ルーサー・ヴァンドロス死して15年~ルーサー特集(パート1)
ルーサー・ヴァンドロス死して15年~ルーサー特集(パート1)
2020/07/01 02
(本作・本文は約20000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、40分から20分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと66分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、さらに長い時間楽しめます。お楽しみください)
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15周年。
稀代の名シンガー、歌手という単語は彼のような存在にあるルーサー・ヴァンドロス。彼が54歳という若さで逝去して今年で15年。訃報が流れたところ、またその前の倒れたところからの記事リンクをまとめてルーサー特集として2日にわけてお送りします。
1. 速報
2. 訃報
3. 衝撃続く
4. ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー~キャリア・ソング
5. アルバム1位初登場
6. 昏睡脱出
7. ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー~訳詞
1.速報
July 02, 2005
(速報)ルーサー・ヴァンドロス死去
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200507/2005_07_02.html
July 02, 2005
(速報)ルーサー・ヴァンドロス死去
Luther Vandross Died At 54
繊細。
R&Bシンガーとして、1970年代から活躍し、1980年代に入り爆発的人気を獲得したルーサー・ヴァンドロスが、2005年7月1日(金)夜(日本時間2日午前)、ニュージャージー州エディソンのジョン・F・ケネディー病院で家族、友人に見守られながら静かに死去した。54歳だった。
ヴァンドロスは、2003年4月16日、マンハッタンの自宅で脳梗塞で倒れ病院に運ばれ緊急手術をし、その後リハビリをしていた。ヴァンドロスが倒れた後、その直前までレコーディングしていた『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』がリリースされ、大ヒット。同曲はグラミー賞「ソング・オブ・ジ・イヤー」などを獲得。2004年2月のそのグラミー賞授賞式では、ビデオテープでメッセージを寄せた。
そのメッセージは、弱々しかったが、声はあのルーサー節だった。彼は"Remember, when I say goodbye it's never for long, Because ... I believe in the power of love.(万一、僕がさよならを言っても、覚えておいてくれ。僕は愛の力を信じている)\"という彼の大ヒット「パワー・オブ・ラヴ」の一節を歌った。
声明を発表した医師によると、倒れた後、ルーサーはほとんど回復しなかったという。
ルーサー・ヴァンドロスは1951年4月20日ニューヨークのマンハッタン、ローワー・イーストサイド生まれ。ルーサー・ロンゾーニ・ヴァンドロス・ジュニア。1974年、デイヴィッド・ボウイのバックコーラスとして抜擢され、ボウイのアルバム『ヤング・アメリカンズ』(1975年3月全米発売)に登場。以後、音楽シーンで徐々に頭角をあらわすようになった。1976年、グループ「ルーサー」を結成、アルバム2枚を出しヒットを出すが、レーベルが自然消滅し、1981年9月、ソロ・シンガー、ルーサー・ヴァンドロスとして『ネヴァー・トゥ・マッチ』で再出発。以後、出すアルバムをすべてヒットさせ、1980年代から1990年代を代表するR&Bシンガー、ヴォーカリストとなった。
ルーサーは、それまでの男性R&Bシンガーが、男らしさを強調するスタイルが主流だったのに対し、男性でも弱さがあること、時には女々しいとされることなどを実に繊細に歌に託し、女性ファンからも、また男性ファンからも圧倒的な支持を受けた。また、その瞬間でわかる独特のクラス(品)のある声と歌唱は、多くのルーサー・フォロワーを生み出した。
20年以上の親交があり、現在日本ツアー中のロバータ・フラックは、「彼は持っているものすべてをさらけだして、与えてくれるシンガーです。彼は本当に音楽をするために生まれてきたような人物でした」と述べた。
ルーサーの母、メアリー・ヴァンドロスにとって、ルーサーは4人の子供の末っ子。そして、上3人がすでに他界しており、ルーサーは「最後に残された子供」だった。
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(詳細はまた後ほど)
ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54)
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2.訃報
July 03, 2005
Luther Vandross Died At 54: Reunited After 46 Years With His Father
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200507/2005_07_03.html
July 03, 2005
Luther Vandross Died At 54: Reunited After 46 Years With His Father
【ルーサー・ヴァンドロス54歳で死去】
奇蹟。
