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オリンピック競技を記録していない河瀬直美監督の映画『東京2020オリンピック SIDE:A』が描く国家とIOCへの叛逆性と犠牲者について

東京2020の記録映画『東京2020オリンピック SIDE:A』を見てきた。河瀬直美監督は全国的にバッシングの標的となっているので、おそらく、各メディアは酷評するだろう。ほとんどの人は、この映画を見ることなく語るだろう。そして、ほんのわずかな、この映画を見た人の中に、この映画を毛嫌いする人がたくさんいるだろうと容易に想像できる。

この映画は素晴らしい。大傑作だと断言する。これまで、数多くの映画を見てきたが、ここまで長時間にわたって涙を流した映画は他に記憶にない。ただし、ただの記録映画だと予想した人はもちろん、1964年の市川崑監督による東京オリンピックの映画程度の心算で劇場に足を踏み入れた人も驚くだろう。この映画はオリンピック競技を記録していないからだ。

森喜朗氏とオリンピック反対運動をする人々はワンセット

競技を記録してないどころか「オリンピックで勝利する美しさ」も「国家という共同体」描かれていない。あの頃、東京2020組織委員会会長の森喜朗氏とオリンピック反対運動をする人々は対立する立場のはずだったが、この映画では、どちらもアスリート個人と対極の位置にいる「組織の人」としてワンセットで語られる。それは、冒頭ではよく解らないのだが、彼らは物語が進めば進むほど滑稽なほど軽くパッケージ化される。この映画では「組織の論理」と対極に位置する人間が描かれている。
東京2020の記録映画『東京2020オリンピック SIDE:A』は、膨大な資金と時間を使って制作した、いわば、国家にもオリンピックに叛逆した映画なのだ。この作品が歴史に記録されることに大きな意義があるといえる。

オリンピックに勝つことに、どれだけの意味があるのか

まるで、オリンピックに勝つことに意味などないかの如く物語は進む。この映画に勝者が歓喜するシーンは、ほとんど登場しない。金メダリストの栄光の物語には触れない。この映画で語られるのは普通の人間でもあるアスリートと元アスリートの哲学、信念、個性……そして葛藤だ。取材を受ける中で生まれた、ほんと小さな間合いや心の奥底を思わず表現してしまった一言が、河瀬直美監督によってクローズアップされる。

犠牲者の存在を強く感じる東京2020

通常の映画であれば、物語の悲劇は役者の演じる登場人物のキャラクターを犠牲にして描かれる。ただ、これはドキュメンタリー映画なので、実在する人物が犠牲となっている(スクリーンに登場しないが社会には実在する人物も犠牲になる)。もしかすると、河瀬直美監督は、この結末に躊躇したのかもしれない。でも、公開された作品で、河瀬直美監督は、ある種の暴力性を交え犠牲者を生み出し、視聴する者に、今の日本社会で生まれた東京2020の陰を伝えている。河瀬直美監督は、東京2020の悲劇(そして、それは日本社会の生み出した悲劇)を無視することができなかったのだ。

無観客に終わった東京2020の孤独

この映画が多くの人に歓迎されない作品となることを河瀬直美監督は予兆しながら編集を進めていたはずだ。5000時間の撮影素材と格闘した河瀬直美監督は孤独であっただろう。

そしてもう一人、この映画の前半で紹介される、1964年の東京オリンピック柔道無差別級決勝戦でアントン・へーシングに敗れた神永昭夫さんは、決勝戦の後に武道館の天井を見上げながら、さぞかし孤独を感じていたのだろうと私は想像する。エンドロールが動き出し、藤井風さんの歌うメインテーマ「The sun and the moon」を聴き、私は、また涙を流した。気がつけば、ずっと泣いていた。

スポーツに関わる多くの人に見てほしい映画だ。ただ、スクリーンに爽やかなスポーツは登場しない。

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石井和裕 @ece_malicia
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