ウイズコロナ時代を生き抜くためのヒント。心の時代と働き方について

      「この事態を予言していた人がたくさんいた?」
新型コロナウイルスのせいで世界中の人の生活と生き方と価値観が日々大変革を遂げています。
2020年の西洋占星術の本を編集した編集者たちは昨年秋に、「大変な変化の年」になると占い師たちから聞いて本を作っていました。それは数十年に一度というものもあれば、多くの記事は240年に一度、500年に一度と書いてあります。これは予言でもなんでもなく少しでも西洋占星術をかじっている人なら世界中の人が知っていた事実らしいです。
ネットで「風の時代の幕開け」とか「土の時代の終わり」と検索すると相当な記事が出できます。それぞれの記事で共通しているのは、お金やモノ偏重の「目に見える物質偏重主義」の時代から、個人の情報やネットワークや知識や感性が重要な「目に見えない偏重主義」=心の時代に入っていくということです。

          「心の時代の到来」
 心の時代ではお金を得るためだけではなくて、誰とどう働くのかかが大切。独りで考える時間が多い今これからの「見えないモノ」を求める時代のはじまりを感じてください。今後、私たちが経験したことのない景気後退が予想されます。これまでのように、売上や利益が上がりにくい組織になると今まで通りの人間関係が保てないこともあります。そんな時こそ、穏やかにだが正しいことを正しく自分の頭で考えてください。

     「私の20代の失敗を通じて伝えたいこと」
 私が20代でやってしまった失敗と30代で天職に出会った日。そしてこれからのことが今来よっている方の何か参考になれば幸いです。

 20代の頃は自分が人と較べてないことばかりを数えてコレクションしていた気がします。時代はバブル。20代は怒涛のように楽しいことかりをして過ごしていました。そして平成になりバブルが弾けてもまだ日本がまだ景気がよかった20代の終わりから30代にかけて中堅の広告代理店の制作部で働いていました。
  クライアントはある企業の広報室。デジタル印刷の移行期で、ポスターや広報誌の締め切りに時間単位で追われていました。深夜2時に印刷会社の営業マンが色校をもってきて早朝4時に戻すという生活。
 当然休日もなく、平日も3日で5時間くらいの睡眠。ある朝。社長室のソファで片足を背もたれにあげてバンッを見せてだらしなく寝ている私に、出勤してきた社長が遠慮して違う場所で仕事をしていたと人づてに聞きました。もちろん私は全く記憶にありません。それからしばらくして会議室にパイプベッドが置かれるようになりました。
  当時はポスターや広報誌の印刷前の校正紙にクライアントが入れる途方もない赤字を反映させるだけの日々でした。寝ていなくて注意力散漫なのでよく校正紙のトンボ(印刷をあわせる目印みたいなもの)を切るときにカッターで指から血を出していました。血だらけの校正紙を戻したことは一度や二度ではないと思います。

    「できないことを人のせいにするくせ」
 時間がないから仕方がない。 若いからできていなくて当たり前。   量さえ人よりもやっていればいい。全て自分本位の考えでした。何より反省しているのは、寝ていない頭で間に合わせるためにやっている仕事をしていたこと。クリエーターとしての能力はさておき、元気で若い私を信頼して仕事をたくさん出してくれていたのに、1本1本精査して与えたられた環境のなかで最高のモノを出す努力はできていなかった。それどころか「なんでこんなに」といつも心でチェッと舌打ちばかりしていたこと。
 会社としては精一杯のポジションを用意してくれていたと思います。但しテレビも新聞も一分も見られないような追いつめられた状態は数年で破綻しました。

        「転職で天職に出会う」
  そんな日々を救ってくれたのは前職のPR会社のオーナーです。広告代理店である大きなプロジェクトのププレゼンをしたら途方もない予算がついてしまいました。それをどうやって進めたらいいのかわからない私に相談にのってくれたのが彼でした。そこではじめてPR会社という存在を知りました。
  話を聞いて魅力的だったのはビジネスモデルです。PR会社というのは手数料ではなくてヒトの使った時間に対して月々いくらで契約します。広告代理店では、よそから仕入れたものに20%程度の手数料をつけてクライアントに請求します。これが利益です。この出来高制のモノにつく請求からヒトにつく請求にとても魅力わ感じました。
初めてそのフィービジネスを聞いた時に広告の世界で、「とれるかとれないかわからない未来の仕事のプレゼンやコンペに大量の時間やパワーを使わなくていい。いつも信頼してくれる目の前の今のクライアントに正しいサービスができる」と思いすぐに転職をしました。しかしキャリアチェンジというよりは、忙しい毎日から抜出してしまいたいと気持ちが強かったかもしれません。


