八、余白がもったいない。年賀状は私の意思で埋め尽くす。
私の年賀状、あるいは我が家の年賀状は手を抜いているのか、手が込んでいるのか。一般的な年賀状はソフトから気に入った図案を印刷し、宛先ごとに手書きで一言添えるのだろう。ところが私の年賀状は白黒印刷で、画像はない。メールさながらの文面を年賀はがきに印刷して投函している。一枚六十三円の年賀はがきに年賀状の要素と自分らしさをいかに表現するかと考えた結果、できる限り余白を削って活字で埋める、現在の様式にたどり着いた。
年賀状には家族写真を載せていたので、はがき下五分の一のスペースに小さなフォントで賀詞を記していた。だが本来の年賀状は行書で縦書きであり、その様式を踏襲したいと思うようになった。縦書きにすると、今度は画像のレイアウトに頭を悩ませた。インクカートリッジの消費量も見過ごせない。家族写真など相手にとってはどうでもよいと判断し、画像を載せないことにした。
「謹賀新年」と書くと、縦書きではその下に大きなスペースが空き、もったいないと感じた。そこで「(謹んで・恭しく)新年のごあいさつを申し上げます」に改めた。その際に、謹賀の「賀」の要素を排除した。「お慶び」ではなく「ごあいさつ」にすることによって、めでたく新年を迎える気になれない自分を偽らない、あるいは相手に「慶び」を押し付けない、そんな私の意思を表すことにした。健康であっても病を患っていても、幸せでもそうでなくても、新年はやって来るのだ。ちなみに「謹んで」あるいは「恭しく」は、その時の気分でチョイスしている。
つづいて
で年賀状は完結する。だが私は「謹賀新年」で空いたスペースがもったいない人間だ。この間に連絡事項や私、もしくは我が家の近況を伝える文章を明朝体でつけ加える。ここが私の年賀状の胆だ。内容は相手によって微妙に変えている。
今年のテーマは更年期、不要不急の外出自粛、帰省の見送り、学校教育。相手が親戚であれば、年始に帰省しないことを体力減退と職務に専念するためとしながらも、今後もその意向である旨をにじませる内容だが、友人にはそこまで知らせる必要はない。相手が首都圏以外に住んでいれば、大半を埼玉県内で過ごし、県内の実家への帰省すら見合わせるほど気を配っていることを伝え、安心感を持ってもらう。相手が子育て中ならば、学校教育の現状を悩ましく表現して、年賀状で許される範囲でSOSを発信する。
なかでも「更年期」はどの年賀状でも削除しなかった。若い頃のように無理できなくなったこと、更年期の影響を身をもって感じ、数値にも表れていること。肥満、老眼、毛量の変化、顔のシワ、声の変化は「見た目も相当変わり」とし、年賀状の範疇に留まった。更年期とは女性ホルモンの低下、それによる生活習慣病リスクの増大。そして閉経だ。経験の有無によって理解は大きく異なるが、そのばらつきも面白いと感じている。
この年賀状の様式を私が独自に作ったのかといえば、そうではない。何人かの年賀状をお手本として、自分なりにアレンジした。連れ合いの恩師から送られる年賀状には遠く及ばない。横書きのゴシック体で世界情勢の危機をひたすら訴える。恩師の見識に触れると、自然と背筋が伸びる。そして、私を奮い立たせてくれる。
目標は、改行少なくても読みやすく、内容が伝わり、想像が広がるような文を年賀状に盛り込みたい。文庫本の一節を切り取ったような、「読める年賀状」だ。
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