ノア・スミス「反ネオリベラリズムじゃ足りない」(2024年8月29日)
悪者叩きは,ものになる新しい政策プログラムの代替にはならないよ
マット・イグレシアスが「ネオリベラリズムとその敵たち」について記事を連載している.ぜんぶ通して読むのをぜひおすすめしたい.その第1部で,イグレシアスはこう論じている――1980年代に「ネオリベラリズム」への劇的な転換が起きたと広く信じられているものの,実態ははるかに限定的で,反経済成長の NIMBY志向〔「うんうんゴミ処理場は必要だよね,でもうちの地域には作っちゃダメだよ」〕の台頭の方がよほど影響が大きかった.第2部では,貿易保護主義はアメリカがその中国に対抗する軍事的な能力を保持する助けとして役立ちうるものの,人々の生活水準には総じて打撃となることを論じている.第3部では,反ネオリベラルの人たちが思っているよりもその所得再分配はずっとうまくいっているので,放棄すべきじゃないと論じている.そして第4部では,みんながネオリベラリズムのせいにしているいろんな問題の多くは,実のところ,大不況後の総需要不足の問題でしかないと論じている.
ここにはいい論点がたくさんある.イグレシアスの主張には賛成する点もいくつかある(とくにNIMBY志向が有害だって主張と,再分配が有用だって主張には賛成).他方,賛成しない論点もある.ただ,どれもみんな一読の値打ちがある.ただ,今日の記事では,マットの論点をひととおり検討してひとつずつ反応するのはやめておいて,ネオリベラリズムについてぼく自身が考えをいくらか述べたい――さらに,もっと大事なこととして,ネオリベラリズムの拒絶というスタイルをとる進歩派の経済パラダイムについて論じたい.
ネオリベラリズムは,一揃いの政策としてよりも,考えを組み立てる原理としていっそう重要だった
マットがすごく正しく捕らえてる点はこれだと思う――お手軽な歴史語り〔「レーガンとサッチャーがどうの,規制緩和がなんとかかんとか」〕を聞いているとアメリカの政策においてネオリベラリズムへの転換がとても劇的だったと思わされてしまうけれど,実際にはそれほど劇的なものじゃなかった.だいたいどこの反ネオリベラリズム宣言を読んでみても,同じ教義を繰り返し語ってる.「20世紀後半にアメリカは低税率・規制緩和・より小さな政府へと――総じて自由市場へと――方向転換し,格差は拡大,労働階級にとって全般的に状態は悪化した.」
でも,それってホントかな? そんなことが実際に起きたの? いくつかの点では――関税引き下げ,労働組合の弱体化,金融産業の規制緩和に関しては――この物語は事実と合致してる.でも,多くの点で,際限もなく繰り返し力説されてるこのお手軽な歴史語りは,実態をとらえない戯画になっている.この点については,2年前に記事を書いた(日本語記事).
一例として,税をとりあげよう.最上位層の税率は引き下げられたけれど,実際に富裕層が所得から税金に払っている金額は,その期間をとおして大して減っていない:
(そう,州や地方自治体の税金を加味しても同じだよ.)
他方で,イグレシアスが述べているように,アメリカの福祉国家は,その「ネオリベラル」時代に大きくなっている.しかも,2008年危機の前からだ:
再分配が増えた結果,貧困は大幅に減った.たしかに格差は広がったけれど,主要な指標を見てみんなが考えるほどには大きくない.戦後すぐの時代に比べればちょっとばかり緩慢ではあったけれど,所得中央値は伸び続けた.
そして,金融業界などで規制緩和はあったし注目を集めたけれど,ネオリベラル時代に全体として規制は増え続けた.
そのうえで言うと,1970年代後半から1990年代にかけて経済思考と政策立案に起きた転換は重大だったと思う.「ネオリベラリズム」という単語はげんなりするほど多用されすぎているしちょっとばかり高尚ぶった響きもするけれど,おそらく,この転換を言い表すのにいちばんいい呼び名だと思う.
