ノア・スミス「自由民主主義はこんな風に21世紀を失うかもしれない」(2024年5月22日)
情報と自由に関するちょっとゾッとするささやかな理論
自由主義が勝利の凱歌をあげている時代に,ぼくは育った.自由民主主義が勝利して,20世紀をわがものにした――帝国主義もファシズムも共産主義もみんな崩壊して,20世紀末には,アメリカとアジア・欧州の民主主義同盟国が経済面でも軍事面でも上り調子だった.中国ですら,依然として独裁国家ではありつつも,この時期に経済と社会の一部を自由化した.フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』に鼻白んだ学者たちも,総じて,資本主義および/あるいは自由民主制が平和・幸福・繁栄を育んだという主張に好意的だった.「勝利したのは他でもなく自由だ」という感覚が,圧倒的に強かった――思っていることを語る自由,好きなように生きる自由,のぞむままに売り買いする自由こそが勝利したんだという感覚が大勢を占めていた.
それからほんの20年後のいま,「自由こそが勝者」という考えは,深い疑いを向けられている.民主化と社会の自由化をすすめてきた波は,逆転した.アメリカは社会と政治の混沌で分裂しているし,その製造業と住宅建設の弱さはすっかり露呈している.一方,21世紀前半の超権力として上り調子にある中国はといえば,習近平のもとでもっと統制の強い経済ともっと全体主義的な社会の方へ揺り戻している.
近頃は,ぼくの知り合いで中国に行った人たちの多くが,目をきらきらさせて口々にこう言ってる.「アメリカに比べて,中国のなんて素晴らしいことか」
でも,ここでは中国に首ったけにならないでおこう.不動産バブル崩壊で大事な貯蓄をすっかり失ってしまった普通の中国人たちの多くは「そうだね」と同意しないだろうし,中国を逃れ安寧の地を求めてアメリカに来た人たちも,また違う意見をもっているかもしれない.まばゆいばかりの新設ショッピングモールや電車の駅も,たんに資本償却サイクルのはじまりにあるのかもしれない.中国製のアプリやガジェットだって,競合を技術面で一足飛びに凌駕してはやがてふたたび一足飛びに追い越しかえされるパターンかもしれない.高速鉄道は,多くの地域でリソースの無駄遣いだったと判明するかもしれない.いちばん楽観的な尺度で見ても,中国の豊かさはいまだにアメリカの 30% でしかないことは,ぜひとも思い出そう.
とはいえ,中国各地の都市の方が,サンフランシスコやニューヨークシティよりもずっと清潔で安全だって点は疑いようもない.それに,中国は電気自動車やバッテリーやコンピュータチップを大量生産できる一方で,アメリカが同じことを出来るかというと,それはこれからの課題だったりする.中国は自国の人たちに住居を豊富に提供できる(ときに豊富すぎたりもする)けれど,かたやアメリカは慢性の住宅不足に苦しんでいる.グリーンエネルギーへの転換でも中国はアメリカをやすやすと打ち負かしている.それに,中国の強みは製造業にかぎられない―― TikTok は出来がよすぎる上に中毒性もありすぎて,アメリカ国内製のショート動画サービスは自国市場でも TikTok に負けている.
そして,アメリカのいろんな困難は記述にこと欠かないけれど,その自由民主主義の同盟国といえば,いっそう悪い状態にある.他方で,中国は同盟国の強力なネットワークを築きつつある――ロシア,イラン,北朝鮮といった国々だ.「独裁体制は協調できない」という考えは,この現実に打ち破られている.いまや,中国が形成しつつある連合は,すでに西側を軍事力で上回っているかもしれない.政治体制についての結論を導くにはあまりに時期尚早すぎるものの,バイデンが数々の成功を収めていながらもトランプが大統領に返り咲きかねないという現状は,多くの失策を重ねながらも習近平の支配が安定していることと好対照を見せている.
