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こころはシーソー

うちの長女は躁病である。
躁病だけでなく、知的障害も自閉スペクトラム症もある。
てんかんの発作はおさまっているが、服薬は続けている。
昨年までは、「あやうく躁転ぎりぎりになったところで抑える」みたいな、きわどい状況で暮らしていた。

実際、薬の量をドクターに相談したり、どのような生活をしていったらいいのか、悩みが深かった。
ところが、今年は、大きな気分の波がなく、あ、ちょっとあやういなということは、多少はあったものの、夜はぐっすり眠れて、いまだかってないような、穏やかで幸せな日々が続いていた。

しかし、現実はやはりそんな甘いものではなくて、先月末あたりから、声が大きくなり、多弁で、興奮して、行動が素早くなってきた。
9月には、4年ぶりの日帰りバス旅行という、大きな行事があり、その次の週は、これまた、数年ぶりに実習の医大生が園に来るという、メインイベントが続いた。
これはすべて、コロナ禍で中止になっていた通常の行事が復活したに過ぎないのだが、長女にとっては、頭のてっぺんまで興奮するような、ものすごいイベントであったのだろう。

そんなこんなで、たんたんとした日常の継続でなく、お楽しみの行事などによって、引き起こされるハイテンション状態が、復活したわけである。

大きな声で、ひっきりなしに話しまくり、あれヤダこれヤダと、下着の色にすらいちゃもんをつけて、しつこくからんでくるという、今までの日常も復活した。
お久しぶりです。
ヤダさん。
ヤダアヤダアのヤダさん。
夜の大声は勘弁してほしいです。

今朝もバス停で、バスが来るまで、「しりとりする。」というので、しりとりをしていたのだが、しりとりに興奮し始めて、大声で、りす。すいか。などと叫びだし、あああと思っていたら、バスが来た。

バスに乗って出かけていったが、昼間、長女はどう過ごしているのだろうか。
生活介護の今日の活動に、大声、ハイテンションで参加しているのだろうなあ。
などと考えてしまう。

すると、私の心はもやあっとしてきて、どんよりしてきて、重うくなって、どしんと下がる。
この感覚は、長女が子どものころから、私の心に起きる反応だ。
感情なのだろうが、もう物理的な反応といってもいいほどの重さだ。
何キログラムあるのかしら。
すごおく重い。

心配と不安とがいりまじり、人様に迷惑をかけてはいないだろうか。
などと、長女に対しての人権侵害みたいなものが、自分の心の奥にあることを発見して、ますます心が重くなってしまう。
そして、私にも「恥」の感覚があると認識してしまい、愕然とする。
大声で叫ぶのは、やはり恥ずかしいのだ。
長女の存在によって、私の心の愚かさが見えてきて、自分の存在が嫌になる。
でも、こういう時は、私は謙虚になり、丁寧に生活していこう。落ち着いた生活をしていこうなどと思い、日々の反省をしたりする。

たぶんだけど、ハイテンションの長女は、うきうき、心も体も軽く過ごしているだろう。
長女と私が、今、シーソーしたら、私は地面に落っこちたまま。
長女は、上がったままの状態が続くのだろうな。

ゲームにならないシーソーゲーム。
長女の人生は、長女のもの。
私は私の人生を生きていくのだから、心を軽くして、もう一度シーソーゲームしてみよう。


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