基本的に,いろんな経済パラダイムは,実際の政策を並べたリストよりも政策についての考え方としていっそう重要だと思う.政策のいろんな考えは,どこからともなく出てくるわけじゃない――シンクタンク職員や作家や学者が,どうにかしてアイディアをひねり出すしかない.そして,「ネオリベラリズム」みたいなパラダイムは,そういうアイディアの源泉になる.「政府による経済への介入はよくないことで,特定の十分に限定された例外状況でのみ許される」みたいな一般的な命題を受け入れたら,こう考えはじめる.「ううむ,政府を制限することでアメリカを助けられる方法にはどんなものがあるだろう?」 こうして,ブレインストーミングが手引きされて,関税引き下げや福祉国家の簡素化や特定産業の規制緩和や汚染禁止に代わる排出権取引といったアイディアへと思考が向かっていくわけだ.
そして,いっそう大事な点として,アイディアを形成する際に,〔ネオリベラリズムの枠組みをとることで〕政府が手がける物事の範囲を間違いなく広げそうなことを埒外に置き去るようになる.たとえば,その昔の2002年ごろに太陽光発電や電気自動車を推進する積極的な産業政策をアメリカがもっとやっていればよかったかもしれないけれど,そんなことを提案する人はほんのわずかしかいなかった――べつに,このアイディアが実地に試されて「ダメだ」と却下されていたわけではないし,まして,基本的に「ネオリベラル」な仮定のもとでそういう産業政策を理論的に主張するのが難しいせいでもない [n.1].そうじゃなくて,新しい産業の成長に政府が中心的役割を果たせるなんて考えは,「どうすれば政府に物事の邪魔をさせないでおけるか」っていう当時の人気パラダイムとそりが合わなかったからだ.グリーン産業政策なんて,あのネオリベラル時代にはあまりに突拍子もなさ過ぎたんだよ.
また,この原則はアイディアの形成だけでなく門衛〔選別〕にも当てはまる.政策について考えるとき,その最終結果だけでなく,中間目標の観点で考えるのはよくあることだ――「これで労働者は強化されるのか?」「これで税法は簡素化される?」「これは州にもっと権力を与えるか?」などなど.ネオリベラリズムでは,「これで政府が手がける範囲は制限されるか?」という問いが政策にとってよい中間目標だとされていた.
これによって,政策について考える人たちの多くは,大きな政府の政策について,政府を制限する政策として捉え直すよう促された.その好例は,勤労所得控除だ (Earned Income Tax Credit; EITC).勤労所得控除は,福祉政策だ――貧しい人たちに,現金を与える.同じように設計された児童税額控除 (Child Tax Credit) と勤労所得控除とが合わさって,90年代から00年代にアメリカで再分配的な福祉支出が増大した理由の大きな部分を占めている.ただ,この2つを減税ととらえ,伝統的な福祉プログラム (AFDC/TANF) に代わる選択だと考えることで,リベラルはごくわずかな知的門番の足止めを受けるだけでこれを通すことができた.
ネオリベラルの門衛は,少数の興味深い政策アイディアが真剣に検討されるのも妨げた.2000年代に,中国は自国通貨の価値を〔市場での価値より〕大きく引き下げた――これによって,これを押し返せば中国ショック第一波を和らげることになっただろうし,もっと均衡のとれた世界経済につながりアメリカの労働市場を混乱させる影響も減っていただろう.多くの製造企業は,現に,中国を通貨不正操作国と認めるよう政府に求めた.これが認められていたら,条件付き関税や通貨市場介入といった相殺的な措置ができるようになっていただろう.そういうアイディアは現にあった.
でも,ブッシュ政権は,そうしないことを選んだ.ひとつには,地政学的な理由があった――ブッシュとしては,対テロ戦争で中国の支援をのぞんでいた――けれど,それだけじゃなく,関税や通貨市場介入みたいなことは,「大きな政府が市場に余計な手を出す」行いのように思われたからだ.そして,2000年代には,これは慎むべきことと見られていた.中国による通貨不正操作に対抗する首尾よい対抗措置がとられていれば世界市場の全体的な歪みは実際に減っていただろうけれど,それに必要な措置は,ネオリベラリズムのイメージに合わないので容認できないと考えられていた.
