男女同権主義者としてのフェミニストの「矛盾」についての短文
ある女子大生の方と割と真面目な議論をしていて有益だった。彼女は「男女同権主義者としてのフェミニスト」が、女性至上主義者同然の振る舞いをすることが「矛盾」だと言っていた。
それは確かにそうなのだが、フェミニストが「あるべき状態」を達成するために「かなり振り切った行動」をする必要性もありそうだ。
ただし、フェミニストが「あるべき状態」を具体的かつ倫理的なものとして描けていないとしたら、活動は非常に無目的で感情的に終わるのかもしれない。
「現状」がフェミニストにとって
「かなりの男尊女卑社会」であれば、
「女権拡張の過程」そのものは女性至上主義に見えるのも無理はないというかなんというか。
それこそ、フェミニストの現状認識が甘いのも考えものである。
当たり前かもしれないが、現状と目標の差を埋めるためにどういう活動をし、それがどう見られるかまで客観的に見ないといけない。現状も目標も見えない感情的フェミニストは、単なる「矛盾した存在」のレッテルを貼られて、早晩、相手にされなくなるのではないか。
その意味で、女子大生の方の意見はもっともだと思う。やはり、私がよく思うことなのだけれども
「同じ行動にせよそれがどんな意図の結果なのか。それとも意図がない結果なのか。」は重要だ。個人的に男女同権の実現のために、その過程における活動それ自体も「男女同権主義的」な方が良いと思う。
「男女同権主義者は、男女同権のために男女同権らしい振る舞いで、男女同権を目指す」。
専門知識もなく、判然としないだろうけれど、これが私の中での結論かと思う。そんなことは、当たり前かもしれないが。
勿論、書いていなかったが「男女同権主義者の仮面を被った男性or女性至上主義者」がいることも事実だと思う。そして、彼ら彼女らの言動が「矛盾して見える」ことは当たり前である。そして、本稿で言いたいことは何かと問われれば、「本音と建前の見極め」の重要性である。
本稿のテーマに準ずれば、フェミニストも誤解されないように工夫しなければならないし、フェミニストを「理解する」私たちも誤解しないように工夫しなければならないということになる。
あらゆる「政治的選択・意思決定」延いては「日常的な選択・意思決定」において、「本音と建前の見極め」は重要だ。
言い換えれば、目の前の事柄を「雑に解釈しない」ことがいかに大切かを、デリケートでイデオロギーに関する話題を切り口に表現してみたと言って良いのかもしれない。
それとともに、「自他に嘘偽りなく行動せよ」的なことを示唆する文章になったような気もする。本稿で論じた「矛盾」には「誤解」も含まれている。あらゆる局面において、「誤解」はない方が良いということでもある。