『エビス・ラビリンス』試し読み(10)
「あとは猫背を直すこと。」 坂之上コ又郎
鏡の中から、口を半開きにした顔がこちらを見返している。駅ビルの、とあるお店で女性店員が着せてくれる瞬間、文江でも聞いたことのあるヨーロッパのハイブランドのタグが目に入り
「お素材ですか? ムートンになります」
羊のお肉はいただきますが毛皮は初めてです。予期せぬ事態。
艶やかな黒のショートコートにくるまれた文江はつい先ほど映美ご推薦の美容院へ行ったばかりだからヘアスタイルも垢抜けていてそのまま外資系ホテルのティールームにでも繰り出せそうだ。ぺたんこ靴と腑抜けた顔さえ、ふさわしいものに換えたなら。あとは猫背を直すこと。
ウィンドウに飾られたコートの素材が何か、文江は知りたかっただけなのだ。毛足が短く、入念に手入れされた巻き毛のような艶のある漆黒。近くにいた店員の、初対面とは思えない笑顔に包み込まれてしまい目を留めて二分後には、鏡の前でコートを試着していた。
手足の長い彼女は身をかがめ、文江の耳元で説明してくれる。
「お素材ですか? ムートンになります」
初めに目にした大きくやや肉厚なタグの残像とコートの着心地とが、初めてお目にかかる文江をもこれは大層なブランド品に違いないと納得させた。一瞬、息が詰まった。口呼吸になっている。体内の温度がじわりじわりと熱くなっていくが、これは外套としての機能だけが理由ではないだろう。脂汗が滲んだりしたら、つけちゃったりしたら一大事。
「いやあ、さすがにあったかいですねえ。意外と見た目より軽いんでびっくりしました」
「そうなんですよね、うふふ。カジュアルな格好にも似合いますし、パーティーにお呼ばれした時に、ドレスの上に羽織ったりするのにもお薦めなんですよ」
お呼ばれ。お呼ばれって? と言葉を脳内でひっくり返しながらコートを脱がせてもらう。後学のためというかやはりさすがに気になっておずおずと値札を見た。
六桁の数字が小さく淡々と印刷されている。
弟の芳文が一人暮らしを検討中だ。このコートは家賃何回分にあたるのか。職場最寄りの『ごん多』や『魚虎』ならお昼を何回食べられるか計算する。ハワイだってお土産代込みで何回も行ける。こんな殺風景な値札じゃなくて、威風堂々たる相応しい値札で飾られるべきコートではないかなどと考える。このコートが、誰かの人生に必要欠くべからざるものになったりするのだろうかと小首を傾げてみたりする。
駅ビルとは背伸びした値段の贅沢品も置くけれど、もっぱら日用品を扱うところだと文江は思っていたのだ。なのに只事ではない素材とお値段のコートが気軽に飾られていてうっかり試着してしまうだなんて。いやいや、ここが恵比寿という街だからに違いないと、文江は納得できそうな理由を見出した。恵比寿は隣の代官山とあわせて品質とセンスの良さで世の中から一目置かれているはずで、その真髄にほんのちょっぴり触れたということなのかも知れない。
文江は駅ビルについての価値観を改め恵比寿という土地への理解を少し深めたつもりになって、お店から無事に退却するためのセリフとタイミングを思案している。
さて大いに動揺しつつも無傷で店を立ち去ることに成功した文江は、土曜の恵比寿の雑踏へ踏み出した。未知の体験から解放され「ふう」と息を吐く目の前で、ブルゾンの上にエプロンを着けてスクーターに跨った女性が「ふう」とまったく同じタイミングで息を吐いた。女性は信号待ちをしている。やはり何かの緊張から解放されたのだろうか。
「ね、ね、文ちゃんもいよいよ、身だしなみだけの化粧とか服選びじゃなくてさ、色々工夫してみてもいいんじゃなあい?」
(続く)