なので,ネオリベラリズムが政策に及ぼした真の影響を推し量るには,かの「吠えなかった犬」に目を向けなくちゃいけないだろう――つまり,なにがなされたかだけじゃなくって,なにがなされなかったかについて考えなくちゃいけない.後知恵を言える立場を利用して,制限された政府のパラダイムに経済志向を押し込めなくちゃいけなかったことで生じた政策の失敗をいくつか同定できる.
とはいえ,ネオリベラリズムが全体としてダメなパラダイムだったというわけじゃない.とくに,その初期はそうだった.政府を制限するというアイディアが広まったのは1970年代のことだ.当時,規制は過剰に敷かれていて,税率はおそらく高すぎたし,福祉国家の設計はまずかった.それに,アメリカの貿易相手は総じてルールにしたがって動いていた.このパラダイムは,当時の問題群に対処するためにつくりだされた.そういう問題群がなくなったあとまでパラダイムが生き延びて,数十年後の問題群には十分にふさわしくなかったからというだけでは,ネオリベラリズムのパラダイムに転換したのがそもそも間違いだったって話にはならない.アメリカが1980年代や1990年代にもっとうまくできたんじゃないかという論点は,また日をあらためて論じなくちゃいけない.
ともあれ,〔経済学や経済政策について〕考えていた人たちの大半は,「ネオリベラリズムが2020年代のアメリカが直面している課題にはふさわしくない」という点で見解が一致しているように思える.かつて1970年代や1930年代にやっていたのと同じように,ぼくらはいま,新しいパラダイムの設計に取り組んでいる.保守派たちもこのゲームに加わりたがっているものの,代替パラダイム構築の先端を切り開いているのは進歩派たちだ.これはいいことだね――経済政策の立案について考える新しい思考の組み立て原理がぼくらにはぜひとも必要だ.そうだね,たしかに,この新しいパラダイムはその性質上,〔政策立案を〕制限するものになって,すぐれたアイディアも多少は押しつぶしてしまうだろう.とくに,これから数十年はそうなりそうだ.でも,思考を組み立てる原理が人間にはどうやら必要らしい.そこで,ぼくらにできる最善は,この新パラダイムをできるだけ効果的なものにすることだ.
いい新パラダイムは,開発志向国家だ
なにか新しいパラダイムが登場するときには,古いパラダイムにとってかわらないといけない.ある意味では,これを破壊しないといけない.でも,反動的な反ネオリベラリズムだけでは,パラダイムを構築する土台として弱すぎる.ミルトン・フリードマンなりロナルド・レーガンなりがやりそうなことをただ頭のなかで戯画に仕立て上げてその真逆をやってみたところで,賢明な政策立案にはつながらない.
〔それではダメな理由を〕ひとつ挙げると,ネオリベラリズムは1970年代の問題群に対処するべくつくりだされたわけで,ひたすらその真逆をやるだけでは,半世紀前に起きていたことによってぼくらの政策思考がひどく制限を受けることになる.もっと根本的なことを言えば,およそ可能なあれこれの政策ぜんぶの入った領域は,「よりネオリベラル的」「より非ネオリベラル的」の一次元の軸で定義されてはいない.実行に移せる非ネオリベラル的な政策はごまんとある.そのなかから,「これ」というのを選ぶ方法が必要だ.
率直に言って,ぼくは産業政策・反トラスト・関税・児童保育に関する記事に目をとおすたびに,「わるいわるいミルトン・フリードマンが政府なんてアカンと言いました」「そのせいでみんなは貧乏になって絶望して2016年にはドナルド・トランプを選んでしまうことになったのです」式の小学5年生向けお手軽歴史語りからはじまるのに,もううんざりしてる.その話はもういいよ.次の機会にはそのくだりはまるっと飛ばしていいから,大事な話にとりかかろうよ.