ルーサー・ヴァンドロスの死去に関し、エンタテインメント界から多くのおくやみのメッセージがヴァンドロスの元に届いていている。クインシー・ジョーンズ、アレサ・フランクリン、スティーヴィー・ワンダー、ロバータ・フラックなどなどで、これ以後も多くの人々からおくやみが届いているだろう。
ヴァンドロスは、2003年4月16日にニューヨーク・マンハッタンの自宅で脳梗塞で倒れ、数時間発見されずにいたという。発見後すぐに病院に運ばれ緊急手術が行われたが、長く集中治療室にとどまったため、身体に麻痺が残った。生命を救うため、喉からチューブが挿入されたが、シンガーとしての命、声帯に傷をつけないよう最大級の注意が払われた。
6月18日、担当医はルーサーのリハビリテーション・センターへの移動のための退院を許可。ルーサーは、毎日5時間、エクソサイズ、車椅子の乗り降りの練習を続けた。当初、回復は劇的だったという。
そんなある日、ルーサーは母親に電話をかけてこう言った。「1曲、あなたのために歌いたいんだ」 「なんですって?」 母は驚いた。「『ソー・アメイジング』を歌いたいんだ」 これは母アイーダのお気に入りだった。
アイーダが言う。「この曲には私にとってとっても深い意味があるの。というのは、ルーサーがこれを姪の結婚式で歌ったから。彼はその姪をずっと可愛がっていて、育てるのを手伝った。そして、この曲を歌い終えて、彼が姪に向かって『アイ・ラヴ・ユー』と言った瞬間、彼女は泣き崩れた。その場にいたみんなが号泣したのよ」。生涯独身で子供がいなかったルーサーは、ことのほか姪や甥を可愛がったという。
ルーサーが歌おうとする前に、母アイーダは、「一緒に歌いましょうか」と尋ねた。記憶喪失が見られたルーサーが歌うのを手助けしようという心遣いだった。ルーサーは「ママ、ママが歌う前にはたくさん練習してもらわないとだめだ」と言って電話越しで歌い始めた。そして、ルーサーはその「ソー・アメイジング」を一字一句間違えずに最初から最後まで歌いきったのである。
ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー/ルーサー・ヴァンドロス (廉価盤)
同年5月からアルバム『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』がキャリア中最大のヒットへなっていく。これは、彼自身が「シグネチャー・ソング(代表曲)」「キャリア・ソング(キャリアを代表する曲)」になったと大きな自信を持って世に送り出した作品だった。
これはルーサーが8歳の時に死去した父親へ捧げた作品。母親は、これを聴いた時、たった8歳までの記憶しかないルーサー・ジュニアがよくこれほどまでの曲が書けたものだと驚嘆し、涙を流した作品でもあった。
このシングル・ヒットのおかげで、同アルバムは、彼の25年を越えるキャリアの中で初のアルバム・チャート1位を獲得。さらに、秋には、2003年2月のヴァレンタイン・デイに行われたライヴの模様を収めたライヴ・アルバムもリリース。
そして2004年2月、グラミー賞授賞式でビデオでメッセージを寄せ、受賞に大きな花を添えた。回復しなかった中での、ビデオメッセージは、今となっては奇蹟の声だったのかもしれない。
二人の姉、兄ひとりが先に旅立ち、ルーサーはアイーダに残された最後の子供だった。4人の子供を自分の死より以前に見送る母親の心境やいかなるものか。ファミリーのメンバーは、みな糖尿病をわずらっていたという。ルーサーもそうした家系の影響があったのだろう。体重の劇的な増減、糖尿病からくる心臓への負担、そうしたものが彼の命を短いものにした。
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Chasing The Dream, Not Give Up
再会。
ルーサーは母親っ子だった。彼は4人兄弟の末っ子だったが、13歳の時、母と二人でブロンクスに引越し、生活を始めた。父親は既に他界、上の兄弟は独立していたので、母子の生活が始まった。ルーサーは、学校の親友フォンジ・ソーントンとバンドを組み、音楽活動を始める。彼の記憶では4回ほどアポロ・シアターの「アマチュア・ナイト」に挑戦しているが、いずれも優勝にはいたっていない。だが、彼はまったくそのことにくじけることはなかった。
(ウェスタン・ミシガン大学)
高校卒業後ルーサーは、ウエスタン・ミシガン大学に進学するが、友人もできず、音楽だけに没頭していた。結局、大学生活に嫌気がさした彼は、ドロップアウトを決意する。その時医学を目指していたルームメイトが大学に留まるように説得したが、これはこう宣言してミシガンを後にした。「なあ、君が医者になり、病気にかかった時には、僕は君のところにリムジンで乗りつけよう。僕は逃げ出すんじゃない。自分の夢を追いかけるんだ」。
(リムジン)
彼のキャリアのターニング・ポイントはいくつもある。そのうちのひとつがロバータ・フラックとの出会いだ。ルーサーは、1980年のロバータの全米ツアーにバックコーラスのひとりとして起用された。そして、そのバンド・メンバーに誰あろうニューヨークのベース奏者、若きマーカス・ミラーがいたのだ。マーカスとルーサーは意気投合。「いつか何か一緒にやろう」ということになった。そして、これが1981年の『ネヴァー・トゥ・マッチ』につながっていく。
(ロバータ・フラック)
(マーカス・ミラー)
マーカスとともに作ったデモ・テープの「ネヴァー・トゥ・マッチ」をルーサーがロバータに聞かせたところ、ロバータは涙を浮かべ、「もうあなたは、バックグラウンド(・シンガー)に甘んじていることはないわ。私が、あなたのキャリアをスタートさせるための人物を紹介しましょう」と言ったほどだった。
そして、1981年7月、『ネヴァー・トゥ・マッチ』は満を持してリリースされ、大ヒットになる。以後、彼の作品は出せばヒットになっていった。彼は徐々に「ソングスタイリスト」としての名声を確立。他の誰もが真似できないスタイルを築いた。
(ネヴァー・トゥ・マッチ)
果たして、彼が自宅で倒れた時、大学時代のルームメイトの元にリムジンを乗りつけることはなかったが、ルーサーはその時の夢を実現させたのである。