中国の体制が優越しているとはまだ証明されていないけれど,中国が収めているさまざまな成功を見るにつけ,居心地の悪い問いが浮かび上がってくる:「これが勝者になりうるのでは?」 もしかして,国民総監視体制,言論統制,宗教やマイノリティの抑圧,経済の指令・統制が,21世紀に国の力と安定をもたらすカギになりうるんじゃないだろうか?
「いやいや,そんなもん,20世紀にまるまる全面的に失敗したじゃないか.そんな話が正しいわけある?」
ぼくにはわからない.ただ,全体主義がどんな風に21世紀の世界によく適合しているかもしれなくて,そこにはどんな理由があるのかってことは考えておくと役に立つ.というか,これのどこがどう正しいかもしれないのかって理論が,ぼくにはある.この理論はただの推測でしかない――かくいうぼくも信じてはいないけれど,「この理論はまちがいだ」と自分を納得させられずにいるのも事実なんだ.これは,これまでに書いたことの一部を敷衍して洗練させた理論だけど,これまでの考えを醸成して時間をかけてじょじょにもっとまとまったかたちに仕立てはじめている.
というわけで,今回のお話:どんな風に全体主義が必然的に勝利するかもしれないかという理論を語ろう.考えの骨子は次のとおり――「情報のコストが嵩むときには,自由民主主義が勝利する.なぜなら,閉じた社会に比べてこの体制の方が情報をより多くより上手に集めるからだ.でも,情報が安価なときには,マイナス・サムの情報トーナメントに奪われる自由民主主義社会のリソースの割合がますます増えていく.」 繰り返すけど,ぼくもこの理論を信じてはいない.ただ,これをしっかりしたかたちにまとめようと試みてるだけだ.
情報集約装置としての自由民主主義
まずは,フリードリッヒ・ハイエクから話をはじめよう.資本主義経済が指令経済よりも効率よく機能する理由について,ハイエクは理論を考えた.ハイエクの理論は,とにかく情報集約を重視していた.ひとことで言えば,ハイエクの見立てでは,かぎりある稀少な生産リソースのもとでできるかぎり人々にそれぞれがのぞむものをもたらすことこそが,経済の機能だった.自分の求めるものについても,生産リソースを効率的に使う方法についても,人々が手にしている情報は中央の計画者よりも多い.市場の機能は,あちこちにちょびっとずつ分散しているそういう有用な知識を集約して,生産に関わる意思決定によりよい情報をもたらすことにある――これが,ハイエクの主張だった.
市場がどうやってこれをやっているかというと,それは価格なのだとハイエクは考えた.価格は情報だ.溶鉱炉での製鉄は高くつくのに対して電気アーク炉での製鉄は安上がりだとしたら,そこから,電気アーク炉のテクノロジーでの生産を増やして溶鉱炉での生産を減らした方がいいと製鉄会社はわかる.ブロッコリは高くてカリフラワーは安いのだったら,そこから,ブロッコリの生産を増やしてカリフラワーの生産を減らすべきだと農家はわかる.他も同様だ.計画経済だと,情報の乏しい中央計画者は「溶鉱炉は完璧だしカリフラワーは最高だ.ついては,どちらももっと利用しよう」と誤って判断してしまうかもしれない.
あるいは,これをミームで表すなら:
さて,いまの論証は資本主義を――経済自由主義を――支持するだけの論証であって,民主主義や社会的自由主義を支持するものじゃない.でも,代議制民主主義もまた情報集約の仕組みだと考えるのは難しくない――つまり,代議制民主主義は,ただ人々に自分たちの指導者を選ばせることによって,自分たちがのぞむものをつきとめてそれを政策のかたちにする方法なのだと考えるのは,難しくない.それに,言論の自由も,情報集約の仕組みだと考えるのに苦労しない――あれも,「アイディアの市場」をとおして人々が考えていることをつきとめる方法なんだと考えられる.
代議制民主主義も言論の自由も,情報集約の完璧に効率的な方法というわけじゃないけれど,専制君主だか独裁者だかが自分の身内にばかり耳を貸す社会や,政府プロパガンダと検閲が人々の論議を管理する社会や,一握りのエリートどうしが舞台裏で権力闘争を繰り広げることで指導者が選ばれる社会よりも,きっとずっと多くの情報を集約するはずだ.
