病院か在宅か
「治療」には色々なオプションがある様に見えるが、実はそれらは「選択しながら固めていくもの(narrow down)」でいくつかあるオプションの中から複数を選んでパッケージ化するという話ではない。例えば、「家で死にたい」という話と「出来る限りの緩和ケアをして欲しい」という二つの事柄は両方とも選べそうな感じがするが、実はそれらは両極にあり、「二択」という話でしかない。両方欲するのは無理な話なのである。6割近い人が家で死にたいと望みながら8割の人が病院で死んでいるという事実はまさにこの為だ。感情的には住み馴れた家で死にたいと望みながら、いざ「その時」が来ると家族の負担や緩和ケアも含めた医療行為をどうするかという現実が目の前に現れ、結局「苦渋の妥協」で病院を選ぶ人が多いのだと思う。
少し言い方は悪いが強引に栄養補給を行う中心静脈を選択する場合、その目的は「回復」であるべきだ。回復する見込みがないにも関わらずそれを続けた時、それは「治療」の一環ではなく「延命措置」となる。延命措置を取る場合、本人が「生きる望み」を持っている事が第一条件になると思うが認知症で本人がその判断が出来ない場合は、その人の人となりや正常だった頃の言動などから判断してその人が今おかれた状況下で果たして延命を望むかどうか、という想像を巡らせ、誰か(多くの場合は家族になると思うが)が代わりに判断をしなければならない。ここで注意しなければいけないのはあくまでも判断をする主体はその本人であって、判断を下す人(家族)であってはならない。その人を一日でも長く自分のそばに置いておきたいから、自分がその人の死を早める決断をするのは苦痛だから、という理由で延命措置を続けたり、逆に、これはあってはならない事だが、介護が面倒、お金がもったいない、といった理由で措置を終らせる判断をするというのは間違いだ。
一旦は自宅で介護を始めたものの肺炎が再発で病院に逆戻り。どうせ振り出しに戻ったのならそもそものところまで話を戻そう。今回は次に生かす事が出来る学びが多くあったが、その学びの為に何度も本人を苦しめる事は本筋から外れている。リハビリ病院で比較的元気な姿で居るのを見てつい希望を持ってしまったが、その希望が希望的観測となり甘い看・介護プランのまま実行に移したことが多かれ少なかれ今回の失敗に繋がっていると思う。完璧な介護・看護環境下での健康管理、薬液の投入、頻繁な喀痰吸引がなされた上で生命がなんとか維持され、そこにリハビリを行う事が出来たから比較的元気で居られた訳で、その介護・看護という生命維持の為の土台部分がおぼつかない自宅に連れて帰って来れば病院に居る時以上の状態に回復する可能性は低くなる。それは療養病院といった施設でも同様だ。今いるリハビリ病院の体制以上の体制が整っているのなら別だがそれ以下であれば坂道を転がる様に状態は悪化していくだろう。しかも我々が見えないところでまたいくつも間違った(我々が好んでいない)判断が繰り返されさらに本人を苦しめる事になる可能性だってある。
客観的に見ても夜中に何度も痰の吸引作業を行い、毎日一袋の栄養剤を一日かけて(点滴をつなぎっぱなしで)投与しないと生きていけない状態の人を医療スタッフがひとりも居ない家に戻し、最後の瞬間が訪れたらその絶妙なタイミングで、昼夜問わずに医師に来てもらって緩和ケアを行う、、、と願うところに「無理」がある。しかも中心静脈栄養をやっている段階で既に自然な状態ではない訳だから、自然の状態では起きないような事態も起こりうる。例えば経口で栄養が取れない(食べられない)状態の人に中心静脈などの医療行為としての栄養補給を行わなければその人は肺炎を起こす前に衰弱して死んでしまったかもしれない。ところがその人に中心静脈で栄養補給を行う事で何カ月も生きながらえ、ある程度の体力があるところに肺炎を起こしたりする。人工的に作られたある程度元気な状態で肺炎を起こすから苦しむ事になる、という考え方も出来る。そうして肺炎で苦しんで死ぬのがイヤなのであれば家で死ぬことを諦めて療養型病院に最後を託すしかない。そこに至るまでの間に間違った判断がいくつか繰り返されるかもしれないが、少なくともそこに至った時にはある程度の緩和ケアが出来る医師や看護師がそこにはいるからだ。
さらに「そもそも」の話をすると、そもそも回復を目指すべきなのだろうか? 回復を目指す場合はリスクが伴う。No risk no return. No pain no gainはこの世の中の摂理と言えるかもしれない。2時間おきの痰吸引、食べ物は食べられない、おむつに尿道バルーン、ほぼ寝たきりの生活、、、その苦痛と引き換えにでも生きれるだけ生きて回復を目指したいと彼は思っているのだろうか? 自分ならそう思うだろうか? 希望を捨てずに最後まで苦しみに耐える事が出来るのだろうか?仮に在宅で看護師を増員出来たとして、充分な喀痰吸引体制と看・介護体制を作る事が出来たとして、回復するかどうか分からない長い道のりをこれらの苦痛と共に生きていく事が出来るのだろうか?
TPNを止めて穏やかな死を目指す事が「逃げ」や「諦め」「絶望」といったネガティブな事なのか?そもそもこの技術が無ければ嚥下問題が起こった段階で食べられなくなり、衰弱して死んでいくか、喉にものを詰まらせて窒息死している筈だ。この技術によって生かされているので新たに痰吸引、尿道バルーン、、、と言った苦痛が生まれそれが継続していると言えないか?それは人が人として生まれ死んでいく為に必要な苦痛なのか?
自分なら望まない。ここでよい。 彼に置き換えた場合、、、彼も同じ様に考える気もするが、「最後まで粘る」と言いだす可能性も否定できない。