スモーキー・ロビンソンがかつてこう言った。「ヴォーカリスト数あれど、ルーサー・ヴァンドロスはただひとり。ルーサーの中に品格が光る。(There are vocalists, and then there's Luther. Luther's in a class by himself)」
8歳の時、父と別れたルーサー・ヴァンドロス・ジュニアは、46年ぶりに今、父ルーサー・ヴァンドロス・シニアと再会を果たしていることだろう。手土産は、もちろん、「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」のCD。父親が息子に言っている言葉が聞こえるかのようだ。「よく来たな。いい曲を書いてくれてありがとう」。今、天国で二人のルーサーの熱いハグ・・・。
ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54)
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3.衝撃続く
July 05, 2005
Luther Tribute Continues: Luther's Room Is Not A Home
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200507/2005_07_05.html
July 05, 2005
Luther Tribute Continues: Luther's Room Is Not A Home
【ルーサー衝撃・続く】
孤独。
ルーサー死去の衝撃は続く。イギリス人のソウル・ミュージック・ジャーナリスト、デイヴィッド・ネイサンが長文の追悼文を書いた。
http://www.soulmusic.com/luthervr.htm
(註:現在リンクデッド)
(デイヴィッド・ネーサンと著作『ディーヴァ』)
ルーサーはアトランティック・レーベル傘下コティリオン・レーベルからグループ「ルーサー」として1976年にデビュー。その時にネイサンがインタヴューをし、それ以来、仕事面でもプライヴェートでも二人は親しくなった。ネイサンがその30年近いルーサーとの思い出を語ったもの。
グループ、「ルーサー」が2枚のアルバムを出した後、契約がなくなり、一時期ネイサンはイギリスのレコード会社にルーサーのデモ・テープを売り込んだことがある。だが、それを聞いたディレクターは、イギリスのマーケットには「アメリカすぎる」と判断し、売込みを断った。
Never Too Much [ENHANCED] [FROM US] [IMPORT]
その後、ロバータ・フラックのツアーで、ロバータのマネージャーと知り合い、その人物がエピックのディレクター、ラーキン・アーノルドを紹介してくれた。アーノルドは、すぐにこのテープを気に入り、契約。そこで『ネヴァー・トゥ・マッチ』が生まれた。ここに収録された「ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム」を聴かされた時のネイサンの驚きは大変なものだった。ルーサーにとって、ディオンヌ、アレサ、ダイアナ・ロスは3大お気に入りのシンガー。そして、そのうちのひとりディオンヌの作品をカヴァーしたのである。
ルーサーも生涯独身で過ごした。デイヴィッド・ネイサンも独身ということで、人生について、恋について、独身であることについて、パーソナルな会話を何時間もしていたようだ。一時期、偶然にもネイサンとルーサーがニューヨークの同じアパートに住んでいたことも、二人を親しくさせた。
『ネヴァー・トゥ・マッチ』以降、ルーサーはさらに豪華なアパートに引越していったが、新作がでると、まっさきにネイサンに聞かせていた。
ルーサーは、いつでも、生涯のパートナーを見出したいと思っていた、という。つまり、結婚したいと思っていたのだ。彼は、自分の体重(太っていること)が、恋のじゃまになると思っていた。そこで、恋をすると、あるいは、好きな人ができると、痩せる。だが、その恋が成就しないとなると、やけ食いでまた太ってしまうという。その体重の増減は5-60キロあった。それは、彼の歴代のアルバムのジャケットを順に並べてみれば、明らかだ。痩せている時と太っている時が実に極端なのである。
また、彼の兄弟、親ともに、糖尿病を患っていた。糖尿病の家系なのだろう。それと体重も関係していた。そして、そこから心臓への負担があった。
ルーサーにはこんな現実があった。完璧なライヴをやって、何万の人を喜ばせても、ホテルの部屋に戻ってくれば、たったひとりだ。そして、そこで彼を待っているものは食べ物だけ。どうしても食べてしまう。
大学時代、彼はしばしニューヨークを離れミシガン州に行くが、その時も彼は孤独だった。シャイな彼は友達もできずに、いつもヘッドフォーンでレコードばかり聴いていた。その頃聴いていたのが、アレサ・フランクリンであり、ディオンヌだった。同級生がガールフレンドを作ったり、パーティーに興じている頃、彼はレコードを聴いていた。まさにこの頃から彼の人生はヘッドフォーンの中にあった。
孤独というキーワードは、ルーサー・ヴァンドロスの人生の中に常に寄り添っていた。しかし、その孤独さが、体重を増減させ、また、彼の唯一無比の悲恋ソングや叶わぬラヴソングを作る原動力となったにちがいない。
傑作アルバム『ネヴァー・トゥ・マッチ』(1981年)のアナログではB面の最後を飾ったのが、前述の「ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム」だった。バート・バカラック&ハル・デイヴィッドの名曲だ。恋人が去った後の家は、もう家じゃない、家庭ではない、という歌。「そこに椅子があっても、家ではない。家が(形として)あっても、そこに家庭はない。部屋があっても、しょせん部屋はただの部屋。部屋は家ではなく、家があっても家庭はない・・・」 ルーサーの部屋は、家庭にはならなかった。
