道徳警察と政治的分断(にも理由はある)ーー橘玲『事実vs本能』(集英社)と桃山商事(ポッドキャストEp27)
今日も「道徳警察」がネットを巡回している。筆者は「正義依存症」と呼ぶが、評判格差社会において自分のステイタスをコスパよく上昇させるには、自分よりも不道徳なものを見つけて批判すれば、相対的に道徳は上昇するので、道徳警察も正義依存症も、それなりに「合理的」な行動だと言える。評判格差社会におけるステイタスの構成要因は、成功、支配、美徳、それに個人や集団へのアイデンティティ融合がある。最後の一つは、「日本人アイデンティティ主義者」がそこここに見出せる理由である。
本書は、2016年から2019年にかけての時事問題をとりあげて、いかに本能が事実をねじまげて見てしまうか(バイアス、偏見)を指摘しながら、事実ベースの議論をしている。筆者が一番根底におく事実とは「人間も進化圧を受けてきた動物であり、人間の脳には生存に最適化したプログラムが埋め込まれている」というものだ。このプログラムは旧石器時代では良かったかもしれないが、高度に複雑化しグローバル化したうえで流動的な現代社会においては、さまざまな場面で不整合を見せている。この事実を見つめた上で、どう社会の問題を解決(調整)していくのか? という話をしている。
リベラル化した社会では、誰もが「自由に生きる」ことが認められ、それゆえに、自分の理解できない思想・信条の持ち主と遭遇したときに、「相手を尊重しなければならない/相手を理解できない」の板挟みとなり、認知的不協和が生じる。フィルターバブルに閉じこもるか、欠如モデル(相手が間違った認識をしているのは正しい知識が不足しているからだ)を採用し「啓蒙」しようとするか、その裏返しとして陰謀論を信じるか。いずれも、リベラル化の結果だろう。
先日、桃山商事のポッドキャストを聞いていた。お悩み相談で、「ノンポリだった配偶者(夫)がYouTubeの政治系動画をみて立派な「ネオリベ」になり、困っている」というものだった。政治に関心を持とう! というと聞こえは良いが、関心を持った結果が、自分と異なる思想である場合、ううむ…となってしまうのだ。これは、原理的に解消できないのだろう。桃山商事の人たちは、ゆっくりと丁寧な対話を重ねることで、「相手がその思想に興味を持つに至る理由」を知るようになると、思想に共感できなくなても、思想を信じる態度は理解できるかもしれない、と言っていた。その通りだし、これが最適解なのだろう。
最初に趣味と政治の比喩から入ったが、趣味の好き/嫌いと政治の好き/嫌いは根本的に異なる。政治は、資源分配の話であり、トレードオフだからだ。趣味だと、いくつものものを同時に応援することは(時間の許す限り)できるが、政治的判断だと、そうはいかない。有限な資源(税金など)を、Aに分配したら、Bには分配できない。ということは、ある夫婦がAを支援する政治家とBを支援する政治家に支持が分かれた場合、趣味の時のような妥協(というか、諦め)にはならない(なりにくい)。
日本は政治的な多様性、政治についての会話をする文化・慣習がない、という指摘もあった。確かに、そうなのだろう。多様であったはずだが、多様性を抑圧し、均一であろうとし続け、結果、政治的な議論や話し合いを「平和的に(ケンカすることなく)」おこなう訓練をしてこなかった。これは本当にそうだろう。そうなのだが、そのような訓練をしてきた国で、では分断や対立が起こらないかというとそうではないのは、ザ多様性国家・アメリカを見ればわかる。そのような教育・訓練は絶対に必要だが、それだけでは足りないのだろう。