『エビス・ラビリンス』試し読み(14)

「水の器」 細田諒

 彼女はいつからか長いこと恵比寿駅のそばに建つマンションで暮らしていた。駅から緩やかに続く坂道を上ると、白い外観のシンプルなデザイナーズ物件が見えてくる。ひとり暮らしの彼女には広すぎるファミリータイプの間取りで、初めて招き入れられた時には変に勘ぐったことを覚えている。どの部屋にも整然と家具が並べられ、洒落た観葉植物には手入れが行き届いていていたが、反面、全くと言っていいほど生活の気配がしなかった。人が暮らしている家では当たり前に見ることができる、床や家具の小さな傷、料理をしたキッチンに残る香りの類を感じなかった。その一人では広すぎるとも思える 空間で感じ取れる生活感のなさは、もしかしたら彼女自身が人や物に対する執着やこだわりを捨てて諦めてしまったからではないかと、僕ながらに推測していた。
 僕はある時からごく自然に、そんな清音の心の内に興味を抱き、もっと深くその揺らぎを知りたいと思うようになる。ときどき恵比寿の部屋を訪れて、食事をご馳走になったり、映画や僕のライブ映像を観たり、時には朝までただとりとめなく話しをして時間を過ごすこともあった。あの頃の僕たちは仲の良い友だち同士で男女のそれではなかったけれど、相手をそういう対象としてどこかで意識し始めて、そんな自分の気持ちの変化を自覚したことを懐かしく覚えている。季節が一つ進んだ頃、僕は彼女がとても潔癖症で心配性なことに気付いて、理解して、そんな彼女に恋をした。
 このマンションを上空から見下ろすと「ロ」の字の形をしていて、回廊のような造りをしているらしい。「ロ」の字の内側にあたる中庭には、オーナーの好みで数本の桜の樹が植えられていて、ここ数日の暖かさで花を咲かせ始めていた。手入れの行き届いた芝生も青々としていて、清音の部屋からはそんな風景が一望できる。特に夕暮れや夜明けの空の色や空気の密度が変わる時間帯には、どこまでも幻想的で美しい春の蜃気楼のような光景を眺められる場所だった。
その日は夕暮れから窓越しに遅めの今年の春を楽しみながら、二人で桜の花びらが浮かんだ甘めのワインを飲んだ。自分でも驚くほど気持ちが行ったり来たりしているのが分かって、ワインで心地よく気持ちが高揚したせいか思いがけず学生の頃の幼い恋心を思い出してしまった。たぶん清音も同じように落ち着かなかったのだろう。何時間も本音を滔々と語る不思議な夜だった。この女性とこんなにもゆっくりと心地いい時間が流れるようになるとは思いもよらなかった。そして、思いがけず触れてしまった自分の気持ちが、自然と言葉になってするりと口から零れ落ちる。
 「僕たち、そろそろ付き合おうか」
 僕が独り言のように言うと、彼女が小さくほほ笑んだ顔を見せた。
 「嬉しいな。やっと言ってくれた。でも、私たちって今まで付き合っていなかったんだっけ?」
 茶化すように、でも頬を赤らめながら嬉しそうに言う笑顔に誓う。僕はこの宝物の期待を裏切らない。何よりも大切で僕の世界を輝かせてくれる清音という存在を。

 夏特有の駅のホームの熱気と湿度に溺れそうになりながら混雑した恵比寿駅の人波をかき分け、魚のように改札を泳ぎ抜ける。金曜夜のどこかそわそわした街の空気に私は息を詰まらせながら、自宅とは逆方向の渋谷川を目指して歩いていた。テールランプを光らせる交差点から連なる車列をやり過ごすためにふと立ち止まると、川べりからの風が頬に当たるとふわり夏の香りがする。
 今夜のライブが終わると無期限の活動休止に突入する若手アーティストの姿を見ようと、逸る心を抑えながら川に面したライブハウスの建物の中に入った。メインのフロアには、私よりはるかに若い子たちが思い思いの姿でひしめき合い、始まりの時を彼の音を待っている。集まった人の多さと空気の密度のせいか、私は苦しくてたまらなくなっていた。八月に入って暑い日が続いているからかもしれない。さまざまな方向から聞こえてくる「酷暑」という言葉にすらうんざりしている。
 彼、芹澤有文は、三年前のメジャーデビューからまさに破竹の勢いで日本の音楽チャートに記録を刻み、私たちファンの心にもアーティスト芹澤有文というさまざまな記憶を残し走り抜けた。ネット動画や定額制の音楽配信サービスを利用する学生から二十代を中心とした若い世代のクラスタに、彼の楽曲たちは馴染み深いのだろう。ネット動画の再生回数だけを照らしても、この数年で若い層の誰もが彼の創る音の世界に触れていたと言っても過言ではないくらいの数字をたたき出していた。
(続く)