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■ルーサー・ヴァンドロスの『ネヴァー・トゥ・マッチ』のライナーノーツを近日中にアップします
■ルーサー・ヴァンドロスに関するソウル・サーチン日記 (ルーサーが倒れたときの一報からそのアップデートまで)
2003/04/25 (Fri)
Luther Vandross' Condition Critical, But Stable
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200304/diary20030425.html倒れた時の第一報。
2003/05/05 (Mon)
Luther Is Still Alive
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030505.html
2003/05/15
Luther Still Unconcious: But Mother Confident of Recovery
ルーサー、依然 昏睡状態。母親は回復に自信
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030515.html
2003/05/22 (Thu)
Aretha sung "Amazing Grace" for Luther
アレサ・フランクリン、「アメージング・グレイス」で全快の祈り 捧げる
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030522.html
2003/05/29 (Thu)
Promotional Talk
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030529.html
2003/06/13 (Fri)
Luther is out of his coma?
昏睡状態から脱す
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030613.html
2003/06/14 (Sat)
Now it's official: Luther is out of ICU
集中治療室を出る
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030614.html
2003/06/20 (Fri)
Luther's Album Made No.1 For The First Time In His Life
ルーサーの新作、アルバム・チャートに1位初登場
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030620.html
2003/06/21 (Sat)
Dance With My Father: Complete Japanese Translate Version
「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」完全訳詞
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030621.html
2003/07/19 (Sat)
The Power Of Love For Luther Vandross
ビデオに友人シンガーたち登場
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200307/diary20030719.html
2003/08/13 (Wed)
Luther: Because It Has His Soul In His Song
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200308/diary20030813.html
2003/09/05 (Fri)
Luther Live Album Due Next Month
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200309/diary20030905.html
2003/11/18 (Tue)
Luther Vandross' First Live Album Ever: Love Story For 75 Minutes Long
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200311/diary20031118.html
2004/02/11 (Wed)
Another Side Of "Dance With My Father"
「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」もうひとつの物語
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200402/diary20040211.html
July 02, 2005
Luther Vandross Died At 54
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_07_02.html
July 03, 2005
Luther Vandross Died At 54: Reunited After 46 Years With His Father
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_07_03.html
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ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54)