自由民主制の有効性を支持する理論上の仕組みは,情報の集約だけじゃない.他にも,包摂性の理論がある――「自由民主制の方が,人々が社会で所有の感覚をより強く持てるので,そのおかげで体制の支持が強化される」という理論だ.さらに三つ目の理論を挙げると,公共財にもとづく理論もある――専制に比べて,民主制では,指導者が満足させるべき有権者は広範にわたるという理論だ.他にも,いろんな理論がある.そういう理論をべつに無視してすませたり,否定したり,見下したりするつもりはない.ただ,頭の体操のつもりで,ここでは「情報集約こそが自由民主制の主な強みだ」という考えで通してみて,それでどんな結論にたどり着くかを見てみよう.
経済学者たちは,ハイエクの提示した考えをとても真剣に受け止めてる.ハイエクの重要な著作が世に出てからの数十年というもの,情報集約の経済学については大量の理論化がなされてきた.その研究文献のなかでとくに重要な2つの論文が,Grossman & Stiglitz (1980) と,Hirshleifer (1971) だ.どちらも,金融資産の選別の経済学を取り扱っている――ようするに,どの株を選ぶかって問題を取り扱ってる.でも,それぞれのモデルで基礎となっている仮定がちがっているので,両者がたどりついた結論はほぼ真逆だ.
かいつまんで言うと,Grossman & Stiglitz の研究では,個別の株式の価値に関する情報にかかるコストは高いと仮定している.とある会社の株に払うべき適正な価格をつきとめるためには,その会社にどれくらいの価値があるのかを実際に誰かがつきとめなくちゃいけなくて,それには時間と労力がかかる.かりに株式市場が完璧に効率的だったとしたら――株価をぱっと見れば「この株式の価値はこれくらい」とわかるのだったら――そもそも情報収集なんて骨折りをする人は誰もいないだろう.だから,市場は効率的ではありえない.価格が長期的なファンダメンタルの価値を反映するためには,誰かが情報を収集してそれを使って価格の誤りを正すことによって短期的にお金を稼げないといけない.
他方で,Hirshleifer の研究では,ファンダメンタルズに関する情報はやがておのずと明るみに出ると仮定されている.どこかの会社がどれくらい上手くいくのか,座して様子を見ていれば,その株式にどれくらい払えばいいか誰にでもわかる,というわけだ.でも,その一方で,自分から動いてあらかじめその情報をつきとめた人には大きな個人的見返りが入ってくるとも仮定されている.というのも,当該の情報が知れ渡る前に,その人は一時的な価格の落差を利用できるはずだからだ.こうして,お互いにみんなを出し抜こうと競い合う大勢の投資家たちのあいだでトーナメントが繰り広げられる.その努力は無駄になる.その情報はいずれおのずと明らかになったはずだからだ.
Grossman & Stiglitz (1980) と Hirshleifer (1971) がそれぞれに描き出している世界は,まるっきりちがっている――情報にコストがかかる世界と情報が安価な世界という対照的な2つの世界だ.情報にコストがかかる世界では,情報集約コストを下げるどんなものでも,その集約をするやつの効率を――この場合には株式市場の効率を――上げる.でも,情報が安価な世界では,その情報をめぐる競争によって無駄が生まれ,市場の効率は落ちる.
というわけで,自由民主制は,主に情報集約の仕組みがいくつも集まってできているのだとしたら,この2本の論文を比喩として利用して,2つのまるで異なる世界を想像できる――情報にコストがかかる世界と,情報が安価な世界を想像できる.情報にコストがかかる世界では,自由市場・言論の自由・選挙といった自由の制度によって,情報のコストが下がり,最終的に社会に生じる結果は効率的になる.他方で,情報が安上がりな世界では,トーナメント効果が優勢になる――つまり,情報の私的なコントロールをめぐるコスト高で無駄が多いマイナスサム競争が優勢になる.