さいわいに,新パラダイムがどうあるべきかについて,重要な2つのピースが論争とおしゃべりの渦巻きから浮かび上がってきているようだ.
1つ目のピースは,具体的なかたちになった結果に関心を集中することだ.ブラッド・デロングとスティーブン・コーエンが2016年の共著『アメリカ経済政策入門: 建国から現在まで』で書いたのがこのことで,今日ではいっそう真実味を増している.ネオリベラリズムは実際になにをもたらすのかって約束がはっきりしていなかった――「市場に物事を委ねる」とは約束したし,「その結果として物質的な消費が増大する」とは言っていたけれど,なにがどれくらい増大するのかは言わなかった.でも,いまや,アメリカ人は自分たちが手にしていない具体的な物事がなんなのかかなりよくわかりはじめている――それが,ネオリベラリズムのせいであれ,反経済成長 NIMBY志向のせいであれ,他のなにかのせいであれ.アメリカ人が手にしていないものの一部を列挙してみると:
雇用機会がある場所に近い安価で高品質な住宅
低く安定したインフレ
もっと安価な医療
アメリカが新しく直面している強大な敵たちに抵抗できる軍産複合体
公共の安全と社会秩序
日々の経済生活で出くわす面倒ごとが低コストですむこと
もっとお金のかからない育児
人が歩き回りやすい多目的の都市地域
山火事や洪水からの保護(気候変動がもたらす被害からの保護)
安定した食料品価格
「充足の行動目標」(the Abundance Agenda) や「供給側進歩主義」(Supply-Side Progressivism) は,上のリストにあるモノやサービスの奥を提供することを直球で目指している.おそらく誰よりもジョー・バイデンの産業政策のありようを決めた人物であるジェイク・サリバンは,中国の抑止と気候変動の打倒に注力している.
YIMBY運動は,もっぱら住宅に力を注いでいるけれど,イデオロギーよりも具体的な目標を優先するそのアプローチは,新パラダイムの他の多くの部分に移植できる.YIMBY は,規制緩和と公共住宅の両方を支持している――ここで大事なのは,住宅が実際に建設されることであって,どうやって建設されるかじゃない.これは,医療や安価な食料品の提供をはかる運動にとってもお手本になりうる.カマラ・ハリスの選挙陣営が YIMBY志向を歓迎しているのは,すばらしいきざしだ――実は,かくいうぼくも「ハリスに YIMBY を」の資金調達をちょっと手伝ったんだけどね.
こういう具体的な目標に社会のいろんなリソースを投入するのは,あまりネオリベラルらしくはない.ネオリベラリズムは,人々が欲しがるものについて不可知の立場をとる.他方で,充足のパラダイム (the abundance paradigm) では,いろんな目標を同定してそれを追求する.ネオリベラリズムではよく理解された明示的な「市場の失敗」がないと政府介入を正当化できないのに対して,充足のパラダイムでは政府と民間部門と同等の立場におく――このパラダイムでは,〔政府と民間部門の〕それぞれが果たすべき役割をもっていて,その役割を事前に決定すると政策の有効性が限定されると想定する.
ぼくが理解では,これが,いま興隆してきてる新パラダイムの第二の特徴だ――政府と民間部門は敵どうしではなくて単に同じチームの別々の部分だと考えるところに,その特徴がある.それぞれの制度には,アメリカの人々のために具体的な結果をえる上で果たすべき役割がある.
たとえば,公共-民間の提携は,コロナウイルス用ワクチン開発のカギだった.民間企業がワクチンを開発したとはいえ,その土台となっていたのは政府が資金提供した研究だった.民間企業の製品の需要を政府が保証した――これが,「ワープスピード作戦」の勘所だった.他の民間企業はワクチンを製造して世間に行き渡らせた.そこでは,政府が資金を出しつつ,ときおり物流面で支援もした.公共と民間,ふたつの制度が協力してはたらき,具体的な目標が達成された.