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4. ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー
2004/02/11 (Wed)
Another Side Of "Dance With My Father"
「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」もうひとつの物語
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200402/diary20040211.html
2004/02/11 (Wed)
Another Side Of "Dance With My Father"
完全復活。
グラミー賞、生放送での中継。「ベスト・ニュー・アーティスト」がエヴァネセンスに行き、「レコード・オブ・ジ・イヤー」がコールドプレイになり、かなり愕然としていたところに、いよいよ「ソング・オブ・ジ・イヤー」の発表になった。ベイビーフェイス、キャロル・キングたちが壇上に。キャロルが言った。「これはソングライターの賞です。歌詞がなければ、(その歌は)ただ『ラララ~』と歌うしかありません。メロディーがなければ、それはスピーチになってしまいます…」 横でベイビーフェイスが微笑みながらうなずく。そしてノミネートが発表され、受賞者の名前が書かれた封筒が開かれる。
「グラミーは…。リチャード・マークス、ルーサー・ヴァンドロス、 『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』 !」 思わずテレビの画面に向かって「やったあ」と叫んでしまった。
リチャード・マークスとルーサーのマネージャー、カーメン・ロマノが壇上に上がる。ロマノが胸ポケットから一枚の紙を取り出す。ルーサー本人からのメッセージだ。若干声が震えている。「この賞を受賞できて本当にうれしい。この『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』が多くの皆さん方の人生に感動を与えたことを感じています。そして、この曲のメッセージをみなさんの心に届けていただいた私の友人、ラジオのDJなどへ感謝の気持ちを伝えたいと思います。そして、この曲のセンチメント(感情)をともに分かち合ったお母さんへ、僕の代わりにプロモーションに動いてくれてありがとう。私の母に感謝の気持ちを。ありがとう、お母さん」
そして、リチャード・マークス。彼もまた多くの人たちへの感謝を述べて最後にこう締めくくった。「天国のお父さん。いつまでもあなたは僕の心にあります。きっと、今ごろ、ルーサーのお父さんと一緒にシャンペーンのボトルをあけてお祝いしているでしょう」
その時初めてリチャード・マークスの父親が亡くなっていたことを知った。ルーサーはかねてから、この曲は自分のキャリア・ソング、シグネチャー・ソング(どちらも代表曲を意味する)だと公言していた。しかし、ルーサーとともに13年間、曲を書いてきたマークスにとっても、この曲はある意味で「キャリア・ソング」になっていたのだ。マークスのスピーチを聞いて、それに気付いた。マークスは1963年シカゴ生まれ。父親はジャズ・ミュージシャンであり、音楽関係の会社を経営していた。母親もシンガーで音楽一家に育った。彼は一人っ子。マークス自身、1980年代後半から1990年代初期まで自ら多くのヒットを放ったシンガー/ソングライターになっている。
(リチャード・マークス)
マークスはその後の記者会見でこう語っている。「この曲は彼(ルーサー)にとって、ものすごく特別な曲だ。とても個人的な曲であり、同時に非常に普遍的な曲でもある。僕の人生でこれほどあらゆる社会的地位の人々に影響を与えた曲はほとんどない。ルーサーは『これは僕の”ピアノ・マン”(ビリー・ジョエルの自伝的作品)なんだ)』と言っていた」
これより先、グラミーのショウでは昨年(2003年)4月に倒れたルーサーへのトリビュートが行われた。アリシア・キーズが「ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム」をピアノで歌った。ルーサーの歌でも知られるが、元々はディオンヌ・ワーウィックでヒットした作品でもある。そしてその後、なんと、ルーサーのビデオが流されたのだ。
少し弱々しく見えたルーサーは、「もし僕がさよならを言っても、それは永遠のものではありません。なぜなら、僕は、愛の力(power of love)を信じているから~」といった。この「パワー・オブ・ラヴ~」のところは、彼のヒット曲のメロディーを歌ったのだ。その映像を見ていて胸が一杯になった。歌えるじゃないか! あの声はルーサーそのものじゃないか!
マークスは言った。「まだ、ルーサーには皆さんからの祈りが必要なんですよ」 完全復活まで、まだまだ道のりは長い。完全復活の日がいつか来ることを祈って…。
Dance With My Fatherについての関連記事。
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030620.html
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030621.html
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5.アルバム1位初登場~キャリア初
2003/06/20 (Fri)
Luther's Album Made No.1 For The First Time In His Life
ルーサーの新作、アルバム・チャートに1位初登場
生涯初。