つまり,ささやかながらも恐るべき推測では,情報がより安上がりになるにつれて,各種の自由な情報集約制度はだんだん役に立たなくなっていく一方で,全体主義的な情報統制は負債から資産へと変貌していく.なぜなら,全体主義的な情報統制は無駄なトーナメントを制限するからだ.
この推測を具体的に詰めてみて,今日のいろんな問題の一部に当てはめてみよう.
金融資本主義における情報トーナメント?
Hirshleifer (1971) と Grossman & Stiglitz (1980) を応用しようというとき,すぐに思い浮かぶ選択肢は……当の論文が説明しようと意図されている対象,すなわち株式市場だ.
1940年代から1980年代前半にかけて,アメリカの金融業は企業利益の約10%~12% を占めていた. GDP 全体では 4% ほどだ.今日,その数字は 30% と 8% になっている.トーマス・フィリッポンが示しているように,金融業のコスト上昇と収益性向上のかなりの割合が,資産管理からきている――ようするに,どの株式・債券・住宅・暗号通貨などなどを選んでアメリカ人の財産を割り当てる仕事だ.株式の選別に費やすリソースはいっそう増えてきている.アメリカの最優秀層のものすごい割合が,この部門に吸収されている――金融危機から20年経とうとしているいまですら,ハーバードとプリンストンの卒業生のうち 40% 近くが金融かコンサルティング業に進む.
資産選別にこれほど大量のリソースを割り当てていることで,経済のいろんな結果がよくなっているのかというと,きわめて疑わしい――リソースの割り当てが多過ぎなのか,少な過ぎなのか,それともちょうどいいのかをめぐって,経済学者たちは甲論乙駁を続けている.アジアや欧州の他の豊かな国々とくらべてアメリカの経済成長は持続している背景には,資本を銀行よりも市場により多く割り当てているという事情が少なくとも一役は買っている可能性がある.ただ,かりにそうだとしても,だからといってアメリカ人が払っているコストの増大に見合うだけの効率の向上があるという証明にはならない――GDP の 8% は巨額だよ.デンマークとスウェーデンもアメリカと同様の生産性水準を達成しているけれど,金融に費やしているのは GDP の 5% 未満だ.アメリカは,Hirshleifer型トーナメントに最優秀層の人材を無駄遣いしているんだろうか?
中国について考えてみよう.いまでも中国はアメリカに比べてずっと貧しい.だから,両者の効率を直接に比べるのは難しい.中国には,大量の資本の不適正割り当てがなされている事例が山ほどある――そのなかでも最重要な事例が,いま進行中の不動産崩壊だ.中国で売れ残った電気自動車の過剰供給も,不適正割り当ての一例にあたる.ただし,これがもっと技術的に進んだ利益の上がる産業に向かう途上の足がかりなのかどうかは,今後の展開を見ないとわからない.
そのうえで,電気自動車業界における中国の旗艦企業 BYD とアメリカの旗艦企業テスラとを比べてみよう.両社の売り上げはだいたい同等で,世界の二大製造企業と広く目されている.でも,それぞれの企業をつくるのに必要とされた金融インプットは大きくちがっている.テスラが成長するには――安価な政府系融資を大量に受ける初期局面が終わると――アメリカでいちばんきらびやかな実業家スターであるイーロン・マスクの人並み外れた売り込み努力が必要だった.テスラの「モデル3」はやがてものすごい成功を収めたものの,この自動車を生産する資本コストによって,テスラは倒産の間際にまで追い込まれた.マスクは絶え間なく広く人々から資金調達を続けざるを得なくなってしまった.Twitter にものすごい時間を費やしてるのも,その一環だ――あれで,マスクはちょっとばかりおかしくなってしまったとは言えるだろう.資金調達の工夫に彼はものすごく相違を発揮しなくてはいけなかった.たとえ,自分が手がけている事業どうしがいくらか共食いになってでもね.それでいて,はたしてテスラの生産の多くを中国に移さずにこの努力が成功したかというと,そこは定かじゃない.
これと対照的に,BYD は資金調達に四苦八苦してのたうち回らなくてよかった.何度もすごく厳しい局面をくぐり抜けてこそきたものの,BYD は中国の国家統制下にある銀行から気前いい資金を得られたし,助成金を受けることも多かった.いまや,BYD は売り上げ規模でテスラと互角だし,おそらく技術面でも匹敵している.