他にも,バイデンの産業政策という例もある.CHIPS法と「インフレ抑制法」によって,製造業で巨大な投資ブームの火がついた:
この投資は本質的にすべて民間企業の支出だ.というか,政府がやってきてみずから直接にその一部をつくろうとした場合には,これまでのところ,いい仕事はできていない.でも,それと同時に,民間の製造業投資が激増している理由の一端は,政府による助成金にある(ときに,〔政府による〕購入を暗黙に確約しつつなされる).政府が助成金を出すことで,企業の借り入れと支出の動機が生まれたんだ.その結果として,少なくとも1990年いらいはじめて,アメリカの製造業は成長産業のような様子を見せている.もしかすると,1960年代までさかのぼっても,これほどの活況はなかったかもしれない.
だからといって,公共-民間の協力関係がいつでも新パラダイムでとるべき道とはかぎらない.たしかに,こういう協力はよくあるものだけれど,ときに,完全に行政の内製で済ませた方がいい場合もある(e.g. 輸送網の計画立案).また,規制緩和を受けた民間企業がまるごと手がけた方がいい場合もある(e.g. 私有地での住宅建設).いま隆盛しつつある新パラダイムは公共と民間の分業に関してイデオロギー的なところがない――公民の分業は,具体的な事例ごとに判断されるべきものであって,それには深い理論ではなく試行錯誤を繰り返す必要もしばしばでてくる.
具体的な結果に注力して,その達成のために官民の制度について不可知論の立場をとるアプローチこそ,ネオリベラリズムにとってかわるものを模索する探求から生まれてきている最良の2つの思考組み立て原理だとぼくは見ている.この新パラダイムをどう呼んだものか,ぼくにはよくわからない.学者の間では,すでに名称がひとつ生まれている――「開発志向国家」だ.でも,この名称はいまいちスローガンとしてウケがよくない.他方で,「ネオリベラリズム」という名称は,それを構想した人たちよりもむしろ批判する人たちによってずっと多く使われている.そう考えると,この新パラダイムも同じ経緯をたどるのかもしれないね.もしかすると,まずはやるだけやってみて,あとから呼び名を考えればいいのかもしれない.
ともあれ,開発志向国家の原則を中心とする新しい経済政策パラダイムについて,ぼくはかなり楽観的だ.他方で,ネオリベラリズムを批判している人たちの多くは,別の思考組み立て原則に気をとられて,そっちに関心を注ぎすぎているように思う.その原則とは,「権力」だ.
反ネオリベラルは「権力」に関心を狭めすぎ
エズラ・クラインが「供給側進歩主義」について宣言(マニフェスト)を書いたとき,一部の進歩派たちはこれにとても強く反発した.そういう面々のなかでも大物は American Prospect 誌の編集者デイヴィッド・デイアンだ.彼は「権力を構築するリベラリズム」と題した反論を書いた.その反論文で,デイアンはこう論じている――新しい進歩的な経済学の主な目標は,進歩的な利益団体の権力を構築することであるべきで,そうすることで将来の〔政党の力関係の〕逆転によって進歩的なせいかが脅かされないようにするべきだ.
クラインの提案がどういうものかを多くの点で意図的に誤って述べただけでなく,デイアンは主従をひっくり返してしまっているように思える.民主国家では,具体的な結果をもたらすことなく制度的権力を掌握しようと試みる運動が長く力を保持し続ける見込みはあまりない.
というか,ネオリベラリズムが長らく生き延びてきた理由は,べつにその提唱者たちが舞台裏で秘密裏に権力を奪取したからではなくて,ロナルド・レーガンやビル・クリントンが選挙で勝利を収め,その在任期間に経済が好調だったからだ.反ネオリベラルはよく内輪でこんなことを言う――「20世紀後半の数十年はアメリカの中流と労働階級にとって惨めな時代だった.」 でも,実際には購買力も賃金もその時代にいくらか伸びたし,中流と労働階級が負担する税は下がったし,人々が保有する株式や住宅の資産はそこそこ価値を高めた.21世紀にネオリベラルが失敗したことで――中国ショック,住宅バブル,〔2009年からの〕大不況といった失敗のせいで――それ以前の数十年に見るからに成功を収めていたっていう記憶がおぼろになってしまっているのかもしれない.