      「転職してから周囲の温かさを知る」
転職はしましたが、私はまだ変われていませんでした。サービス業で生きていく覚悟ができていなかったのです。数年間、息をつめるように働いた疲労が溜まっていてすぐに動けませんでした。
 振り返って気がいたのです。仕事に時間がかかったのは、自分の能力が低かったからだと。もっと人に手伝ってもらえばよかったのに、自分でやらなければいけないいう意識が強かったのは、人に仕事をとられたくないからだと。
  周りに温かくしてもらっていたのに、当時の私は自分ばかり忙しくて可哀そうだと思っていました。あらゆるものを犠牲にして、能力以上の量に立ち向かう私を周囲の人はしても温かくサポートしてくれていました。
 深夜に届けてくれるお寿司も、会社にすぐ揃えてくれたお風呂セットにも心からありがとうと言っていませんでした。


    「続けた先に今後を左右する運命の仕事は必ずある」
 そんな私が変わったのは転職してすぐ33歳の頃あるオーナー企業の社長と会長に出会ったときです。社長は40代。その父親の会長は70代だったと思います。
まず驚いたのはお客様からくるアンケートハガキに、来る日も来る日も手書きでオーナー一族が家族総出で丁寧に返事を書いていることでした。ワープロの文字でもいいのに全て手書きです。その伝統は創業以来、現在も受け継がれています。 
 さらにクレームの電話をしてきた地方のお客様に自ら商品をもって商品の交換に行くと言っています。メーカーとしてお客様に対して真摯に付き合うのは当たり前。

 二度と買わないのではなくて、こうしてクレームを言ってくれるということはうちに期待してくれているからだと教えてくれました。商品を挟んで作ったヒトと使うヒトがここまで仲良く信頼しあえることに感動しました。
  当時は問屋やドラッグストアの流通の意見や顔色をみるメーカーが多いなかこのオーナー親子はひたすら消費者に向き合い続けたのです。既存のユーザーの対話に時間をかけ、悪い意見も含め声を聞くことに膨大な時間をかけます。利益を追求するものが企業だと思っていたので価値観を根底から覆されました。
 私に仕事を教えてくれた会長は出会って7年後に亡くなられました。大往生とも言える突然の別れでした。自分の祖父よりも身近な存在でした。今でも両親の写真と一緒に彼が作った商品レプリカを置いています。

      「天職は人が気づいてくれるもの、30代で出会える」
  広告やPRというのはどのクライアントでも新規ユーザー獲得がゴールですとオーダーを受けることが多いなか、今使ってくれているお客様にラブレターのつもりでコンテンツを作ってほしいと言われました。
  その一言がその後の私の人生を決めてくれました。自分は直接モノを作ったり、ヒトを治療したりできないがいいものを作っている会社や人を応援することはできると確信しました。
 「ここがすごくいい」という良いものを探す目、「なんでこれを作ったのか」を聞く耳と、「こうゆうヒトに良いところをわかりやすく「伝える」コトバを作る力はもしかしたらあるかもしれないと思ったからです。
  そして「こうゆうヒトに使ってほしい」「こうゆうことで世の中の役に立ちたい」と思った心がわかったからです。そのときにこの仕事をそのあと何十年もやるとは思わなかったのです。続けていくうちに自分の天職だと気づくのです。

     「天職に出会えるとストレスが無くなる「」
  天職とは、神様からもらった自分の才能を認めてもらいそれを仕事にすることらしいです。これが私が天職に出会った瞬間です。天職に出会ったあと25年以上。一度も辞めようと思ったことはないから不思議です。天職はヒトに見つけてもらい自分が続けた先にあるものでした。