だからといって,アメリカに比べて中国の方が低いコストで市場を先導する EV の巨人を産み出したということにはならない――さまざまなコスト全体を数え入れるなら,自動車産業だけでなく,あらゆる産業に目を向けなくちゃいけないだろう.というのも,あらゆる企業が,資本を求めてお互いに競合しているからだ.これは,いまの研究の射程を超えているし,ましてブログ記事で扱える射程を遙かに超えてしまう.ただ,自分がいずれ成功すると市場を納得させるためにテスラの方がこれほど苦労したということから,アメリカの制度は資産選別にお金を出しすぎてる可能性がうかがえる.
もちろん,テスラの場合,情報トーナメントは Hirshleifer (1971) 型のものじゃなかった.ヘッジファンド・マネージャーたちが「この企業はどれくらいイイのか」を最初に見極めようと競い合ってるタイプの情報トーナメントとはちがった――ヘッジファンドじゃなく,イーロン・マスクが,資本を求めている他の人たちをまるごと押しのけて,さらには「テスラはじきに倒産する」と考えていたショートセラーたちを退けるべく,大声を張り上げて資金調達に稀少な時間と労力を注ぎ込んだ.
この例から,稀少なタイミングをめぐる過剰競争のアイディアを,さらに広めて稀少な注意をめぐる過剰競争にまで一般化するべきなのがうかがえる.実のところ,この話題を扱ったゲーム理論の論文は見つけられていない(きっと,ぼくが使った検索語がよくなかっただけだと思う.誰かゲーム理論の研究者に尋ねてみるべきなんだろうね).ただ,こういうモデルがどう機能するかは,想像に難くない.出資を求めて競合している人たちが何人かいて,その人たちに自分の投資資本をどう割り当てたらいいか選ぼうとしてる意志決定者がいたとしよう.出資を求めてる人たちはそれぞれに「自分こそがより大きなリターンを提供できる」と主張している.意志決定者が処理できる情報の量はごくかぎられていると仮定しよう.すると,「我にこそ」と意志決定者の注意を引こうという要求に割くリソースが多くなればなるほど,自分が出資を得られる確率が高くなる.これによって,いかにして Hirshleifer (1971) のような非効率な均衡が生じるかは,ごくかんたんにわかるはずだ.この状況では,誰も彼もが大声で注意を引こうとしすぎてしまう.
選挙政治における情報トーナメント?
さて,このモデルを応用して,自由民主制のさらに別の部分に当てはめてみよう:その部分とは,選挙だ.アメリカの政治家たちが手持ちの時間の多くを統治ではなく当選のための選挙戦に費やしている点については,証拠がたっぷりある.そうした時間の多くは,キャンペーンでの広報に使う資金を調達するのに費やされている.合衆国下院議会の議員たちは誰もが2年ごとに再選に出馬する.これにともなって,選挙資金調達の継続的なサイクルが必要になる.次の下院議員を目指して出馬する候補たちは,毎日4時間を資金調達に充てるよう助言されている.別の推計では,「週に30時間」という数字が出ている.
週に30時間って! 口あんぐりの数字じゃないか――フルタイムの仕事とほとんど変わらない.その週30時間は,議員が国の統治に費やすこともできた時間から直接に回されてるわけだ.これもまた情報トーナメントだ――当選できる議員は一人きりだけど,対立候補を選挙戦で圧倒するのにより多くのリソースを注ぎ込むインセンティブが候補者たち全員にはたらいてる.
その結果として,実際に合衆国を統治する仕事の多くは――法案を書いたり,法案を読んだり,とるべき政策の立場について考えたりなどなどの仕事は――政治家たち当人じゃなくて職員たちによってなされている.1960年代の日本では,「政治家は君臨し,官僚が支配する」なんてことが言われていた.アメリカでは,選挙で選ばれた政治家たちはたんに君臨するだけで,職員たちが支配してると言っても,そう無茶な誇張じゃない.