でも,多くの反ネオリベラル宣言は,「権力は勝ち取るものではなく奪取するもの」という考え方に心底とりつかれている.たとえば,経済学者ジョー・スティグリッツが書いたものをなにか読んでみるといい.スティグリッツは,現代の反ネオリベラル運動のゴッドファーザーみたいな人物だ.一例として,彼がルーズヴェルト研究所に書いた最近の論稿を一部抜粋してみようか:
ジョセフ・スティグリッツは頭脳明晰な人物だし,素晴らしい経済学者だ――これまでに世に出た中でも屈指の人物と言っていい.でも,スティグリッツの研究の多くはさらなる社会変革の政策をたしかに正当化するけれど,彼は政治学者ではない.ぼくにわかるかぎりでは,彼の長年にわたる名高い研究経歴のどこにも,政治的な権力の源泉やその影響を扱った部分はない.スティグリッツは権力の専門家じゃないのに,権力こそすべての中心だと彼は考えている.
権力に関するスティグリッツの見解の素人ぶりは2000年代に丸見えになった.当時,ベネズエラの指導者ウゴ・チャベスをスティグリッツは過大に称賛した:
スティグリッツが称賛した体制は,ダメな経済政策でベネズエラを貧窮させることになった.この結果は,どこの地域であれ,ぼくの知るどのネオリベラル体制よりもはるかに悪かった.でも,チャベスと彼の自ら選んだ後継者マドゥロも,きわめて悪しきかたちで自分の権力をふるった.いま,不正が疑われている選挙のあと,ベネズエラはさらに様相のちがう悪夢に陥りつつある:
スティグリッツはこういう行いをきっと支持しないだろうとぼくは思っているけれど,他方で,〔マドゥロによる〕独裁制が登場しつつあるいろんなきざしをスティグリッツが見過ごしているのを見れば,彼が語っている権力理論を一般通念として受け入れるのには慎重になるべきだ.
当然ながら,今日の進歩派たちも,ベネズエラみたいな独裁制をつくりだそうなんてつもりはない.でも,権力が社会でどうはたらきくのかについて彼らが考えていることには,ときおりずいぶんとヒロイックな仮定が入り込んでいる.たとえば,いまどきの進歩派の知識人サークルでジェニファー・ハリス(カマラとは無関係)はとりきり明敏な思考の持ち主だとぼくは思ってるし,たいていの政策について,ぼくと彼女は同じ意見をもっている [n.2].けれども,最近,ハリスが書いた論説文にはちょっと困惑した.その記事で,彼女はこんなことを断定している――ファンドマネジャーに利益を与えている成功報酬課税の抜け穴をふさぐことで,政府による育児支援に反対する彼らのロビー活動を止められるんだそうだ:
成功報酬利益への課税の抜け穴によって,金融マネージャーたちは自分の成功報酬をキャピタルゲイン扱いできる.すると,自分たちにかかる税率を下げられるわけだ.ぼくの見解では,この抜け穴をふさぐのはいいことだ.その方が公正だろうし,政府に必要な歳入を増やすことにもなる.ただ,この抜け穴をふさぐことで,プライベートエクイティ企業が自らの経済的利益をもとめてロビー活動にはげむのを止めることになるというのは,どういうことだろう? このあたりで,話がぼんやりとしてくる.
成功報酬を通常の所得として扱っても,民間のプライベートエクイティ企業が事業を畳むわけじゃない.それに,金欠でロビー活動を展開できないほどにまで民間プライベートエクイティ企業の利益が縮小するわけでもない――2020年に民間エクイティは2億2200万ドルをロビー活動に費やした.これに比べて,彼らの年間利益は数千億ドルにものぼる.つまり,民間エクイティがロビー活動に費やしている金額は,総利益のなかの消え入りそうなほどわずかな割合でしかない.かりに成功報酬に通常の所得と同じ税率が課されたとしても,その点は変わらないままだろう.