2003年6月10日に全米で発売されたルーサーのアルバム 『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』 が、今週末付けの全米アルバム・チャート(ビルボード誌など)で、1位初登場する。 これは彼が1981年 『ネヴァー・トゥ・マッチ』 でソロ・デビューして以来、22年の歴史の中で、初めての快挙。これまでにルーサーのアルバムは、ベスト、クリスマス・アルバムなどを含め15作品がアルバム・チャート入りしているが、最高位は1994年の 『ソングス』 の5位、また、もっとも売れたアルバムは1989年の2枚組のベスト・アルバムで300万セット(600万枚)だった。
ニールセン・サウンドスキャンの調べによると、集計締め切りの6月15日までに同アルバムは44万2千枚売り、堂々の1位となった。なお、2位には先週1位で、今週約36万枚を売り上げたメタリカが続いている。さらに3位には同じくロックグループ、レディオヘッドの新作が約30万枚売りランクインしている。
ルーサーのレコードは、元アリスタ・レコード社長クライヴ・デイヴィスが持つJレコードからの作品。デイヴィスは、親会社BMGからアリスタの社長を解任され、自らJレコードを始め、成功した。昨年親会社BMGは、Jレコードの株を半分買収することにより、デイヴィスを再びグループ内の統括者に戻し、RCAレーベルのヘッドに据えた。このRCA傘下にJレコードが位置する。
現在RCAからは、テレビ番組『アメリカン・アイドル』(いわゆるスター誕生的な歌手志望アーティストたちの勝ち抜き番組)優勝者もしくは出身者のクレイ・エイキン、ルーベン・スタッダードのシングルがともにシングルチャートで1位、2位に初登場し、大ヒットさせている。
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Luther As Silk, Silk As Luther
シルク。
まさにシルクのような声とはこのルーサーのこと。新作『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』を繰り返し聴いている。全14曲、ゲストはフォクシー・ブラウン、ビヨンセ(デスチャ)、バスタ・ライムス、クイーン・ラティーファなど、かなり若いヒップホップな連中を集めて、若い層の支持も集めようという狙い。
それにしても、やはり、彼の作品のクオリティーは若干の波はあれ、基本的にこの四半世紀変わらない。今回の作品は彼の入院騒ぎゆえに大量の露出があったために、一挙に大ブレイクしたが、おそらくそのプラスアルファがなくても、かなりの注目を集めただろう。アイズレーが1位初登場したように、ルーサーも1位初登場になったと思われる。それにしても、16枚目のチャート作品で初1位、しかも、初登場1位という栄誉までついた。
なにしろ、その表題曲がじつによくできている。誰にでも書けそうだが、これがなかなか書けないものなのだ。ここに到達するまでに、ルーサーは四半世紀を要しているのである。もし、これがデビューアルバムあたりで書かれ、歌われてもおそらくそれほどの感動は与えないだろう、と思う。そういう意味で、この曲にはルーサーの四半世紀のいや、もっとそれ以上の「人生のソウル」が込められていると思う。
ロバータ・フラック&ダニー・ハザウェイの名唱で知られる「ザ・クローサー・アイ・ゲット・トゥ・ユー」(1978年、ソウルで1位、ポップで2位)を、デスティニー・チャイルドのビヨンセ・ノウルズとともにデュエットした。これも、キラー・カット! そういえば、たしかロバータのツアーでルーサーとマーカス・ミラーが実質的に親しくなった。それまでもスタジオなどで面識はあったが、じっくり音楽の話をするようになったのは、二人がロバータのツアーにでたとき。その出会いが『ネヴァー・トゥ・マッチ』に結集する。ルーサーは、ロバータの作品はかつて、「キリング・ミー・ソフトリー」を1994年のアルバム『ソングス』で録音している。
アルバムにはもう1曲カヴァーがある。ビル・ウィザースの大ヒット曲「ラヴリー・デイ」(1977年、ソウルで6位、ポップで30位)だ。バスタ・ライムスのMCに紹介されてルーサーのシルキー・ヴォイスが登場。
そして、文句なしのキャリア・ソング「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」。歌詞がすでにネットにでていた。しばらく前にはでていなかったので、アルバム発売後、アップされたのだろう。
シルクの如くルーサーの声。それは、ルーサーの如くシルクの手触り。
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なお、ルーサーに関する記事は、次の過去日記に書いてあります。
(2003年)
4月25日
Luther Vandross' Condition Critical, But Stable
ルーサー・ヴァンドロスが危篤
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200304/diary20030425.html
5月5日、
2003/05/05 (Mon)
Luther Is Still Alive
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030505.html
6.昏睡・危篤
5月15日、
2003/05/15 (Thu)
Luther Still Unconcious: But Mother Confident of Recovery
ルーサー、依然 昏睡状態。母親は回復に自信
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030515.html
2003/05/15 (Thu)
Luther Still Unconcious: But Mother Confident of Recovery
ルーサー、依然 昏睡状態。母親は回復に自信
