怯える陽炎

文責:特命詩人


 京王線新宿のプラットフォームに電車が滑り込む頃、夢見心地な私の意識を覚醒したのは車掌の声であった。

「中央線快速電車は、新宿駅での人身事故により、運転を見合わせています」

 たった今降りたたんとする場所の数m先で起きた惨劇を前に、目に映ったのは降車ホームの人混みであった。ラッシュ時間帯に上下線が混む京王線を尻目に身体は中央線のホームへと向かった。私の帰り道であるからだろうか、死んだ魚の目をした私は東京方面のホームに誘われた。

 「電車がまいります」が点滅しているが、一向に気配はない。事故は快速線の下りで起きたらしい。特急列車に挟まれて目には見えないが、笛を吹く音が聞こえる。警戒線でも貼ったのだろうか。

 某大型書店にいざゆかんと心が決めたとき、新南口改札へ向かう。事故があったらしいホームの階段に駅員が立っている。混雑する人々の間を救急隊員が走る。階段の前には担架が置かれている。

 ふと思う、SNSが普及した時代に人身事故の写真が上がらないのはなぜだろうか。承認と顕示が渦巻くインターネットでは遠い世界の悲劇を見つけるのは容易い。しかし身近な惨劇はすぐに蓋をされてしまう。ブルーシートで隔たれた空間は一種のアジールとなり、我々の狂った認識を遠ざける。

 改札を出るとみえる、南口には消防車と救急車が集う。その前で歌うことに命をかけている人がいた。2名の路上絶唱と紅のサイレンが織りなすコントラスト。悪くないと微笑むのが理想なのだろうけど、人の波に逆らうのに必死で、意識はするが判断のない状態で歩を進めていた。

 誰も得しない、惨事便乗型資本主義のような書き殴りを掲示しているのは、憤怒に駆られているからである。素面を抑えきれない感情は、鉄道の混雑に向けられている。それも満員電車ではない、プラットフォームである。

 人身事故の発生事由の一つには、ホーム上の混雑がある。事故のあった中央線のホームは朝から晩まで人で満たされている。ホームが大して広くないわけだから、移動には黄色い線の外側を歩かないといけない。するとどうだろう、けたたましい警笛と人混み特有の緩い空気にホームは満たされる。その間隙に身体は物体と同一化を試みる。無論、その企ては悍ましい事態へとつながるのだが。

 ポストコロナというにふさわしい最近は人流抑制が死語になるほどラッシュが戻ってきた。60年代における首都圏国電の混雑率と比べれば、だから若者は軟弱なんだとばかりに叱り飛ばされるほど電車は空いてきている。

 でも、私は警笛や接触への恐怖に怯えながら仕事に向かいたくはない。席に座れないのは仕方ないとして、溢れんばかりの人混みを避けて綱渡りするスリルを毎日味わうのはごめんである。

 さあ陽炎は燃えて尽きた。二度目の旅を始めるため、私は警笛の鳴り響く一瞬の光を見た。

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