反ネオリベラルの人たちが権力にすっかり関心を奪われていながら,ぼくらの社会で権力がどう機能しているのかしっかり発展させられた理論を持ち合わせていない一例が,ここにある.同じような例は他にも山ほどある.アメリカの民主制は金銭的な利害関心にとらわれてしまっているのだと論じている政治学のとある論文に――ひどい欠陥があるんだけど――多くの進歩派は入れあげている.バーニー・サンダースと彼の追随者たちは,そういう金持ちの政治的権力を抑制する方法として富裕税を売り込もうと試みたものの,成功報酬の場合と同じく,実際のロビー活動におよぼす効果は微少だろう.
気に食わない連中に平手打ちをかますのに,相手に金銭的不便をもたらす政策を使うのは,相手の政治的権力を持続的に弱める方法にならない.ここは革命ロシアじゃない――税率を上げる法案を通しても,アメリカの民間エクイティ企業の「男爵」たちがシベリアの強制収容所おくりこまれはしない.なにか起こるとしても,それは,気に入らない政策を撤回させるべくいっそうロビー活動に支出する動機を彼らに与えるだけだろう.
だからと言って,企業の利害関心のもつ政治的権力を抑制するのはダメな発想だってことにはならない.たんに,民主制では,それには選挙資金に関わる法律とロビー活動に関わる法律を変えることも必要だってだけだ.そのためには,そういう法律に広い人々から支持を集めなくちゃいけない.
ともあれ,政治的な権力の分布を様変わりさせるために経済システムそのものを買えようというのは,実地にうまく機能するアイディアじゃない.だからこそ,ぼくとしては反ネオリベラルの人たちに権力そのものを目標としてそこにばかり関心を注ぐのを控えるようにおすすめしたい.選挙でたくさん勝利を重ねていけば権力はついてくる――ロナルド・レーガンやネオリベラルたちがそうだったし,フランクリン・ルーズベルトとニューディールの面々もそうだった.そして,選挙での勝利は,アメリカの人々に彼らの求めるモノをもたらしていくうちについてくるんだよ.
原註
[n.1] 理論的な論拠は次のとおり: 炭素排出には負の外部性があり,テクノロジーの向上には正の外部性がある.どちらも市場の失敗だ.このため,政府を動かしてグリーンテクノロジーを推進するのは,2つの外部性を一度に是正することになる.テクノロジーは非競合的で国境をまたいで波及効果をおよぼすので,その国以外の地域で脱炭素化を進めるうえで調整問題がある炭素税よりもグリーンテクノロジー推進の方がすぐれている.
[n.2] マット・イグレシアスは,ジェニファー・ハリスの著作の特徴をまとめるときに,〔できるかぎりよい解釈を採る〕善意に欠けているところがある.民間のエクイティ企業が「広範な人々を対象とする連邦政府の育児支援に反対するロビー活動を行っていた」とジェニファーが書いてあるところをマットはとりあげて,これを「誤情報」と呼び,エクイティ企業のロビー活動家たちが反対したのは政府が直接に保育を提供することだけだと主張している.でも,ぼくが当該のエクイティ企業の財務票を読んでみたところ,たしかに「政府によって義務化されるか資金提供を与えられている保育や幼稚園・保育園で広範な人々を対象として給付を行うこと」で競合の脅威が生じる点を懸念している.これには,マットのとった狭い解釈ではなくジェニファーが書いたことが該当しているように思える.たしかに,その企業のロビー活動家たちが密室でどんなことを語っていたのかが正確にわかっているわけではないけれど,この文言を見ると,もっと狭い育児支援に限定するようロビー活動を展開するだろうと考えるのは理にかなっているように思える.
[Noah Smith, "Anti-neoliberalism is not enough," Noahpinion, August 29, 2024]