塗り替えられる記憶―ポーランドの国家記銘院が抱える問題点―
文責:魚の理
国家記銘院(Instytut Pamięci Narodowej、通称IPN)はポーランドの政府機関で、近代史の研究や1917~1990年における犯罪調査・告発を目的として設立された。4つのミッションとして第二次世界大戦中や共産主義政権時代にポーランド国民が被った犠牲や損害に関する記憶の保存、ナチスや共産主義者が犯した人権侵害や戦争犯罪を起訴する義務、ポーランド独立に際して行動した市民に関する記憶の啓発、犠牲者への国家賠償を掲げており、犯罪起訴や犠牲者探索、学術研究、アーカイブ、出版等の合計8つの部局を有する。
IPNは1998年に制定された「国家記銘院法」によって設立されたことからも分かるように、時の政権や議会と密接な関係を築いている。実際、総裁は議会の承認によって選出されており、さらに総裁によって運営される評議会は大統領の諮問機関となっている。
国家記銘院が行った有名な調査事例としては、イェドヴァブネ事件が挙げられる(解良 2011)。この事件は1941年7月10日にポーランド東部の街イェドヴァブネで発生したポグロムで、当時はナチスの占領下にあったことから、ショアの一端と見なされてきた。
しかし、2000年5月にユダヤ系ポーランド人のニューヨーク大学教授であったJ・T・グロスが自身の著書において、実行犯をポーランド人と結論付けた。さらに、ポーランド人が率先して虐殺に参加し、ナチスの消滅後もユダヤ人や彼らを匿った同胞を迫害したように、イェドヴァブネ事件はポーランド人社会の反ユダヤ主義によって引き起こされたと主張した。
この本を巡って、絶滅政策の「被害者意識」が強調されやすいポーランド独特の風潮も相まって、歴史家を中心とした論争が喚起された。IPNも同時期に調査を実施しており、同年9月には刑事事件として捜査を開始し、2002年7月には調査結果を公表した。結果としては不起訴となったようだが、同年11月に発行された論文と史料から成る白書によって論争は推移していくことになった。例えば、グロスや1960年代に建てられた記念碑は被害者数を1600人としていたが、被害者が焼き殺された納屋の規模から、IPNは300人程度と推定したりと、強固な「被害者意識」によって顧みられてこなかった事件の真相が議論される上でも、IPNは事件の記憶を揺り動かす存在として重要な役割を担ったと言える。
この事例のように、IPNは負の歴史を解明する使命を帯びていたはずだが、2005年の大統領選挙後には「与党のポピュリスト・ナショナリストにとって有用な道具」(Grabowski 2008)と形容される、右派政権の宣伝機関に成り下がってしまった。例えば、前章で取り上げたイェドヴァブネ事件の論争においても、白書の編集を主導した公教育局長はグロスを批判しつつも負の過去に向き合って歴史認識を改める必要性を訴えていたが、2008年と2011年に再びポグロムに関する議論が展開された際に、IPNは一挙に反グロスの立場を明確にした(解良 2011)。さらに、2018年にポーランド人が絶滅政策に加担したと表現することを禁じる法律が「国家記銘院法の改正」を名目に可決されるなど、IPNはポーランド人の「加害者」としての側面を否定する立場に変化したのである。
無論、このIPNの変容は歴史研究者から批判を浴びている。Jan GrabowskiはIPNの印象について史学者へのインタビューを重ねていたが、なかでも当時IPNに勤務していた匿名の研究者は「戦時中にポーランド人がユダヤ人を助けた例を記録しなければならないという圧力に晒された」と語り、被害者史観に沿わない研究が難しくなるほどまでに学問の自由が侵害されている実態を明らかにした(Grabowski 2008)。
IPNが学術機関としての独立性を失ったのは、組織の運営が政権や議会に握られているためだと考えられる。総裁の選出や評議会の運営が大統領や議会によって決められる以上、両義的記憶の否定が政権の目玉となれば、IPNがそれを公的記憶として流布する立場に追いやられるのも想像に難くない。日本においても、日本学術会議の任命拒否問題などで政府が学問や歴史に積極的に介入する姿勢が見受けられるようになったが、ポーランドの事例は歴史研究と政治イデオロギーの距離感が時に記憶の封殺へと繋がることを示したと言えよう。
参考文献
Institute of National Remembrance
https://ipn.gov.pl/en/
解良澄雄, 2011,「ホロコーストと「普通の」ポーランド人-1941 年 7 月イェドヴァブネ・ユダヤ人虐殺事件をめぐる現代ポーランドの論争-」『現代史研究』(57):69-85.
Grabowski, Jan, 2008, Rewriting the History of Polish-Jewish Relations in Yad Vashem Studies. (36):1-17.