河内将芳先生に『大政所と北政所』の読みどころを解説していただきました
3月の新刊、河内将芳著『大政所と北政所ー関白の母や妻の呼称はなぜ二人の代名詞になったか』が刷り上がって参りました。3月10日の刊行を予定していますが、刊行に先駆けまして著者である河内将芳先生に本書の意義・特徴・読みどころを解説していただきました。
本書の書誌情報等については、リンク先をご覧ください。
著者の河内先生は中世後期、とりわけ戦国・織豊期の京都を中心に研究を進めておられ、多数の著書がございます。弊社からも2017年に戦国京都の道に焦点を当て都市の変容との関わりを論じた『戦国京都の大路小路』(シリーズ実像に迫る012)を刊行されています。
それでは以下、河内先生による自著解説をお楽しみください。
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関白の母を意味する大政所と関白の妻を意味する北政所ということばは、一般的にいえば、かなり特別なものではないかと思われます。ところが、予想に反して、大政所も、北政所もともに、歴史に関心をもっている人にとっては、かなりなじみのあることばになっているのではないでしょうか。
それは、これまでにもくりかえし小説やドラマなどで豊臣(羽柴)秀吉がとりあげられるさいには、かならずといって、このふたりも登場することに由来するのではないかと思われます。
とくにドラマでは、数多くの有名女優がふたりの役を演じてきましたので、読者のみなさんのなかにも、特定の女優のすがたとふたりが重ねあわせられて、強烈なイメージとして残っているのではないでしょうか。
そういうこともあって、このふたりの人物のうち、とくに北政所については、研究者も論考をあらわしたり、あるいは単著としての人物伝なども発表してきました。ただし、その多くは、どちらかといえば、つるまつや御拾(秀頼)の生母として知られる、いわゆる淀殿との関係に注目する場合が多かったように思われます。
それに対して、本書では、淀殿ではなく、当時の史料でも「両政所」とよばれた大政所のほうに注目し、ふたりの人物が大政所、北政所とよばれた時期に焦点をしぼって考えてみました。
大政所も北政所も、もともと摂関家という家がなくては存在しません。秀吉の場合も、これまた一般的には豊臣家や羽柴家といったことばが、何のうたがいもなくつかわれてきました。ところが、秀吉の場合は、よく知られていますように、摂関家生まれの人物ではありません。
というよりむしろ、家とよばれるようなものを関白に任官した時点でさえ、もっていたのかどうかもあやしいのではないかと思われます。したがって、秀吉にとっては、少なくとも関白に任官した時点から、それにふさわしい家をかたちづくっていかなければならないという重い課題が課せられることになりました。
そのような家がかたちづくられていくなかで、大政所と北政所の存在がどのような意味をもったのか、そのことをさぐってみたのが本書です。これまでとはひと味ちがったふたりのすがたをかいま見ることができればと願っています。 (河内将芳)
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