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旭橋の記憶

 昭和16年、大町2条1丁目で生まれた私は、旭橋と大雪山を見て育った。
 昭和23年10月23日、ソ連に抑留されていた父が復員してきた時、霧雨の降る中、旭橋を渡って駅まで迎えに行った。嬉しい気持ちで一杯だった。
 子供の頃(昭和31年迄)、旭橋を市電が走っていたことも よく覚えており、懐かしい思い出として残っている。
 母が『町に行くよ』というときは、何か良いことがあった。よそ行きの服に着替えた。
 私にとって、旭橋を超えると、そこは街であった。
 ロータリーから少し行ったところに「トラヤ」というアイスキャンデーの店があり、そこに必ず寄ったこと、また、味のデパート十字街亀屋で、冷麦の中に西瓜が入っているのが唯一 私が大好きなご馳走でした。
 商工会議所の3階(現在地にあった旧建物)には小劇場があり、総天然色(当時は、そう言った)の「小鹿のバンビ」などの映画を見たのも懐かしい思い出です。
 小学校の遠足(昭和27年)も、大有小学校から旭橋を渡って常磐公園まで行きました。
 その当時、トラックなどがあまり普及してない頃でしたから、大きな荷物の運搬には馬車や冬ですと馬橇が使われていました。
 冬の雪道を行く馬橇には、沢山の荷物が積まれていましたから、荷物の後ろに隠れるように馬橇に乗って、護国神社から旭橋を超えて常盤通りまで乗って遊んだこともありました。
 昭和30年代初め頃は、まだまだ車の少ない時代でしたから、年末の正月の買い出しの時など、父が国鉄に勤めていたので、大町の自宅から旭橋を渡って宮下5丁目の国鉄物資部*まで行くのが毎年の恒例になっていました。帰りの橇には、ミカンの大箱・落花生・俵に入った干し芋などなど が沢山乗っていました。冬の旭橋は、寒風が吹きすさぶ厳しいものがありました。 *編者注 国鉄職員のためのストアー(大型売店)のような施設。
 30年代の思い出としては、川の水量も多く水深も深かったので、橋の上から飛び込む人がいたり、釣りを楽しんでいる人もいました。
 夏休みになると、近所の友達と大きな網を持ってドジョウを獲りに行きました。豆腐とネギを入れたドジョウ鍋は、体に良いからと、いつも食べさせられました。
 年代は覚えていませんが、橋を渡るとき、いつもパルプ工場の廃液の悪臭がしていたことは記憶に新しいです。毎年恒例の花火大会は、橋近くの堤防に寝そべって、オヤツを食べながら観ていたものでした。音楽行進は、以前は、橋を渡って行進していました。市役所に勤務するようになってからも毎日、歩いて旭橋を渡り通勤していました。吹雪のときの橋上は、冬の厳しさを痛感する場所で、その寒さは忘れることができません。
 旭橋とともに71年。旭川の顔としての旭橋をこよなく愛する私は、グッズを集めて、資料を集め、毎日違った表情を見せる旭橋の写真を撮り続けている。そして機会あるごとに展示し紹介している。これからもまた…
                     旭橋とともに71年 百井昌男

旭橋架橋80周年記念誌


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