これによって,アメリカの政府には独特な年齢構成パターンが生じている.絶え間なく資金調達と選挙活動に駆け回る必要があるといっても,公職での在任期間が長くなると,その必要が薄まっていく――20年以上公職にある政治家たちは知名度も各種の人脈もあるおかげで,資金調達と再選が容易になる.それで,アメリカの議会はますます長老支配が強まっているんだ.他方で,実際の統治をするのは20代後半の職員たちだ.こうして,いちばん働き盛りの年代に――30代と40代に――議会で議席を得る人たちが顕著に乏しくなっている.どぶ板選挙にはげむのは老人たちばかりで,若者たちは法律を書いてる.
「アメリカの立法府は完全に機能不全を起こしてる」と一般に見られている理由も,議会の支持率がアメリカ国内のどんな制度よりも低くなっている理由も,これだけじゃない.拒否権を発動できるポイントがいくつもあって,なかでも,議事進行の妨害と債務の天井の2つは強力だ.そうした拒否権発動ポイントは,立法を立ち往生させるのに一役買っている.でも,アメリカの平均的な議員はようするに資金調達に奔走してる人物にすぎないって事実は,機能不全の無能な国をつくりあげるレシピのように思える.
中国の指導者たちは民主的に選ばれていない.おそらくはそのために,人々のいろんな望み・優先事項を集約するのはもっと下手だ.でも,少なくとも,中国のシステムによって支配者たちは実際の支配の仕事に割ける時間がずっと多いのかもしれない.
ソーシャルメディアでの情報トーナメント?
最後に,情報トーナメントの考えを表現の自由に当てはめてみよう――自由民主制で「アイディアの市場」を機能させると考えられている言論の自由,報道の自由,集会の自由などなどに情報トーナメントを応用してみよう.ごく最近の選挙サイクルの成り行きで世論がどう動いてきたかじっくり見ていた人ならきっと気づいてるはずだけど,国民は経済に関する基本的な事実をいくつも誤解してる:
情報がかつてなく安価で豊富になっているにもかかわらずこういう風に誤情報が広まってることを,この状況を観察してる人たちの多くが嘆いている:
でも,情報が豊富にあふれかえっていることこそが,誤解が広まる原因だとしたら,どうだろう? そういう「情報」のなかには,めちゃくちゃたくさんの誤情報が含まれてる――そのなかには,事情を十分に知らないままに悪気なく拡散されている誤情報もあるけれど,多くの誤情報は政治的な党派によって拡散されているし,外国政府によって拡散されているものもある.
誤情報は事実ではなくてかまわないので――とにかく人々の先入見にぴったり合致したり党派的な目的にかなっていたりすればいいので――事実にあった情報よりもずっと低いコストで生産できる.ぼくとしては,ここで昔からの引用句を引きたくなる――「真実がブーツを履き終えるのも待たずに,嘘は地球を半周してしまえる.」 つまり,なにかのデタラメをどれか一つでも反駁しているあいだに,バカやウソつきはもっともらしく聞こえる虚偽をどんどんつくりだせてしまうわけだよ.これは理論上だけの話じゃなくって,実際に,ソーシャルメディアで誤情報は事実情報よりもずっと迅速に拡散することを示した研究がある.
もちろん,そこらにあるたわごとの大半を反駁していくのは,可能だ――とにかく莫大な量の時間と労力を投入してやれば,できなくはない.アメリカでとびきり賢い人たちのなかには,事実上,Twitter でたわごとと戦う志願兵になってる人たちがいる.圧倒的物量のたわごとを人々が信じてしまうのを止めようと勇敢に戦う――そしてたびたび失敗する――志願兵としての活動にパートタイムで挑んでいる.なかには,フルタイムでいそしんでいる Twitter 戦士すらいる.これもまた情報トーナメントの一種に見える――膨大なリソースと才能と時間を無駄遣いするトーナメントだ.