 そして今もこのクライアントと日々格闘しています。自分がいいと思ったモノをわかりやすく人に伝える仕事。これが自分の天職でした。私はもともと作文を早く作るという能力と、少し面白く話すというのは小学生のときからあったかもしれません。天職のヒントは子どもの頃のそんなところにあったりしました。
 天職にであった後は出会う人、出会う仕事。嫌な思いというのはほとんどしなくなりました。ストレスは20代の頃に較べたら千分の一以下。人に言うまでもなく、寝て忘れるくらいのレベルになりました。


    「40代で独立。大きい会社よりいい会社を目指す」
 そんな私が自分の会社を立ち上げたのは40歳を過ぎた頃。その日は突然やってきました。ある人事異動がきっかけです。世界的な化粧品ブランドのPRの仕事の依頼がきてそこの責任者になってほしいというもの。
 そこのマネージャーになると私のライフワークとも言える私に天職をみつけてくれたクライアントが担当できなくなってしまう。それが一番困りました。その大手クライアントは私に他のクライアントをつけないでほしいというチーム構成までも契約で縛ってきました。
 会社とは何度も話しあいましたが結局折り合いがつかず、円満に退社して結局独立することになりました。
最後の日に世話になったオーナーに挨拶に行くと彼は「大きな会社なんて目指すな。いい会社にしないさい」という言葉を話してくれました。多弁ではないがいつもの優しい語り口でした。
 そこで食とヘルスケアと美容の専門代理店にしたいと話すと「PR会社は欧米では、全て業種を絞って専門性をとっている。それはブティック型といって質の高いサービスをしている」と話してくれました。
 一方私のライフワークとも言えるクライアントのオーナーも話してくれた。「ビジネスは一番近いお客様が大体助けてくれるよ。その人の顔を見ながら仕事をすればきっと長く助けてくれる。大きくしなくてもいいよ。深く正しくやればいいんだ」とこの2人の言葉を今まで一度も忘れたことがありません。

    「好きなことでご飯を食べられるのは幸せなこと」
 好きなことで本業にしてご飯が食べられていることは、この上もない幸せです。20年経っても今も毎日が楽しいと言えるのはある時背中を押してくれたたくさんの方があるからです。
  還暦を前に初めての在宅勤務とか、オンライン朝礼とか新しいことを体験できることは有難いなと心から思います。


  「緊急事態制限発令日に新サービスを開始。次のステージに」
 緊急事態宣言の発令日に、長年温めてきた国内初のオンライン記者クラブをオープンしました。記者発表イベントもない、報道資料もこないメディアにとって、自宅にいながらにして新しい企画の種=ネタが得られることはとてもメリットがあると考えたからです。
 サイトオープンの第一回特集は「すごもり健康法」。身近で今日使えるネタをマスコミ関係者の皆様に届けています。

 ウイズコロナ、アフターコロナは、もう前のように、ヒトとヒトが密に商談し、時間をかけて心を通わせて言う時代ではなく、オンラインである程度の商談ができなければならないと考えたからです。2020年3月初旬のビジネススタイルを変えないとそれぞれが生き残れない時代になりました。

   「人生は一度きり。幸せになるために働いている」

 自分が若い時は、女の人の仕事といえば学校の先生か看護師さんくらいしか考えられませんでした。この歳まで元気に休まず働けているのは、新しいことにチャレンジできるのは、一緒に闘ってくれるスタッフがいるから。私は器用でないので最後まで一つのことだけです。

 これからも食とヘルスケアという生きたるために必要なカテゴリーにこだわり深く長くやっていきたいと思います。70歳までやりたいと思えるのは本当にありがたいし感謝でしかありません。若いスタッフの邪魔にならぬようにこれからも一つの天職に磨きをかけていきたいです。 今は医療関係者の皆様のサポートのボランティアをスタートさせています。最近ではある施設を軽症者受け入れ施設にするように働きかけ実現できるようになりました。

 全ては自分が選んできたこと。必ず見ていてくれる人はいます。その人のためにやっていればこれが終わったときは必ず違うステージにいきます。お金や名誉だけでは感じられない日々働く楽しさを皆様が感じられますようにこれからも文章で伝え続けていきます。

医療ジャーナリスト 食とヘルスケアのマーケティングPR会社

J&Tプランニング 代表 市川純子


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