたい訳じゃない、「自分の頭で考え、行動する大人」に育て上げたいのだぁーーー!
たとえ、「自分の頭で考え、行動している子すずめ」が、私が思う「理想の子ども像」からかけ離れていて、小生意気でかわいくないと私自身が感じて苛立つことがあったとしても、だ。自分の頭で考えずに従うおとなしい子よりも、自分の頭で考え行動するかわいくない子、上等!
たとえ、自分の頭で考えたものの、その「自分の頭」の性能自体が人生経験が少ないせいで様々な不備があって、そのせいで失敗したとしても、その失敗こそが子の成長の糧となることを祈っています。失敗をその後の糧にして生かすための時間は、私よりも子すずめの方が潤沢に持っているはずです。その子すずめの「人生の持ち時間」の間に、自らの失敗を成仏させてくれーーーと祈念しています。
自分の持ち得るすべてのリソースを総動員した後に間違えた決断をしてしまったのであれば、それはそれで尊いことだ、だっていい年こいた私でさえ判断できずに保留することも多いのだから、「決断したこと」自体、すごいことですから。
…最近、子すずめに説教をコンコンと垂れる機会があったのですが、「その話はなるほど🧐と思うから聞いたけど、これ以上は消化しきれないから別の機会にして」と拒否られました。途中まで説教を受け入れて、自分の受け入れキャパをしめしつつ、親の機嫌やプライドを損ねずに説教を止める技を身に付けてて、「お主、なかなかやるな😎」と思っちゃったよ…ただ、それを言った後に私の目に入る所でYouTubeのライブ配信視聴し始めた時は、ちょっとカッチーンときましたが(私の目の届かぬ場所でYouTube視聴してるのだったら、完璧な「親ころがしの技」だったのに)、しょうがないよ、それは私の度量の狭さの問題だ…
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?