4月16日、ニューヨークの自宅で倒れたルーサー・ヴァンドロスは、その後も意識を回復せずに依然昏睡状態が続いている。いくつか外電が入っているので、まとめて紹介しよう。
ルーサー・ヴァンドロスの母親、メアリー・アイダ・ヴァンドロスが12日(月曜)にステートメントを発表した。「息子は必ず回復します。回復すべきなのです。彼は、私が持っている最後の宝物だから。彼は、唯一生き残っている子供なのです」
母は、2ー3日おきにルーサーを見舞い、手を握り、彼が好きなアレサ・フランクリンやディオンヌ・ワーウィック、彼自身のレコードをかけている、という。ルーサーが倒れた直後はかなり危険な状態が続いたが、以後は危険ながらも安定した状態になっている。現在は器官切開し人口呼吸器が呼吸を助けている。「息子がよくなるのは時間の問題だと思う。ただし、ゆっくりなペースですが」と母は言う。
(メアリー・アイダ・ヴァンドロス=ルーサーの母)
ルーサーの新作アルバム 『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』 は、全米で6月10日に発売が予定されているが、この曲は亡き父、メアリーの夫に捧げられたもので、母はこれを聞いて涙したという。母はルーサーの状態いかんにかかわらず発売を遅らせないで欲しいという。「きっと息子も、予定通りリリースされることを願っていると思う。彼自身、このアルバムを大変気に入っていましたから。カンバックした際には、奇跡の復活物語として語られてほしいわ」という。
一方、ルーサーが80年代に2枚のアルバムをプロデュースし、元々ルーサーのあこがれのシンガーのひとりであったアレサ・フランクリンは、地元デトロイトの教会で、徹夜の祈りを捧げる。ここには仲間でもあるフォー・トップス、アレサの息子たちエディー、キーカーフなども参加する予定。
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Wake Up, Vandross
夢。
ルーサーは、1951年4月20日ニューヨークに4人兄弟の末っ子として生まれた。上に姉2人、兄がいた。母のコメントから、すでに3人の子供たちは他界していることになる。父親はルーサーが8歳の頃(1959年頃)死去。
13歳の時に、ブルックリン・フォックス・シアターでディオンヌ・ワーウィックのショウを見て感激し、シンガーになる決意をした。ルーサーは言う。「(ステージで)ディオンヌが赤いシフォンのドレスに身を包み、歩きながら『エニワン・フー・ハド・ア・ハート』を歌った。その時のことを今でも覚えている。彼女は僕の前を横切って歩いた。その瞬間僕は音楽で一生暮らしていきたいと思ったんだ」
彼は高校を卒業するとウエスタン・ミシガン大学に入学。しかし、大学生活は孤独で、退屈だった。友人もほとんどなく、ガールフレンドもなく、スポーツに熱中することもなく、彼の人生は音楽だけだった。ルーサーの人生はヘッドフォンの中にあった。ヘッドフォンから流れてくるアレサやディオンヌの歌声だけが彼の友人だった。
大学をドロップアウトするとき、彼は医学を志していたルームメートに告げた。ルームメートは「君が大学を逃げ出すなんて信じられないな」と言った。ルーサーは答えた。「なあ、君が医者になり、僕が病気になったら、僕は君のところにリムジンで乗りつけよう。僕は逃げだすんじゃない。僕は自分の夢を追いかけるんだ」
その後、彼はセッションシンガーとして人気となり、自身のグループのアルバムも発表、81年にソロ第1弾 『ネヴァー・トゥ・マッチ』 をだし、以後大ヒットを続出、80年代にもっとも人気のソウル、R&Bシンガーとなった。そして、人気シンガー、プロデューサーともなったルーサーの元にあるシンガーのプロデュースの仕事の依頼がくる。誰あろう、彼の幼い頃からの大アイドル、アレサ・フランクリンだった。
(アレサ・フランクリン=ジャンプ・トゥ・イット)
ルーサーがそのときのことを興奮気味に話す。「僕が子供の頃、もしアレサがレストランで食事をしていたら、きっと頭に血が上って、彼女が食べてるスペアリブでもなんでもいいからサインしてくれ、って頼んだと思う。彼女をプロデュースしないかと頼まれたときのショックを想像してみてよ。81年のことだった。僕は覚えてる。椅子に座って彼女がドアから入って来るのを待っていたとき、僕の心臓は止まったよ。彼女は僕を見るなり、『ヴァンドロス』と言った。彼女はいつも僕を『ヴァンドロス』と呼ぶ。それ以外呼んだことがない。彼女は言った。『私は「ジャンプ・トゥ・イット」が気に入ったよ。やりたいようにやって、終わったら教えておくれ』」
このアルバムは、アレサにとっても久々の大ヒットとなる。そして、それから22年余。2003年5月19日、アレサ・フランクリンは、一月以上昏睡状態の親友ヴァンドロスのために、教会で祈りを捧げる。彼女は「アメージング・グレイス」を歌う。アレサは、ヘッドフォンの中に生きていた少年時代のルーサーに生きる喜びと意味を与えた。そして、今再び、彼に第二の命を授けようとしている。アレサのソウルは叫ぶだろう。「Wake Up, Vandross(ウェイク・アップ、ヴァンドロス=起きろ、ヴァンドロス)」 届け、その叫びよ、ヴァンドロスへ。
(『ネヴァー・トゥ・マッチ』ライナーノーツ=吉岡正晴・著より一部転載)
5月22日、
2003/05/22 (Thu)
Aretha sung "Amazing Grace" for Luther
アレサ・フランクリン、「アメージング・グレイス」で全快の祈り 捧げる
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030522.html
5月29日、
2003/05/29 (Thu)
Promotional Talk
父。
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030529.html
6月13日、
2003/06/13 (Fri)
Luther is out of his coma?
