反出生主義についてのメモーーデイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった』(すずさわ書房)

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった』(すずさわ書房)を年末年始に、読んでいた。読み終わらず図書館への返却期限が来たので、読めた範囲での読書メモを残しておく。再読したらメモを追加したい。

「存在することは、害悪である」という立場をベネターはとる。存在(生まれてきたこと)と非存在(生まれなかったこと)の非対称性が根底にある。存在していると苦痛がある(悪い)、快楽がある(良い)だが、存在していないと苦痛がない(良い)、快楽がない(悪くはない)となり、存在していると悪い+良いである一方、存在していないと良い+悪くはないとなり、比べてると存在していない方が良くなる。

非存在が快楽を感じないことは、「悪くはない」。快楽を得たいと思って快楽が得られる場合は「良い」が、そもそも快楽を得たいという気持ちがなければたとえ快楽が得られても良いわけではない。存在していなければ、快楽を得たいという気持ちを持ちえないので、快楽がないこと自体が損失(悪い)にならない。だから非存在が快楽を感じないことは「悪くはない」。この存在と非存在の非対称性(単純に良い・悪いをひっくり返した状態ではないこと)が、ベネターの反出生主義の根幹にある。(詳細はp.48)

「生まれてこない方が良い」は、「生まれたものは死んだ方が良い」ではない。生まれる前の状態と生まれた後の状態は、原理的に比較できない。生まれた後は、生まれる前に生じなかった利害が発生している。この利害はポリアンナ効果(楽観主義的バイアス)により生きる方へ増幅しやすい。ベネターの導く道徳的な結論は、人類は人口を減らしていきやがて絶滅するべきであろうとなる。ただし、「そうであるべき」は「そうなるだろう」とは異なる。

ここからは私の雑感。ベネターはかなり丁寧に(ねちっこく)場面わけをして、ひとつひとつ「存在することの害悪」を示していく。確かに、と論理的な納得はできる。が、論理的な納得だけで私は生きているわけではなく、じゃあポリアンナ効果の影響下じゃんといわれれば、その通りである。人間の「賢さ/愚かさ」とは何か
、という話と関係しているのだろう。生き物としての「賢さ」とは遺伝子を残すことだが、これを人間としての「賢さ」とイコールで結んで良いのか(良くないだろう)。ベネターも過去の哲学者に言及していて、反出生主義という発想は昔からあるのだろうが、近年、注目されている(ようだが)のはなぜか、と考えるのは大事だ。地球環境が不可逆的に悪化し子孫のQOLを保てない、かつSDGsの大合唱のなか未来の環境に現在の私たちが責任を負いながら現実的な方策を実行できずにいて、私たちは自発的に無力感を学習し続けている。という21世紀的なバックグラウンドは関係しているはずだ。ミニマリスト的に、自分の身の回りだけは自分の制御下において、自己効力感を高める「ていねいな暮らし」戦術は、戦術としては間違っていないだろうが、巨大な撤退戦という戦略(大きな計画)を変えるにはいたらない。どれほど選択肢を絞り、効力を感じられるものを選び続けても、そもそも「選択」自体が自己効力感を削る、ベネター風に言うならば「快楽を得ようとしてしまう姿勢(=選択)」が生きることへの害悪なのかもしれない。

「コスパ良く生きることを考えるなら、死ぬしなかい」とはとある日本の哲学者がぼやいていたことだ。選べるものを増やすことが洗練された文明の意味だとされると、コスパを求めるのも文明の必然か(あるいは資本主義の)。コスパを求めても、決して効率化されない究極の壁があり、それはベネターのいう存在と非存在のあいだの非対称性だ。効率化を目指す文明が絶対に壊せない壁に直面すると、自己効力感はいちじるしく損なわれる。この不全感が社会に堆積しつつあるのではないか。


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