その一方で,中国の閉じた情報生態系ではいろんな重要な視点を人々に気づかせるのがうまくできない点は疑いようもない――たとえば,コロナウイルス対策でえんえんと続く都市封鎖(ロックダウン)に抗議する「白紙革命」が2022年に起きたことに,中国の指導者たちは面食らったようだ.ただ,そんな風に〔いろんな視点に気づかせる情報集約の〕力量が下回っている一方で,そこにかかっているコストもずっと低いのかもしれない.この10年というもの,アメリカ社会は,いつ終わるともなく誰も彼もが声を上げるのを競い合う状況にあるけれど,中国社会はまだそこに達してはいない.中国の人たちは,このところ,疲れ果てているのかもしれないけれど,それは政治状況ではなくて仕事による疲弊だ.
情報が安価な時代における自由民主制の失敗を解き明かす統一理論
こういうありとあらゆる事例について考えていくと,20世紀への適合具合に比べて21世紀への自由民主制の適合具合がはるかに劣っているかもしれない事情について,一般理論の素描ができる.情報技術が発展してきたおかげで情報集約にかかるコストが下がっていって,ついには,自由のいろんな制度の長所がすっかり薄まってしまっているかもしれない水準に達したのかもしれない――もはや,市場や選挙や表現の自由といった制度の長所がすっかり減衰しているのかもしれない.ある時点で,こうした長所は情報トーナメントにかかるコストをずっと下回るかもしれない――避けがたく声を張り上げあうマイナスサム競争,誤情報,選挙キャンペーン,政治資金調達,金融面での競争といったコストが,アメリカ人の過ごす時間に占める割合をどんどん大きくしていって,自由のいろんな制度の長所をずっと上回ってしまっているかもしれない.
こんな風に言ってもいいだろう――「中国がどんどん車を製造している一方で,アメリカ人はトランスのスポーツ選手について侃々諤々の議論をしてる.」「中国が潜水艦を次々に建造してる一方で,アメリカ人は虚偽の経済統計を反駁するのに時間を費やしてる.」「中国が鉄道を建設している一方で,アメリカ人は選挙戦の資金調達に奔走してる」――などなど.さらに,アメリカが発明したインターネットのおかげで,中国の指導者たちは,まだまだ劣悪とはいえそんなにデタラメでもない理解をえられる.どんな製品をつくったらいいのか,どの政策を実施すればいいのかといったことについて,毛沢東主義やスターリン主義に連なる先達たちよりもずっとマシな理解をできている.
あらためて言っておくと,この理論は推測でしかなくって,真実を断定してるわけじゃない.それに,あまり有用でもない――情報が安価な時代に社会を組織する方法として自由民主制がいちばん効果的ではないなら,ぼくが親しんで愛している個人の自由は落ち目になる.大きな技術変化が起きると,あるシステムがそっくり別のシステムにおきかわってしまうことも,ときにある――農業によって狩猟採集民の部族はあらかた終わりを迎えたし,工業化によって君主制はあらかた終わりを迎えた,などなど.もしも情報時代の進展で自由主義が時代遅れになっているのだとしたら,すごく暗い時代に入ろうとしていることになるし,それに対してぼくらができることはあまりない.
ただ,こうやって生煮えのいまいち理路整然としてないブログ記事が一本書けたからってだけで,この理論を事実として受け入れるべきじゃない.自由民主制のために戦い続けるべきだし,技術と人間の性質には自由民主制が継続して勝利する余地があるというのぞみをもちつづけるべきだ.情報トーナメントによってぼくらの時代が解体されてしまうのを防ぐためにいろんな制度を改良しようと試みるべきだ――大型融資の行き過ぎを抑制したり,議員たちがもっと統治に時間を使えるように選挙戦の支出を制限したり,長期的で高リスクなハイテクプロジェクトにもっと資本を差し向けたりといった試みをするべきだ.20世紀に有していたいろんな長所を自由主義はいまも保っているかもしれないし,なくしているかもしれない.ただ,どちらにしても,戦いもせずに自由主義を手放してしまうべきじゃない.
[Noah Smith, "How liberal democracy might lose the 21st century," Noahpinion, May 22, 2024]
〔翻訳者:OPTICAL_FROG〕