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030613.html
6月14日、
2003/06/14 (Sat)
Now it's official: Luther is out of ICU
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030614.html
6月20日。
2003/06/20 (Fri)
Luther's Album Made No.1 For The First Time In His Life
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030620.html
ソウル・サーチン・ダイアリーは、今一番ルーサーについて読める日記ですね。(笑)
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Song: "Dance With My Father "
Artist: Luther Vandross
Back when I was a child
Before life removed all the innocence
My father would lift me high
And dance with my mother and me and then
Spin me around till I fell asleep
Then up the stairs he would carry me
And I knew for sure
I was loved
If I could get another chance
Another walk, another dance with him
I'd play a song that would never, ever end
How I'd love, love, love to dance with my father again
Ooh, ooh
When I and my mother would disagree
To get my way I would run from her to him
He'd make me laugh just to comfort me, yeah, yeah
Then finally make me do just what my mama said
Later that night when I was asleep
He left a dollar under my sheet
Never dreamed that he
Would be gone from me
If I could steal one final glance
One final step, one final dance with him
I'd play a song that would never, ever end
Because I'd love, love, love to dance with my father
again
Sometimes I'd listen outside her door
And I'd hear her, mama cryin' for him
I pray for her even more than me
I pray for her even more than me
I know I'd prayin' for much too much
But could You send back the only man she loved
I know You don't do it usually
But Lord, she'd dyin' to dance with my father again
Every night I fall asleep
And this is all I ever dream
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7.ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー (訳詞)
2003/06/21 (Sat)
Dance With My Father: Complete Japanese Translate Version
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030621.html
2003/06/21 (Sat)
Dance With My Father: Complete Japanese Translate Version
号泣。
たった4分19秒の間に、これだけの起承転結をつけるんですから、まいります。こういう物語なんですね。部分訳は以前だしましたが、これで完全版。どうぞ、ゆっくりルーサーの世界を堪能してください。しかし、これを聴いた世の母親は、いや、父親もみんな涙するんじゃないか。お涙頂戴もここまで行けば、脱帽です。7歳くらいまでの記憶だけで、これだけの物語を書くのですから、ルーサー、恐るべきストーリー・テラーです。こんな曲、一生に一曲でも書ければ、ソングライター冥利につきます。
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「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」 訳詞(大意)
「それは、僕が子供だった頃、人生がすべての純真さを失う前のことだった。父は僕を高く持ち上げてくれた。父は母や僕と一緒にダンスを踊ってくれた。父は寝付くまで、僕をあやしてくれ、そして2階の寝室に連れてってくれた。そんな時確信したものだ。僕は父に愛されている、って。
もう一度チャンスがあるなら、一緒に父と散歩をしたり、踊ってみたい。僕は決して終わることがない歌をかけよう。どれほど、僕が父ともう一度踊ってみたいと思っていることか。
母の言い付けに僕が納得できない時、僕は父のところに助けを求めに走ったものだ。父は僕を笑わせ、慰め、でも、結局母の言い付けたことを僕にやらせてしまった。
そんな夜遅く僕が寝ていると、父は枕もとにそっと1ドル札を忍ばせてくれた。そんな父がいなくなるなんて、夢にも思わなかった。
最後にもう一度父をどこからかそっと見ることができるなら、最後のダンスを一緒に踊れるなら、僕は決して終わることがない歌をかけよう。なぜって、僕はもう一度、どうしても父と一緒にダンスを踊りたいから。
ときどき、母がドアの向こうで父を思い出してすすり泣いているのを聴いた。僕はそんな母のために、祈った。
僕は無理なお祈りをしたかもしれない。『彼女が唯一愛した人をもう一度生き返らせて』っていうお祈りだからね。もちろん、神様、あなたはそんなことは普通してくれないってわかってる。でも、母はものすごくもう一度父とダンスを踊りたいんだ。
僕が寝るとき、これこそが僕が夢見る夢なんだ。」
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いやあ、いい歌詞だ。いい物語です。特に気に入ったラインは、
If I could steal one final glance
One final step, one final dance with him
というところ。glance は「ちらりと見る; ざっと見る 」という意味。父の姿をたくさん見るのではなく、ちらっとでいいから、見たい、ということになる。しかも、steal one final glance。
これは、どこからか覗き見するニュアンス。きっとルーサーが天国にいる父親をちらっとでもいいから、見たい、最後の一度でいいから、っていうニュアンスですね。see とかwatchではなく、steal~glanceっていうところが繊細なルーサーらしい。
しかも、その後に、One final step, one final danceとone finalでつなげる。これはもう、作詞の技術ですね。職人芸。脱帽です。
そして、最後にちゃんとオチがある。
Every night I fall asleep
And this is all I ever dream
母親をもう一度、父に会わせたい、父親とダンスを踊らせたい、というルーサーの夢。それが、いつも自分が寝るときの夢なわけです。ルーサーのママ、メアリー・ヴァンドロスさんがこれを聴かされて泣かないわけはありません。号泣する姿、目に浮かびます。
ルーサーのキャリア・ソング、堂々ここにあり。
ENT>MUSIC>AWARD>GRAMMY>46th Winners
ENT>MUSIC>SONG>Dance With My Father
■ルーサー・ヴァンドロス/エッセンシャル(ほぼだいたいのヒットがはいってます。最初の一枚でしたらこれで)
エッセンシャル・ルーサー・ヴァンドロス 限定版
ルーサー・ヴァンドロス
(ルーサー・ヴァンドロス特集、明日に続きます)
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