『文章講座植物園』試し読み 櫂 十子「シックスティーン・キャンドルズ」
櫂 十子「シックスティーン・キャンドルズ」より抜粋。作品ごとに異なる挿画もお楽しみください。
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新保光四郎が「体幹鬼強糞爺」になったその日は、光四郎の四十回目の誕生日でもあった。
残業終わりの午後九時過ぎ、光四郎はオフィスのある小さな雑居ビルから外に出た。
ぴりりと冷たい空気が光四郎の身体を包み込む。試しに、はぁと息を吐いてみると怪獣の光線のように白い息が伸びた。
「母さんの言う通り、コートを着てくればよかったな」とぼんやり考えながら、薄灰色のスーツを着た光四郎が短い首をさらに短く縮め、背中を丸める。
暗い空の下、街灯やオフィスビルの窓が光り、まっすぐに伸びる歩道を照らしている。その先にあるJRの駅に、人が次々と吸い込まれていく。光四郎もその後ろに続き同じように歩いていく。
高架下に造られた駅の構内に足を踏み入れると、ぱっと白い光が飛び込んできて目が眩んだ。
今朝、「ケーキ、買っておくからね」と送り出してくれた母の姿を思い出しながら、地味な色の背中が並ぶ改札にちらりと目をやる。その前を素通りし、線路の向こう側に広がる歓楽街へと向かう。目指すのは、すっかり行きつけになった居酒屋のチェーン店だ。
光四郎が短い腕と脚を動かし身体を左右に揺らし、のそのそと駅を通り抜ける。再び暗がりに出たところで、後ろから「新保さん」と声をかけられた。
立ち止まって振り返ると、ついさっき会社で別れたばかりの藤田淳史がいた。光四郎が「藤田くん」と呼ぶ五歳年下の後輩だ。走って追いかけてきたのか息を切らしている。
その藤田くんの姿を見て「忘れ物でもしたかな」と慌てて胸元に手を当てると、スマートフォンはちゃんとスーツの内ポケットに収まっていた。
「新保さん」と、もう一度言って藤田くんが横に並ぶ。背の高い藤田くんを見上げながら、
「どうしたの。お客さんからお怒りの電話でもあった?」と尋ねる。
「いえ、仕事の話じゃなくて。これ」
濃紺のダッフルコートのポケットに片手を突っ込んだ藤田くんが、スマートフォンを取り出しその画面を光四郎の顔の前に突き出した。
橙色の囲みの中に「ランキング 人気ツイート」と書かれたアプリが表示されている。
中央には「体幹鬼強糞爺」という読み方のよく分からない漢字の羅列がある。その横の四角いサムネイル画像には、背が低く、丸みのある背中の映った写真。薄灰色のスーツを着た光四郎の後ろ姿だ。
そのアプリは光四郎のスマートフォンにも入っていて、ツイッターで人気のある投稿をリアルタイムでランキング化するもの、ということは知っている。のだが、そこになぜ自分の写真があるのか理由がわからず「なんだい、これ」と、独り言のように声が出た。ちなみにランキングは十位である。
「この写真、新保さんですよね」と、藤田くん。
「うん、そうだね。よく僕だってわかったね」
「……同じスーツを着てたんで」
と、藤田くんは言うが一番の理由はおそらくそこではない──
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続きは『文章講座植物園』にてお読みいただけます。
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