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思い出せないけどあるもの、それは向田邦子……

家でウダウダしていた夕方、もうそろそろ日も暮れようかという時間だったのだが、なんとなく何ものにも集中しきれず、思い切って駅前まで歩いた。
日中の太陽はまだギラギラしているが、傾きかけた時分にはちょっと、ほんのちょっと、気の所為か? という程度だけ角が取れたような。
学校帰り、またはこれから塾へか、制服はちらほら見かけるが仕事終わりのワイシャツたちの姿にはまだ少し早いらしい。

そう言えば図書館の本も期限が迫っていたなと、チェーンの喫茶店に入る。
読み進めるうちに、ふと店内でかかっているBGMが耳に入った。

普段は最近の流行りだろうが古典のクラシックだろうが、すべからく平等に興味が薄い。
生演奏や超絶技巧を凄いな、映画のストーリーに合ったBGMをカッコいいな、と思う気持ちはあるしYoutubeで探して聞いたりもするが、それ以上には動かない。詳しく知りたいという考えがないのだ。
なので店内に流れるBGMも当然のごとく聞き流していたのだが、ふとそれの存在に気づいたのは聞き覚えがあったからにほかならない。

流れていたのは日本の音楽ではない。
洋楽、ジャズだろう。
たるん、と気だるそうな空気を含んだ女性シンガーの声。
一度聞いたら忘れない、という聴覚に優れた理由でこの自分が覚えているわけはない。なにか理由があって何回も聞いただけだ。
なんだっけ、なんだっけ、と浅い記憶の引き出しを引っかき回してハッと思い出した。

向田邦子だ!

向田邦子がなんかのエッセイで書いてたジャズ。
気になって普段は近寄りもしないタワレコまで行ってCDを探して、何回も聞いたから、それで覚えていたのだ。
意識は読んでいた本から一気にそちらに向かう。

あ〜、それで、どんなエッセイだったっけ?
確か、何かを食べながら聞くのにピッタリ、とかいうエッセイ。
向田邦子が好んで食べる、確か甘いものだったような気がする。
……アイスクリーム?
うーん、なんか違うな。
プリン? パンナコッタ?
近い気もするけど、昭和の時代でそれほどオシャンな食べ物ではなかったような。
えー、なんだっけ、なんだっけ。
そんでこの女性歌手もなんて名前だっけ。
うーん、うーん、……。


結局その場では最後まで思い出せなかったのだが、引っかかっていた記憶の欠片に驚いた。
普段から記憶力に優れているわけではない。むしろ逆で忘れっぽいし、最近はとみにひどい。
なので、例えば日常生活の何気ない時に何気なく文芸作品なり偉人の言葉なりを引用する人を凄いと、なんならカッコいいと、常々思っている。自分には出来ない芸当であるから尚更。
夜道を歩いていて月が出ていた。そこでサラッと古今和歌集の短歌なんか呟かれたら、惚れてまうやろ……。(いやでも「この世をば…」と言われたら白けるけど)

こんな調子なので、不意に我がこととして目の前に転がり出てくるとは思ってもみなかった。
まぁ凄いと思っているのは、その場に相応しい記憶を相応しい時に呼び起こし結びつける力であって、単に思い出しただけの今回とは意味が異なるけれど。
ともかくそんなに向田邦子、好きだっけ? と首を傾げてしまう。
たまたま自分の感性に合っていたのか、読んだ時は今より記憶力も若くあったときだからか。

断言は出来ないけれど、やっぱり向田邦子の文章力が成せる技な気がする。
向田邦子はこうしてチョイチョイ、生活に顔をのぞかせる人なのだ。



帰ってから改めて調べてみたら「水羊羹」であった。
そして女性歌手の名は「ミリー・ヴァーノン」
自力で思い出せないのは残念であったが、ようやくスッキリ。



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